【科学の本質を探る㉟】脳科学の未解決問題(その4)クオリアと意識の謎は解明できるか? 阿部正紀

2016年3月28日21時36分 コラムニスト : 阿部正紀 印刷
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前回は、チャーマーズが、物質でできた脳から主観的な心(意識)がどのように生じるかを説明できないことが最大の難問であると主張し、これを「意識のハードプロブレム」と呼んだことをお話ししました。

今回は感覚を通じて心に起きる「クオリア」が意識の基本的要素であることを説明します。そしてクオリアのような主観的な要素を排除して成立している科学では、クオリア(意識)を解明できないと考えるパラダイムと、解明できると考えるパラダイムが存在することを述べて、科学の本質を考察します。

【今回のワンポイントメッセージ】

  • 「意識のハードプロブレム」は、ミクロ世界に関する「量子力学の観測問題」(第3回)よりもさらに根源的に哲学に関わり、困難極まる科学の未解決問題である。

クオリアと意識の謎

チャーマーズは、意識の問題の本質は「クオリア」にあると論じました。クオリアとは、私たちが感覚(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚など)を通じ心に感じる「感覚の質感」を表します。

例えば、赤い色、あるいはリンゴを見たときに私の心の中に起こる「赤い色の感じ」「リンゴの感じ」を表します。また、バラの花の香を嗅いだときの「あの感じ」や、面白い映画を見ているときの「ワクワクする感じ」などもクオリアです。

「赤い色」が持つ物理的な性質(波長、エネルギー)や、視細胞に与える効果、そこから生じた電気信号に含まれる情報などをいくら分析しても、なぜ「赤い色の感じ(クオリア)」が私の心に起きるのかを説明できません。

朝目が覚めて意識が戻ったときから、いろいろなクオリアが次々と心に起きます。このことからも、意識とはクオリアの流れであり、クオリアが意識の基本的要素であると考えることができます。

神経細胞の物理・化学的な振る舞いから主観的なクオリアに満ちた意識がどのように生じるのか、という問いに答えられないことが、脳科学における最大の未解決問題だとチャーマーズは指摘したのです。

この状況は今も変わりありません。前回説明したように脳科学者たちは、主観的なクオリア(意識)が脳で生じるメカニズムを、さまざまな作業仮説に基づく自説というパラダイムの中で研究しているのです。

クオリア(意識)は解明できるか

自然現象を数学的法則で記述する近代科学の方法論を確立したのはガリレイです(第21回)。彼は、物体が持つ大きさ、形、運動速度など数学で扱える性質のみを用い、物体の色、音、匂いなど感覚で捉えられる性質を切り捨てて力学を作りました。

ガリレイの力学が大成功を収めたために、ガリレイをはじめとする多くの人々が、感覚的な要素を切り捨てて数学を用いる科学こそが、世界の真の姿を捉えているに違いないと信じるようになり、今日に至っているのです。脳科学もその延長上にあります。

従って、クオリアは科学で解明できるかという根本的な問いに関して、脳科学者の間には次のような二つの考え方が存在します。

  • 感覚で捉える主観的な要素を排除して成立している科学では、主観的なクオリア(意識)を解明できない。
  • しかし、そのように考えるのは時期尚早である。もっと科学が進歩すればクオリア(意識)を解明することができるはずである。

つまり、科学によってクオリア(意識)を解明できると考えるパラダイムと、解明できないとするパラダイムが存在するのです。

意識をめぐる哲学的議論の難しさ

哲学者の大森荘蔵は、次のように述べています。[『物と心』、大森正蔵著、東大出版会(1989年)25ページ]

「かつて科学は哲学の土地を離れ・・・ることによって巨大な進歩をとげたが、その進歩そのものによって再び哲学の地に接せざるを得なくなったように思われる。その哲学の土地とは何の変てつもない日常茶飯の経験である」

「日常茶飯の経験」とは、私たちがクオリアに満ちた意識で日常的に得ている主観的な体験を表しています。そして大森は、この主観的な体験を説明しようとする哲学的議論は、泥沼の中を歩むように困難至極である旨を述べています。

脳科学の若い研究者のために書かれた書籍の序章の最後に、「不毛な哲学論議には目を向けないで、科学としての心の解明に専念することがわれわれの立場であろう」と書かれていました。[『脳と心のバイオフィジックオス』松本修文編集、日本生物学会シリーズ・ニューバイオフィジックス刊行委員会編、共立出版(1998年)29ページ]

20世紀初期に行われた量子力学論争で、ボーアは、アインシュタインが投げ掛けた哲学的な難問、すなわち量子力学の観測問題に若い研究者が取り付かれないで研究を推進するように勧めました(第3回)。同じ趣旨の勧めが上記の書物で「意識のハードプロブレム」をめぐってなされているのです。

しかし、量子力学の観測問題と意識をめぐる哲学的議論との間には根元的な違いがあります。前者では、量子力学によってミクロ粒子に関する実験結果を正確に予測できるけれども、その基礎にある解釈に関して哲学的な論争がなされています。ところが後者では、そもそも科学的方法で主観的な意識を解明できるかという極めて根源的な哲学上の問題が問われているのです。

科学には、ミクロ世界に関する「量子力学の観測問題」および主観の世界に関する「意識のハードプロブレム」という哲学的な未解決問題が存在しているのです。

【まとめ】

  • 感覚を通じて心に起きる「感覚の質感」すなわちクオリアが意識の基本的要素である。
  • クオリアのような感覚的な要素を排除して成立している科学では、クオリア(意識)を解明できないと考えるパラダイムと、もっと科学が進歩すれば解明できると考えるパラダイムが存在する。
  • 科学の未解決問題には、ミクロ世界に関する「量子力学の観測問題」および、これよりよりもさらに根源的に哲学に関わる「意識のハードプロブレム」が存在する。

【次回以降】

  • 生物進化論の分野には、分子生物学が発達した現在でも、生物の形態が進化したメカニズムを分子レベルで説明できないという未解決問題が存在することを説明します。

阿部正紀

阿部正紀(あべ・まさのり)

東京工業大学名誉教授。東工大物理学科卒、東工大博士課程電子工学専攻終了(工学博士)。東工大大学院電子物理工学専攻教授を経て現職。著書に『基礎電子物性工学―量子力学の基本と応用』(コロナ社)、『電子物性概論―量子論の基礎』(培風館)、『はじめて学ぶ量子化学』(培風館)など。

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【関連記事】あなたは創造論?進化論? 教会で東工大名誉教授と語るティーサロン(第6回「東工大名誉教授と語り合うティーサロン」)

■ 科学の本質を探る

アインシュタインは“スピノザの神”の信奉者
②-④ 量子力学をめぐる世界観の対立 (その1) (その2) (その3)
⑤-⑨ インフレーション・ビッグバン宇宙論の謎 (その1) (その2) (その3) (その4) (その5)
⑩-⑬ ニュートン力学からカオス理論へ (その1) (その2) (その3) (その4)
⑭-⑯ 複雑系における秩序形成と生命現象 (その1) (その2) (その3)
コペルニクスの実像―地動説は失敗作
ケプラーの実像―神秘主義思想と近代科学の精神が共存
⑲-㉒ ガリレイの実像 (その1)(その2)(その3)(その4)
㉓-㉔ 近代科学の基本理念に到達した古代の神学者 (その1)(その2)
㉕-㉗ 中世スコラ学者による近代科学への貢献 (その1)(その2)(その3)
中世暗黒説を生み出したフランシス・ベーコンの科学観とその崩壊
中世暗黒説の崩壊と科学革命の提起
㉚-㉛ 常識的な科学観を覆したパラダイム論 (その1)(その2)
㉜-㉟ 脳科学の未解決問題 (その1)(その2)(その3)(その4)
㊱-㊶ 生物進化論の未解決問題 (その1)(その2)(その3)(その4)(その5)(その6)
科学の本質と限界

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