本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
前書き
前回は、「苦しみ」の正体について述べた。それは、次のような話であった。
人は神に似せて造られ、神の「永遠性」によって規定された。永遠に生きる者として規定された。ところが、悪魔の仕業で「死」が入り込み、滅び行く「有限性」が世界を支配するようになったため、人は自分を「有限性」によって規定し直してしまった。つまり、滅びるしかない者として規定し直したのである。だがその規定は、神が規定した永遠に生きる者とは矛盾するので、人は「苦しみ」を覚えるようになった。
平たく言えば、空を飛べる鳥として規定されていたのに、空を飛べなくなると「苦しみ」を覚えるのと同じである。しかし、いくら飛べない鳥になっても、飛べる鳥としての規定は変わらない。それは、本来の姿ではなく、ただ制限を受けた姿である。人の場合も、滅びるしかない者としての姿は、ただ制限を受けた姿に過ぎない。にもかかわらず、人はその姿を本当の自分だと思い込み、「苦しみ」を覚えるようになったのである。
それはちょうど、アンデルセン童話の『醜いアヒルの子』のケースと同じである。あの話に出てくるひな鳥は、美しい「白鳥の子」として規定されていたにもかかわらず、アヒルの子の中で育てられたことで、自分をアヒルの子として規定し直してしまい、本当の自分の姿を「醜いアヒルの子」だと思い込んだ。それで「苦しみ」を覚えるようになった。今日の私たちも、これと同じである。
つまり、「苦しみ」の正体は、「永遠性」の規定の上に「有限性」の規定を持ち込み、その規定を自分の本当の姿とすることで生じる矛盾なのである。それ故、「苦しみ」の解決は、神によってなされた「永遠性」の規定に、すなわち自分の本当の姿に気付くこと以外にはない。それは人が「良き者」であって、無条件で愛される者であるとする規定である――「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)――。前回は、そうした話を述べた(第9回:「苦しみ」の正体)。今回は、その続きである。
実は、「苦しみ」は、「永遠性」の規定と「有限性」の規定との矛盾から生じるだけではない。別の原因で生じる「苦しみ」がある。それについては、まだ触れてこなかった。というのも、理解するのが難しいからである。
なぜ難しいのか――。その「苦しみ」の原因は「神の愛」にあるからである。「神の愛」が、人を「苦しみ」から「苦しみ」へと向かわせるのである――「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられる」(ヘブル12:6)――。
神は「愛」であり、人を苦しめることなどされるはずがないと思ってしまうが、「神の愛」が人を苦しめる。とても信じがたい話に思えるかもしれないが、真実である。しかし、「神の愛」による「苦しみ」は、いつまでも残る神への「信仰」「希望」「愛」、すなわち「平安な義の実」を確実に結ばせてくれる。
すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)
そこで今回は、「神の愛」による「苦しみ」について説明し、「苦しみ」から「苦しみ」へという話をする。その「苦しみ」の中身を知るには、「神の愛」が人に対して何をするのかを知る必要がある。
「神の愛」が人に対して何をするのか
人は神に似せて造られ、「神の子」として規定された――「私たちは神の子どもです」(1ヨハネ3:1)――。神と一緒に、永遠に生きる者として規定された。そのため、「神の愛」は、「神の子」を滅びに向かう姿に変えた「死」と戦う。「死」こそ、神の目には最後の敵となる――「最後の敵である死」(1コリント15:26)――。その「死」は、悪魔が、次のようにして持ち込んだものであった。
悪魔は、「死」の力を持つ者である――「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)――。その悪魔が、蛇を使って最初の人を欺き、神に逆らう罪を犯させた。罪は神に逆らう行為なので、その行為は神と人とを分離させてしまった。つまり、人の姿を、永遠の神とは関われない死ぬべき有限の姿に変えてしまったのである。これを「死」が入り込んだといい、罪によって「死」が入り込んだのであった――「ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り」(ローマ5:12)――。その「死」が、全人類に広がった――「死が全人類に広がった」(ローマ5:12)――。
「死が全人類に広がった」ということの意味は、人の体も世界も滅びに向かう「有限性」となり、「永遠性」の神との間に無限の距離ができてしまったということである。この状態が、神の目には「罪」であり、それは入り込んだ「死」によるものであった――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――。まさしく「罪」の正体は「死」であり――「罪によって死が入り」(ローマ5:12)――、それは神との間にできた「隔ての壁」であった。この壁が、人の「不安」の源泉である。
問題は、「隔ての壁」ができたことで、人はもう、自力では神に近づくことができなくなったことである。神との距離を1ミリも縮めることができなくなった。ただ、滅び行く「有限性」の世界で、少しでも天高くそびえるバベルの塔を築くだけで、神には全く近づけなくなった。こうして、神は「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方」(1テモテ6:16)となられた。
そこで神は、人の「罪」を取り除くために、キリストとなって人の前に現れた――「キリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています」(1ヨハネ3:5)――。「罪」とは、神との間にできた「隔ての壁」であり、神との間にある無限の距離であるため、それを取り除くために、すなわち「隔ての壁」を壊し、人を引き寄せるために、キリストが現れたのである――「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方」(エペソ2:14、15)――。これが「神の愛」である。
つまり、「神の愛」が人に対して何をするのか。それは、「隔ての壁」を壊し、人をご自分に引き寄せることをする――「わたしは永遠の愛をもっておまえを愛してきた。あわれみの綱でおまえを引き寄せてきた」(エレミヤ31:3、リビングバイブル)――。人との間にある距離を、神は愛をもって縮めようとされる。そこで、キリストとなって人の前に現れた方は、自らの言葉で人を引き寄せることを開始された。例えば、次の言葉で。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
このように、キリストは人に呼びかけ、人を引き寄せてくださる。人の側からでは、神に近づけなくなったので、神の方から御手を差し伸べ、差し出す御手につかまる者を引き寄せてくださる。キリスト者とは、差し出された御手につかまり、神に引き寄せられた者である――「父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)――。これが「神の愛」である。
ところが、人を引き寄せてくださる神は「永遠性」であり、人は「有限性」であるため、「有限性」のままでは「永遠性」の神に近づくことができなかった。「永遠性」の神の所に引き寄せられるには、人は「有限性」を脱ぎ捨てなければならなかった。それは「有限性」の世界で手にした財産を手放すことを意味する。要するに、キリスト者は、神にも仕え、手にした財産にも仕えるということはできない、ということである――「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(マタイ6:24)――。
だが、「富」を手放すことなど、人にはとてもできない。そうであっても、「神の愛」は容赦なくキリスト者を引き寄せるので、「有限性」の「富」を手放さなければならなかった。ここに、「苦しみ」が生じるのである。それは、人を引き寄せる「神の愛」が原因で生じるので、避けられない本当の「苦しみ」である。それでも、この「苦しみ」は「神の愛」と直接対峙(たいじ)することで生じるので、その先には「平安な義の実」を結ばせる神の恵みが待っている――「平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)――。それ故、これは神から賜った「苦しみ」である。
神から賜った「苦しみ」
「神の愛」が目指すのは、人をご自分の所に引き寄せ、人と「一つ」になることである――「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネ17:23)――。というのも、悪魔の仕業で入り込んだ「死」が、神と人との間に無限の距離を設け、そのことが人を「不安」にし、苦しめているからである。それで、神との距離を縮めることを「神の愛」は目指す。
ちなみに、人の土台は神なので、人をご自分の所に引き寄せるというのは物理的な距離を縮めるというのではなく、入り込んだ「死」のせいで、神を見えなくさせる覆いが人にかかってしまったので――「いつでも彼らの心には覆いが掛かっています」(2コリント3:15、新共同訳)――、神との距離を縮めるというのは、その覆いを取り除き、神に規定されている本当の自分に気付かせるということである――「顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(2コリント3:18、新共同訳)――。では、話を戻そう。
見てきたように、「神の愛」は、人をご自分の所に引き寄せる。しかし、神は滅びることのない「永遠性」なので、そこには滅び行く「有限性」のものは何も持ち込めない――「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(1コリント15:50)――。そのため、神である「永遠性」に引き寄せられるには、握りしめてきた「有限性」のものは全て手放す必要がある。それは地上のものを思わず、天にあるものを思うということである。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2)
「地上のもの」とは、地上で手にする財産である。例えば、良い「評判」や「富」であり、それを「思わず」とは、それを手放すということである。しかしそれは、「この世」では見向きもされない者になり、一文無しになるということである。「この世」とのつながりを一切持たないということであり、ただ神にだけ仕えるということである。端的に言えば、「この世」に対して「死ぬ」ということである。
果たして、そのようなことが人にできるのだろうか。到底できない。※1しかし、手にした財産を手放すように神は要求される。ここに、「苦しみ」が始まるのである。
このようにキリスト者とは、神の差し出された御手につかまった者なので、神は手を緩めることなく、ご自分の所に引き寄せる。それは「永遠性」に近づくということなので、「有限性」の「この世」に対して「死ぬ」ことを意味する。「この世」で手にした財産、すなわち「見える安心」との決別を意味する。だが「この世」に対して「死ぬ」ことなど人には到底できないので、ここに「苦しみ」が生じる。これが、キリスト者が神から賜った「苦しみ」である。
そうなると、「この世」に対して「死ぬ」ことができなければどうなるのか――。しかし、何も心配はいらない。なぜなら、キリストが差し出された御手につかまったキリスト者は、もう “死んでいる” からである。
死んでいる
信じがたい話だが、キリストを信じているキリスト者は、差し出された神の御手につかまった瞬間に、もう「有限性」の「死」の世界から、神が暮らす「いのち」の世界に移されている――「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)――。それはつまり、「有限性」の「この世」に対しては、すでに “死んでいる” ということである。ただそれが見えないだけで(自覚がないだけで)、キリスト者のいのちは、キリストと共に、神のうちに隠されているのである。
あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3)
自覚がなくても、はっきりと聖書は教えている。キリスト者は、「この世」に対して “死んでいる” と。それ故、「この世」と決別する終わりのラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに復活し、神が暮らす「いのち」の世界に移り住むことになると。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(1コリント15:52、新共同訳)
これは、肉体の死と同時に、私たちのいのちであるキリストが現れ、キリスト者はキリストと共に、栄光のうちに現れるということである。
私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。(コロサイ3:4)
これが、キリスト者の結論である。それは復活である以上、キリストを信じている者は、「永遠のいのち」を持っているのである。「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)。これが意味することは、神はいったんつかんだ人の手を、すなわち「永遠のいのち」を与えた者を、決して離すことはないということである。それ故、キリスト者は決して滅びることがない。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:28)
このように、神はつかんだキリスト者の手を決して離すことなく、必ずご自分の所まで引き寄せるため、キリスト者は実質、「この世」に対して “死んでいる”。※2だから、心配はいらない。主はあなたを見捨てないのだから。それで神は、キリスト者を引き寄せる手を緩めることはされない。容赦なく、引き寄せる。しかし、それはキリスト者にしてみれば、「見える安心」を手放すということなので、それができないことに「苦しみ」を覚えてしまう。
どうだろう、キリスト者は、「この世」に対して「死ぬ」という「苦しみ」を賜ったが、心配はいらないのである。なぜなら、キリスト者はもう、「この世」に対して “死んでいる” からである――「世に対して死にました」(ガラテヤ6:14、新改訳2017)――。そのことの象徴が、バプテスマである――「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(ローマ6:3)――。つまり自覚がなくても、キリスト者は、キリストと共に「有限性」に対して死んだのである。死んだからこそ、「永遠性」のキリストと共に生きることができる。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。(ローマ6:8)
「この世」に対して “死んでいる” のであれば、「この世」の何にしがみつこうと、それは無駄である。にもかかわらず、「この世」にしがみつくから、それを引き離そうとする「神の愛」が、人にとって「苦しみ」となる。こうして、「苦しみ」から「苦しみ」へが始まった。
「苦しみ」から「苦しみ」へ
私たちは死んでいて、私たちのいのちはもう、キリストの中にある――「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」(コロサイ3:3)――。そのため、私たちキリスト者は、「この世」の何にしがみつこうとも無駄である。もう死んでいるから、「この世」の何を誇ろうとも無駄である。それで聖書は、死んでいることを教えた続きで、次のことを要求している。
ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5)
人が「この世」でむさぼるものは、自分を喜ばせてくれるものであって、それを「見える安心」という。誰もが「見える安心」をむさぼってきたが、キリスト者は「この世」に対して死んでしまったので、むさぼりはもう無駄であるから、やめるように神は言われる。いや、むさぼりは「偶像礼拝」だからと言い切り、それを断念するように命じている。
これは言い換えれば、神はキリスト者の手を決して離さないということである。つまり、この命令は、「神の愛」の裏返しに他ならない。「神の愛」によって、キリスト者は必ず「この世」と最後は分離し、神の所にまで引き寄せられるので、「この世」の何を握りしめても無駄になることから、神はためらうことなくむさぼりは「偶像礼拝」だと言い放ち、「見える安心」を手放すことを命じられるのである。そのため、キリスト者は「見える安心」を手放さなければならないという「苦しみ」からは決して逃れられない。こうして、キリスト者の道は「神の愛」によって、「苦しみ」から「苦しみ」へと向かう。
ところが、その「苦しみ」は「神の愛」に根ざすので、自分の限界を知り、自分の無力さを痛感できるように助けてくれる。そうなれば、神に助けを乞うようになれるので、ようやく神に対する真剣な「信仰」が生起する。その「信仰」によって、「苦しみ」に勝る「安息」を手にすることができる。これこそが、神が人の中に結ばせたい「平安な義の実」である――「平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)――。
このように、「神の愛」に根ざす神の福音は、人を「苦しみ」から「苦しみ」へと追い込むことで、「信仰」から「信仰」に進ませるのである。
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17、新改訳2017)
では「見える安心」を手放すというのは、具体的には何を手放すことなのだろう。人によって「見える安心」は異なり、数多くあるように思えるが、それらは二つに分類できる。一つは人から良く思われる「評判」につながるものであり、もう一つは人からうらやましがられる「富」につながるものである。なぜそうなのか、簡単に説明したい。
「見える安心」は「評判」と「富」
悪魔の仕業で「死」が入り込み、この世界が「有限性」になったことで、人は「永遠性」の神が見えなくなった。それは、無条件で愛されている自分を確認できなくなったということである。そのことの「不安」から、愛される自分を確認したいと人は欲するようになった。ここに、「愛されたい」という願望が誕生したのである。
そこで、人は愛される自分を確認するために、人から良く思われる「評判」の獲得を目指すようになった。例えば、人から良く思われる、行い、学歴、能力、財産、権威、容貌などで自分を飾り、愛される自分を確認しようとするのである。こうして、人から良く思われる「評判」は自分の宝となり、「見える安心」となり、それは絶対に手放せなくなった。なぜなら、それによって、無条件で愛されている自分を確認できない「不安」を覆い隠せたからである。
また、悪魔の仕業で「死」が入り込み、この世界が「有限性」になったことで、人の体は、滅びることになった。しかし、人は永遠に生きるように神に規定されているので、滅びるという現実は「死の恐怖」となり、そこから人は死にたくないと欲するようになった。ここに、「生きたい」という願望が誕生したのである。
そこで、人は少しでも長く、安全に生きるために、それに必要な「富」の獲得を目指すようになった。「富」を手にすればするだけ、生きるために必要な食料や、安全な住まいなどを確保できるからである。こうして、人からうらやましがられる「富」が「見える安心」となり、もはや手放すことが恐ろしく感じられるようになった。なぜなら、それによって、滅びるしかない「死の恐怖」を覆い隠せたからである。
このように、人の中に神と人を分離する「死」が入り込み、人の中に二つの願望が誕生した。一つは「愛されたい」という願望であり、もう一つは「生きたい」という願望である。この願望を満たすために、人は人から良く思われる「評判」と人からうらやましがられる「富」をむさぼるようになり、願望を満たす「評判」と「富」が「見える安心」となった。つまり、「評判」と「富」をむさぼることで、神の代わりとなる安心を作り出したのである。それで聖書は、「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」(コロサイ3:5)とする。では、「評判」を手放すことが「苦しみ」となる実際を見てみよう。
「評判」を手放す
人から良く思われる「評判」を手放すというのは、人の言葉ではなく、神の言葉で生きるということである。「真理」に従って生きるということである。そのようなことをすればどうなるかは、「真理」に従って生きられたイエスを見れば分かる。
イエスは人の「評判」を無視し、神の言葉である「真理」に従って生きられた。その結果、「この世」はイエスの敵となって平和を失った。それでイエスは、「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」(マタイ10:34)と言われたのである。
従って、人から良く思われる「評判」を手放し、「真理」に従って生きると、平和を失ってしまう。周りから悪く思われてしまう。このことに、一体どこまで耐えられるのか。周りから嫌われ、憎まれることに、どこまで耐えられるのか。いや、耐えられないので、人から良く思われる「評判」を手放すように命じられても、それには応えられないのである。そのため、「苦しみ」を覚える。
さらに言えば、それには耐えられないので、良く思われる「評判」を手放すどころか、もっと自分が良く思われる「評判」が欲しくなり、「この世の心づかい」に走ってしまう。実際、ペテロがそうであった。彼は、神のことを思わないで、人のことを思っていた。それでイエスは、ペテロに対してこう言われたのである。
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マタイ16:23)
ここまで注意されても、ペテロは人から良く思われる「評判」を手放すことができなかった。人から嫌われることを恐れた。そのため、最後はイエスを裏切ってしまったのである。
この出来事は、人から良く思われる「評判」を手放すことがいかに困難であるかを物語っている。それでも神は、それを手放すことを命じられる。「下がれ。サタン」と。その命令には一切の妥協がないので、人は「苦しみ」を覚える。
このように、ペテロがそうであったように、「評判」を手放すことが「苦しみ」となる。それは「この世」を敵とし、「この世」での平和を失ってしまうからである。そのため、「評判」を手放せという神の命令には応えられずに「苦しみ」を覚えてしまう。そうであれば、その「苦しみ」はもう、「神の律法」に逆らう「罪」である。では、「富」を手放すことが「苦しみ」となる実際を見てみよう。
「富」を手放す
人からうらやましがられる「富」を手放すというのは、自分の財産を貧しい人にあげるということでもある。そのことが、いかに困難かを知る話が聖書にある。
ある時、イエスのもとに青年がやって来た。彼はイエスに、「永遠のいのち」を手にするにはどのような良いことをすればよいかと尋ねた。そのやりとりの中で、イエスは最後に「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」(マタイ19:21)と言われたのである。それは、彼が多くの財産を持っていたからである。
しかし、そのようなことは到底できなかったので、この続きに、「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである」(マタイ19:22)と書かれている。
この話は、「富」を手放すことがいかに困難であるかを教えている。いや、そんなことは誰にもできないことを教えている。ところが、それができなくても、イエスが青年に命じたように、神は「富」を手放すことをキリスト者にも命じるのである。そうなると、この青年と同じように、その命令には応えられない自分の「罪」と出会ってしまう。ここに「苦しみ」が生じる。それは紛れもなく、神に従えない「罪」であり、「苦しみ」は「罪責感」である。
このように、「見える安心」をもたらす宝は二つに分けられる。一つは「評判」である。人は、少しでも良い「評判」を得ようと、必死になって人から良く思われる「この世の心づかい」に生きることで「見える安心」を手にしようとする。もう一つは「富」である。人は少しでも多くの「富」を得ようと、必死になってお金をむさぼる「富の惑わし」に生きることで「見える安心」を手にしようとする。だが、この二つの生き方が「御言葉」をふさぐので、「この世の心づかい」と「富の惑わし」をやめるように、イエスは言われたのである。
また、いばらの中に蒔(ま)かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイ13:22)
キリスト者は、まことに「この世の心づかい」と「富の惑わし」に生きることの両方をやめることを要求されている。しかし、それには到底応えられない。というより、イエスの弟子たちでさえ不可能であった。そのため、この要求の前では自分の限界を知るしかなく、「苦しみ」を覚えるのである。これこそが、キリスト者が賜った「苦しみ」である。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)
こうした神の要求を「神の律法」といい、誰もが「神の律法」の下では、罪人になるしかない――「すべての人を罪の下に閉じ込めました」(ガラテヤ3:22)――。正確に言えば、「神の律法」によって罪人になるのではなく、「死」が入り込んだことで罪人になったのであり――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――、そのことが「神の律法」によって認められるようになるということである。
というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。(ローマ5:13)
まことに「神の律法」に従うことで、隠されていた罪が照らされ、自分の「弱さ」を認められるようになる。認められることで初めて、「苦しみ」の中に「光」が差し込む。キリストであるイエスは、その「光」を教えるために、自らがまず、「神の律法」に従う生き方を示されたのである。では、その公生涯を見てみたい。
公生涯
神が人となって来られた方が、イエスである。そのイエスの公生涯こそ、人の生き方の模範であり、その姿は「神の律法」の現実そのものであった。その「神の律法」は「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マタイ22:37)に集約される。それは、神を愛することであり、神を愛するとは「真理」に従って生きることである。それでイエスは「わたしが道であり、真理であり」(ヨハネ14:6)と言われたのであった。
「真理」に従って生きるとは、神である「永遠性」に自分の根拠を置いて生きるということであり、「神の国」に帰属するということなので、「有限性」の「この世」との分離を意味する。そこでイエスは徹底して、「この世」と決別する生き方を見せてくださった。その象徴が、水のバプテスマである。それは人の姿であっても「この世」と決別し、「永遠性」である神に根ざして生きていることへの霊的な宣言であった。
そこでイエスは、「この世」の権威を排除し、地上の「王」としては活動されなかった。逆に、徹底して神の在り方を捨て、ご自分を無にし、仕える姿となられた。人から良く思われる「評判」と「富」で着飾り、自分を「高く」しようとする「この世」の価値観を排除し、自分を卑しくし、実に十字架の死にまでも従われたのである。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6〜8)
こうして、キリストであるイエスは、徹底して「評判」と「富」を排し、「評判」と「富」に価値があるとする「この世」の真理ではなく、神の「真理」に従われた。それは、「この世」に逆らう生き方であった。何の肩書もない、一文無しとしての生き方であった。そのため、イエスは「この世」からはさげすまれ、ばかにされ、憎まれた。「真理」に従えば、そうなることは必然だったので、これは預言されていた。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)
そして、ついに殺されてしまったのである。そこにあったのは、紛れもなく「苦しみ」から「苦しみ」への生涯であった。ただし、そこでの「苦しみ」は私たちとは違い、迫害によるものであり、「真理」に従えない罪責感によるものではなかった。だが、そうであっても、「この世」で「神の律法」の要求に応えて生きることは、すなわち「真理」に従って生きることは、「苦しみ」から「苦しみ」へであった。それで誰もが、イエスとしてのキリストの公生涯は「苦しみ」で幕を閉じたと思った。
ところが、そうではなかった。キリストは十字架で殺されて3日目に、何と、よみがえられたのである。そして、天に昇り、神の右の座に着座されたのであった。
キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。(1ペテロ3:22)
つまり、「苦しみ」の先には、よみがえるという神の栄光の「光」が待っていたのである。
キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。(ルカ24:26)
このように、「神の律法」に従おうとすれば、人の場合はどうしても「神の律法」の要求には応えられないという「苦しみ」へ向かうが、「神の律法」の要求に応えることができたとしても、イエスとして歩まれたキリストの公生涯が示したように「苦しみ」へと向かうのである。要するに、何をしようともキリスト者は、「苦しみ」からは逃れられないということである。なぜなら、「神の愛」がキリスト者を、「この世」から分離させるからである。まさにそれは、「苦しみ」から「苦しみ」へなのである。
しかし、その先には神の「栄光」が待っている。「苦しみ」という「闇」の先には「光」が待っている。そのことを、キリストの公生涯が示してくださったのである。従って、私たちがたどる「苦しみ」の歩みは「闇」を通って「光」に至る旅路に他ならない。見てきた「苦しみ」から「苦しみ」への話は、「闇」から「光」への話、ということである。
「闇」から「光」へ
「苦しみ」から「苦しみ」へと進む道は、「闇」から「光」へと進む道である。そのことを、キリストは身をもって証ししてくださった。つまり、「神の愛」から出た「苦しみ」は、「光」に向かうのである。その「苦しみ」は、真剣に「真理」に従おうとすることで、すなわち「神の律法」の要求に応えようとすることで出会うことができる。それは、次の通りである。
「神の愛」は、神の御手につかまった者を「神の国」に引き寄せるので、それは「この世」を捨てさせる方向に向かう。「この世」の「見える安心」を手放すよう要求する。しかし、そのようなことは、人の力では到底できない。たとえできなくても、神の御手につかまった者を、神は決して離さないので、その者はもう「神の国」に移されているのと同じである――「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)――。それでイエスは「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)と、現在完了形で言われたのである。ただその事実を、「見える安心」が覆い隠しているので、神は容赦なく「見える安心」を手放すように要求する。この要求が、「神の律法」である。
そうなると、何が起きるだろう。「神の律法」には応えられない自分の限界に、すなわち自分の「弱さ」に出会うしかない。するとその時、キリストへの真剣な「信仰」が生起する。生起すれば、「苦しみ」は神の栄光の「光」に包まれる。こうして、キリスト者に「苦しみ」を覚えさせる「神の律法」は、私たちをキリストに導く養育係となる。キリストという「光」に導く、「コンパス」になる。
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。(ガラテヤ3:24、新改訳2017)
これこそが、「神の愛」が原因で生じる「苦しみ」の正体であって、それは人を「苦しみ」から「苦しみ」へと向かわせ、すなわち「闇」の中にいる自分と向き合わせ、キリストという本物の「光」を差し込ませるのである。それが、「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」の意味するところである。
つまり、「光」に導かれない「闇」は、すなわちキリストへの「信仰」に導かれない「苦しみ」は、偽物である。偽物ではない、本物の「闇」となる「苦しみ」に出会いたければ、「神の律法」と真剣に向き合い、それに従ってみることである。そうすれば、「この世」の安心をむさぼるしかない、みじめな自分と出会うことができる。それができれば、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)と祈ることができる、真剣な「信仰」が生起し、本物の「光」に包まれる(義とされる)。
このように、「苦しみ」から「苦しみ」へは、神の御手につかまる「信仰」から、神にあわれみを乞う真剣な「信仰」へと進ませる話であり、「闇」から「光」へなのである。※3そのため、私たちは「苦しみ」の試練(闇)の中にあっても諦める必要はない。主の励ましが、聞こえてくるからである(光)。こうして、主の愛の中で砕かれていく(「見える安心」の覆いが取り除かれていく)。ここに、「苦しみ」の真の解決がある。
まとめ
見てきたように、「苦しみ」は「永遠性」の規定と「有限性」の規定との矛盾から生じるだけではない。「神の愛」が、人を神に引き寄せることでも生じる。その引き寄せは、「見える安心」の放棄を要求するので「苦しみ」が生じる。
その要求は、「この世」から放り出される日まで(肉体の死まで)続くので、「この世」にいる限り「苦しみ」から「苦しみ」へとなる。そうであっても、その「苦しみ」の中で、キリストへの「信仰」が成長する。
そういう意味では、キリスト教は「苦しみ」の教えである。それは神と関係する教え故に、私たちは苦しむ。神は「光」に住まい、人は「闇」に住まうので、神の招きに苦しむのである。これは見える幸福を売りにする宗教の教えではない。「神の愛」が、人を「苦しみ」から「苦しみ」へと進ませる教えである。というのも、「苦しみ」の中でこそ、真の「平安」を見つけられるからである。「苦しみ」という「闇」の中でこそ「闇」に打ち勝つ真の「光」を知ることができるからである。
従って、「苦しみ」から「苦しみ」へは、「闇」から「光」へなのである。そこで私は問いかけたい。あなたの「闇」は、神の「光」へと続いているかを。(続く)
文中の注
※1 本文で、「しかし、手にした財産を手放すように神は要求される」という話をしたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノアworship】手ばなそう)。
※2 本文で、「だから、心配はいらない。主はあなたを見捨てないのだから」という話をしたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノアworship】主はあなたを見捨てない)。
※3 本文で、「そのため、私たちは『苦しみ』の試練(闇)の中にあっても諦める必要はない。主の励ましが、聞こえてくるからである(光)」という話をしたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノアworship】聞こえてくる)。
◇