【寄稿】私の復活祭マニフェスト―永遠の命への希求と“エクソダス” 矢澤俊彦

2016年3月27日04時07分 執筆者 : 矢澤俊彦 印刷

ゴーストタウンにダイヤ

大きなダイヤモンドも不要になるほどの短文でも、と思い立ったのに、長たらしいものになり失礼します。復活祭に免じてお許しください。

聖書は掘り尽くせない宝石の鉱脈のはず。でも信じて行ってみれば採鉱終了のゴーストタウン。落胆しつつトボトボ歩みつつ、とんだ骨折り損、だまされた、と後悔している人がいるでしょう。

でも終わってなるものか、との思いも突き上げてきます。今の時代の息苦しさはどうでしょう。地球大の不安の黒雲や社会的圧迫、物騒な事件も内外に絶えず。みな押しつぶされそうになってじっとしていても何もいいことは起こりそうもありません。

このままで終わりたくない人生。何かとびきりいいものはないかなあ、と誰しも夢に見ます。とにかくこの暗いトンネルに閉じ込められているような日常は何とかならないか、と願うところです。人間も人生も、本来こんなに希望なく低迷しているはずはない、とのささやきも聞こえてきそうです。

太陽の輝く国

私どもの教会に、今カゲンザ君というルワンダからの留学生が来ています。このアフリカ東部の国では20年ほど前、部族間の激しい内戦があり(それも大国の挑発で)、わずか3カ月で100万人の大量殺戮(さつりく)の舞台となった悲劇の国です。

近く山形大学を卒業して、お国の農業技術改善に尽くそうとしている彼に聞くと、ルワンダの1200万の人々の約9割はクリスチャン。教会にはびっくりするほど多くの人々が集まり、あの内戦後の両部族の和解と赦(ゆる)し合いに必死で取り組んでいるといいます。教会の中に灼熱の太陽が燃えさかっている思いがします。

このカゲンザ君が日本の現状を見ながら、ひそかに「これはどうしたことか、まるで火が消えている」、と多分いぶかしく思っていることでしょう。

太陽の沈んだ国

私も今の日本は、太陽が没してしまった国だと思います。そう感じたのは、アジア学院(栃木県西那須野にある農業研修学校)におられた長島清さんから、フィリピン人の間で盛んな誕生祝いの話を聞いたときです。

あの国では、子どもばかりでなく老若男女誰でも、誕生日になると家族親戚友人だけでなく、近所中の人、時には通りがかりの人さえ巻き込んでの盛大なお祝いがなされるのだそうです。そうしてその人が生かされてきて今日あることを、みんなで思い切り祝福する。当人も自分の存在がしっかり肯定され受容され、こんなにうれしいことはないでしょう。まさにそこに暖かい陽光が輝いて存在しているのです。

多分この南国の人たちの気質もあるでしょうが、スペイン時代から持ち込まれたキリスト教のエネルギーが大きいことは確か。「キリストこそ太陽」なのですから。

不朽の命への希求深し

私はこの何十年を通し、自分の中にある「不滅の命」への希求の強さを確認してきました。20歳の時の受洗と父の無念の急逝以来、私はJ・バ二ヤン(17世紀英国のピューリタン警醒家)の『天路歴程』(聖徒の前進)の主人公のように、周囲の声に両手で耳をふさぎ、迫ってくる神の怒りから逃れるべく「命、命、永遠の命」と叫びつつ家を飛び出し、走り始めたのでした。

それ以来50年余りが経過した今、私は人間という、この尊きものの「滅び」などあり得ない、と確信するに至りました。そして天が開けた先発隊は、今ここにおいてもう不朽の命を心から楽しむことができる。まさに特大のダイヤ発見も数にもならない。全世界を手中にする以上のうれしい境涯なのです!

さらにこの喜びの人たちの祈りは、やがて世界を包み、神様の命は全ての人々に及んでゆくに違いありません。あの大震災や津波で流された2万の人、他の災害や事故や病気、またあの多くの戦争犠牲者たち。彼ら全てに、愛の神様の御手が及んでいる。これを信じないで、自分だけ生き延び、自分中心のいい気なことを言い続ける・・・こんな身勝手は到底できることではありません。

憲法9条のためにも

私は今、現憲法9条の平和主義が世界を救う、を合言葉に多少運動を始めていますが、人の命が7、80年で尽きるなら力が入らない。全ての人々には尊くも不滅の素晴らしい命が与えられている、と思えばこそ、この地球を救わねば、と本腰を入れられるのです。

神は無力にあらず

キリストも神様も無力ではありません。今日1日のためだって、もう途方もない愛のエネルギーを注いでくださっている。「神も仏もあるものか」と叫びつつも、そこからまた新たに神様を求め始めるのです。神様を見限るなら、見限られます。神様を捨てるなら、神様に捨てられるでしょう。今日本人は目覚めて、必死にまことの神様を求めるときではないでしょうか。

うちのめされている日本人

今深い慰めが必要な同胞たち。疲れきり、あるいはうちのめされ、やっと生きています。幸福の青い鳥がどこか遠くへ。だから未練を残して死ぬ人が大勢います。オレも結局大したこともできなかった。先輩の労苦に報いることも少なかった、との嘆きの声も。

あの明治以来の、また戦後の営々たる努力はいったい何のためだったのだろう。女房子どももそんなに幸せそうにあらず。高価なグルメ料理など口にしても格別な満足感はありません。むしろ悪い時には、あの聖書の「放蕩息子」が首を突っ込んだ「ぶたのいなご豆」みたいで、深い深い心身の飢え渇きは簡単に癒やせるものではないのです。

平和ボケの中の死

この平和を楽しめず、外圧に振り回されるロボットみたい、と遠慮なく批評してくれたミャンマーの客人がいました。彼は血気盛んな青年仏教徒で、成田から鶴岡に来る乗り物の中でそう感じたのです。

平和ボケの中で、われらの魂は閉塞を越えて弱り果て、死に瀕しているのでは?

連日満員の鶴岡の加茂水族館。豊かな水を得てスイスイ動き回る魚(ことに大人気のクラゲ)たち。彼らを羨望(せんぼう)の眼で眺めながら、そうだ、必要なのは、私たちを心地よく泳がせてくれる水ではないか。この水から砂地に上げられている、とは言い過ぎでしょうが。魚になくてならぬ水こそ、人間に永遠の命を保証する「宗教」というものではないでしょうか。

今FMラジオから響いてきたのは、現代音楽家メシアンの鳥たちの楽しげな歌。優れた宗教は、私たちに翼も備えてくれるでしょう。

「自己の外に出よ」

そこで次にキリストによる命を、一つのキーワードでお話してみましょう。それは「エクスタシー」、すなわち「脱自」などとも訳されますが、要するに「自己脱出」による解放、恍惚(こうこつ)また忘我、法悦の境地であり、宗教的なそれは、ありがたいことに、全ての人間に開かれている別世界なのです。

それはただ夢中で自分を忘れるというのではなく、自分が自分の外に出てしまうこと、自分自身からのエクソダス(奴隷の出エジプト)です。私たちは「自分の皮膚から飛び出せない」ことも事実ですが、自分を本当に自分たらしめている本質的な自分、「魂」と言い換えてもいいでしょう。その真の自分は、自己脱出ができる、そしてキリストの命と一つになれる。これが「信仰」と呼ばれる事態で起こることとされているのです。やや回りくどくてすみません。

御腕にすがれ

もっと具体的に言いましょう。世界で最も強く優しいキリストのたくましい御腕が私にも伸びてきています。それにしっかりおすがりし、全てをお委ねすること。これにより「主の命と一つになる」、という最高に神秘的経験です。

これは誰でも直ちには体験できないかもしれませんが、ピアノ演奏者の高まり、感興極まった執筆中の作家、集中して天空を飛ぶジャンパーや滑降の選手たちなどは、その世界の神様に自分を預けてしまうという感覚がありそうです。その結果与えられるのが、恍惚とか忘我というエクスタティックな状態でしょう。

でもキリストのうちに自我の全てを投げ出すなら、その恍惚はもう覚めやらぬ永遠的なものになる。まさにこれこそ「永遠の命」です。その快感はたぶん、天から不思議なる物質が脳に注入されるのでしょう。

するとそれまで地上の事物にしばられていた自分が、すっかり自由になり、翼が出てきて天空を飛ぶ鳥のようになります。地球の全ても眼下にできる。たとい四畳半の小部屋に寝ていても、本当の自己はそこに居ながらも世界遊覧飛行ができるのです。

そして希望すればどこへでも降りて楽しんだり、人助けをしたり・・・。あのお金のかかる豪華客船での旅行(一度したいと思っていましたが)などする必要がなくなってしまうほどなのです。

「神の遍在」(神様はいつも、世界のどこにも、広くあまねくおいでになる)という教理が浮かびます。神の子らも同様なんですね。

死んでいた私たちはこの燃えるようなエクスタシーによって初めて本当に生きる。おとなしそうなクリスチャンの中に、時にこの喜びに心狂わせるほどの何かが働いていることもあるのです。

表面的な平和は、かえって人を腐らせ殺してしまうかもしれない。これが現代日本人の姿でしょう。

人生の不如意

1日生きるだけで不愉快なことだらけ。何もかもが自分の思い通りにはいかない。盛り場には連日そんな不満の声があふれていてかわいそうで仕方ありません。「なにかいいことないの・・・」とみんな心の中でつぶやいています。

しかし、それら全ての元凶は、自己へのとらわれやこだわり、執着、自己愛、自尊心、虚栄心、エゴイズム・・・いろんな表現が何かを言おうとしています。その自我というものの全ての重荷が、あのバ二ヤンの物語にあるように、キリストの前に完全に落下してしまうからです。

たとえば、世のために有能な人間に、という使命感や少年時代からの大志、野心も全て消え、何一つ持たない身軽な旅の開始です。でも必要なものは、呪文ですぐ天から取り寄せられる。とにかく私たちは世界の相続人、宝の蔵の管理人なのですから。

ハラハラ・ドキドキの日常が

さらに恵みは続きます。死神にとりつかれ、奴隷的恐怖ばかりを味わってきた者が解放される。そしてさらに、周囲の世界が生きたものとして大変貌していくからです。出会う人との間で喜びと充実が味わえる。ハラハラ・ドキドキの日々が始まります。

人を慰め助ける力も生まれ、どこか天使に似た働きができるようになっていきます。家庭内も次第に明るくなり、笑いがとまらなくなるかもしれません。

自己追求ばかりしてきたガリガリ亡者が、こんな思いやりのできる人になれるとは。もう人前を飾り繕う偽善や、虚栄心からも自由になれるのです。背の小さい日本人の劣等感など、ひとかけらもなくなり、世界を堂々闊歩(かっぽ)できる。そしてやっとこの100年来の競争主義と多忙から引き上げられ、癒やされる。ここに出現するのが、これまでめったに見られなかった「装いも新たな魅力的クリスチャン」です。

そうして天の宝が開かれていけば、もう愉快でたまりません。そしてとうとうこの国のキリスト教もぐんぐん伸び始めることでしょう。また、それで国づくりがなされるだけでなく、これまでの苦労(世界宣教史上、最も恐ろしい相手といわれたこの国です)の積み重ねで発生したキリスト教は、勢いある新型の神のウイルスとして、周囲の世界に広がり行く可能性も予感されます。

とにかくこのネット時代です。もし本当に「新しい言葉」(マルコ終章)を語る人が出てくれば、それはもう大変な感染力を持ち、広がり行くでありましょう。無論あのルターの宗教改革の時代と違うことは百も承知ですが。こんなことでも起こらないと、今後の人類と地球を救うことはできないのでは、と思います。

以上を若干繰り返すことになり恐縮ですが。もう少し付け加えさせてください。

エゴイズムは迷路なり

それはもう完全な「迷路」、容易に脱出することはできません。泣き悲しみ、骨が古び衰えることになります。あのヴィクトール・フランクル(ナチスの強制収容所を生き抜いた精神科医)も、全ての病の源泉は、天からの霊的精神的エネルギーの拒絶(断線)である、という意味深いことを述べています。

でもその天来の力を受け、自己が自己から離脱するエクスタシーを経験するなら、思ってもみなかった平安に包まれる。バラバラに解体されていた自分に新たな骨や筋肉がつき、体ができ、強靭な自分が誕生する。そして恐れていた世界と対峙する勇気の人となる。

巨人ゴリアテ(旧約で、イスラエルの前に仁王立ちした大男)を倒した少年ダビデの誕生です。私は幼児時代の右股関節脱臼のためにびっこをひいていました。これが手伝い、少年以来ひきずってきた周囲の世界へのおびえで悩んできたことを思い起こし、青年時代にキリスト教に出会ったことを摂理のありがたさと思うのです。

世界が出現する

自分から解放されるとき、突然出現する新たな世界には驚愕(きょうがく)させられます。またそれまでは結局何一つ持たない丸裸状態であったこともすごい発見です。自己愛の延長線上には、何一つ存在しないんですね。

情報の統合が

やがてあらゆる事象が魅力を放って登場、「意味」あるものとして迫ってきます。その存在も霞んでいた世界の事象の顕現なのです。しかもそれらが偉大なる「統合」に向かって動いているのです。古い自分から脱出した新たな自分の核の周りに全てが集まり、整然と隊列を整えつつある。私にとってこの世界は「遊びきれない広いレジャーランド」と化しているのです。

そしてやっと自分も経験しているのが、あの漁師ペテロの大漁経験。それで網が破れそうになったという話です(マルコ5章)。私もここにきてやっと連日の大漁で、網はもうボロボロです。心中の葛藤が去ると、もう面白いようにさまざまな事象が磁石に鉄粉が付くようにどっさりとれるんです。爽快になります。

そうした学習者はやがて大きな鯨にもなっていくでしょう。鯨は小さなプランクトンを食べて大きくなるからです。しかも単なる知識情報を集めたごみの山ではありません。それならせっかく幼児期から営々として学んできた膨大な知識も大した意味を持たない。あらゆる知識学習は、パウロのいうように、キリストを知る絶大な知識によって生かされる。これを知る人は、まだ世界にそう多くないかもしれません。

過去の部屋に御礼を

復活祭の喜びはさらに私たちの過去をよみがえらせ、そのひとコマずつを意味あるものとし、お世話になった全ての部屋にお礼を言うよう導かれること。これもイースターの深き意義の一つです。

(文・矢澤俊彦=日本基督教団荘内教会牧師・同保育園長)

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