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2025年6月23日22時26分更新
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「苦しみ」と「苦しみ」の解決

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(7)人は「単独者」である 三谷和司

2025年6月23日22時26分 コラムニスト : 三谷和司
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関連タグ:三谷和司

本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。

人は「単独者」である

人には神が見えないので、自分の中心に神がおられることが分からない。しかし、分からなくても、人の中心は神であり、神が人を支え動かしている。人は神の中に生き、動き、また存在しているのである――「神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)――。それは、神が私を背負っておられるということである――「わたしは背負う」(イザヤ46:4)――。

まことに聖書は、人の中心には、神と私だけが存在し、私の前には神しかおられないことを教えている――「私はいつも【主】を前にしています」(詩篇16:8、新改訳2017)――。神の前にも、私しかいないので、聖書は「私たちは一人一人、自分のことについて神に申し開きすることになるのです」(ローマ14:12、聖書協会共同訳)と教え、「人の道は【主】の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる」(箴言 5:21)と教えている。

このように、人の中心は神である。一人一人が単独で、神と向き合って生きている。誰もが、神と単独で向き合い、神の前で一人で生きている。こうした人の姿を「単独者」と呼ぶ。

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(7)人は「単独者」である 三谷和司

ところが、人は神が見えないので、神を無視し、人と向き合って生きようとする。

人と向き合って生きようとする

人とは、一人で神と向き合って生きている「単独者」である。そのため、神との関係の中で自分を知るしかない。しかし、人には神が見えないので、人と向き合って生きようとする。人との関係の中で自分の価値を知り、それを糧に生きようとする。そのために、誰もが人に褒められようと、人前で善行を頑張る。

これでは、人との関係が築かれても、神との関係は何も築かれない。そうなると、「苦しみ」の解決もないので、イエスは次のように言われたのである。

人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。(マタイ6:1、2)

「報いが受けられません」とは、「苦しみ」の解決が得られないということである。というのも、人から褒められたくて善行するときは、心が神に向いていないからである。心を神に向けられなければ、「苦しみ」は解決しないからである。(第1回:「苦しみ」の原因)

さらにイエスは、「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3、4)とも言われた。それだけではない。イエスは祈り方についても言及された。

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)

こうした一連のイエスの教えは、人は人の前で生きているのではなく、神の前で、一人で生きている「単独者」であることを示している。あなたの前には、神しかいないことを教えている。故に、周りの目を気にせず、神との直接的な関係を持つことを教えている。

このように、人の中心は神であり、人は神と向き合って生きている。ところが、その中心が見えないので、人は人と向き合って生きようとしてしまう。それでイエスは、人の心が神ではなく周りの人に向くことを注意されるのである。つまり、人は神の前で一人で生きている「単独者」なのであって、神と一対一の関係にあるということである。

神と一対一

人の中心は、神との一対一の関係である。神の前には、私しかいない。そのため、神は私を周りの人と比べることはしない。そこでイエスは、このことを弟子たちに教えるために、彼らの足を個別に洗われたのであった。「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」(ヨハネ13:5)

このイエスの行動は、神は人と一対一で関わるのであって、人と人とを比べ、行いが優秀な者と関わるわけではないことを示している。だからこそ、イエスは弟子たちの足を差別することなく、個別に洗われたのである。

ところが、ペテロは自分の順番が来ると戸惑い、本当に洗ってくださるのかと尋ねた。他の弟子と自分を比べるなら、かつて自分はイエスから「下がれ。サタン」(マルコ8:33)と言われたほどの罪深い者であることを知っていたからである。

これに対してイエスは、ご自分のすることが今は分からなくても、あとで分かるようになるからと励まされた。それでもペテロは、「決して私の足をお洗いにならないでください」(ヨハネ13:8)と言って拒んでしまったので、イエスは次のように言われたのである。

もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。(ヨハネ13:8)

この言葉の意味するところは、神は人と一対一でしか関わらないということである。人は神の前では一人であり、目の前にいるのは神だけであることを示している。そうである以上、自分と他者を比べ、自分は神に愛される資格などないと思ってしまうのは、誤りなのである。

このように、人は神と一対一の関係にあるので、神は人と人とを比べることはしない。これが人の中心であり、人は本来神と向き合った状態にある。それはつまり、神が見えなくても、人は人との関わりを持つ前に、否が応でも神との関わりを先に持つということである。

神との関わりを先に持つ

人は神が見えないので、人との関わりが先にあり、その先に神との関わりがあると思い込んでいる。人を愛せるようになれば、神も愛せるようになると思っている。しかし、実際はその逆である。神を愛せるようになれば、人を愛せるようになる。人は人との関わりを持つ前に、神との関わりを先に持っているので、そのような順序になる。そのことは、道徳の観点から見ると容易に分かる。

誰もが道徳の指標を持っている。何が良いことで、悪いことなのかをおおむね知っている。言い換えれば、誰もが善悪を判断するおおむねの「律法」を持っているということである。ならば、その道徳の指標となる「律法」は、一体どこから手に入れたのだろう。

聖書によると、それは神から手に入れた。神が人の心に、「律法」を書かれたのである――「律法の命じる行いが彼らの心に書かれている」(ローマ2:15)――。これは、神が人に貸し出した神の「いのち」である「魂」を介し、神は「神の思い」を語り、どう生きるべきかを示してくれているということである。誰であれ心の奥で、絶え間なく道徳の指標(律法)を神から聞かされているということである。そのため、それに従わないと苦しくなる。

例えば、誰かにうそをつこうとすると、心の中で神の声が鳴り響き、苦しくなる。そのおかげで、うそをつくことを思い留まることができる。これは、人は人との関わりを持つ前に、否が応でも神との関わりを先に持っていることを示している。神との関係が人の中心であり、その中心を持った者が社会の中で生きていることを示している。そこで、聖書は次のように教えている。

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

「この世と調子を合わせてはいけません」に込められた意味は、あなたの前には神しかおられないので、周りの人が自分のことをどう思うかは気にする必要がないということである。それで聖書には、「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」(※伝道者7:21) と書かれている。※新共同訳では「コヘレトの言葉」

このように、人は人との関わりを持つ前に、神との関わりを持っている。そうである以上、※1「大事なのは人が自分のことをどう思うかではなく、神が自分のことをどう思っているか」である。ならば、神の人への思いは何なのだろう。

神の人への思い

神の人への思いは、何と、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)である。神は人に対し、「高価で尊い」と本気で思い、人を本気で愛しておられる。それ故、キリストは十字架の死をもって、その愛を明らかにされたのである。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

まことに、あなたは神に、非常に良く思われている――「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)――。神に本気で愛されている。それを知るなら、もう神から愛されるための努力は不要である。※2「神から褒められるために、一生懸命頑張る必要は全くない」。神が愛してくれているのだから、人から愛されようとする必要もない。その真実にたどり着ければ、そこにこそ「苦しみ」の真の解決がある。

このように、人は単なる「単独者」ではなく、神に本気で愛され、神から「高価で尊い」と思われている「単独者」である。それを知るなら、「苦しみ」は解決する。つまり、周りの人が自分のことをどう思っているかではなく、神が自分のことをどう思っているかに心が向くなら、そこにこそ「苦しみ」の真の解決があるということである。

しかし、人には神が見えないので、こうした自分の中心を知る由もない。そのため、人は中心の神を無視し、周りの人との関わりの中で自分の価値を知り、自分が何者であるかを知ろうとする。それはつまり、神とは一対一の関係にある「単独者」として、神に身を置いて生きるのではなく、周りの人で構成される「集団」に身を置いて生きるということである。ここに「苦しみ」の原因がある。そこで、どうして「集団」に身を置くと「苦しみ」が生じるのかを、分かりやすく説明したい。

「集団」に身を置くと「苦しみ」が生じる

聖書は、クリスチャンの生き方には二つあることを教えている。一つは肉に属する生き方であり、もう一つは御霊に属する生き方である――「御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました」(1コリント3:1)――。肉に属する生き方が、「集団」に身を置く生き方であり、御霊に属する生き方が、「単独者」として神に身を置く生き方である。ならば、「集団」に身を置くとどうなるだろう。

「集団」に身を置くとは、この世に身を置くということである。変化し続ける時間に、すなわち有限性に身を置くということである。それはちょうど、変化し続ける川の流れに身を任せた「石ころ」のようである。「石ころ」は、変化し続ける川の流れに身を任せると、次第に本来の姿が削られていき、海にたどり着いたころには「砂粒」になってしまうのである。どの「石ころ」も、最後は「砂粒」になり、区別がつかなくなってしまう。

同様に、人も変化し続ける時間に、すなわち変化し続ける「集団」に身を置くなら、人の姿も次第に削られていき、誰もが同じような姿になってしまう。これを「平坦化」という。では、どうして同じような姿になってしまうのだろう。

「集団」に身を置くというのは、「集団」の中で自分の価値を知ろうとすることであり、「集団」の基準に自分を合わせていくということである。そうなると、どうしても「集団」の基準よりも出る釘は打たれ、基準に満たない釘は、出るまで責め続けられてしまう。それが繰り返されることで、本来の自分の姿が削られていき、誰もが同じ姿になってしまうのである。これが「平坦化」であり、それは自分を滅ぼす道なので「苦しみ」が生じる。

さらにいえば、「集団」に身を置くと、「集団」の基準に自分を合わせていくしかないので、そこではいつも「集団」の目が気になり、「集団」から良く思われる自分を目指すようになる。それは「集団」の下で「平坦化」を目指すということである。当たり障りのない、「平坦化」された自分を目指すということである。これは紛れもなく自分を滅ぼす道なので、そこには「苦しみ」が生じてしまう。

このように、自分の中心の神との関わりを無視し、自分の外の「集団」との関わりを目指すなら、それは自分を滅ぼす「苦しみ」の道でしかない。「集団」に身を置けば、必ず周りから良く思われる自分を演じなければならないので、そこでは自分ではない自分を演じることになり、「苦しみ」が生じるのである。

しかし、自分の中心の神との関わりを目指すのなら、すなわち御霊に属する生き方を目指すのなら、そこには「平安」がある。つまり、人を恐れるとわなにかかり、主を信頼するなら守られるということである。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし【主】に信頼する者は守られる」(箴言29:25)

【主】に信頼する者は守られるとは、御霊に属する生き方には「自由」があり、「希望」があるということである。では、クリスチャンのもう一つの生き方である、御霊に属する生き方を見てみよう。

御霊に属する生き方

御霊に属するとは、永遠性に属するということであり、変わらないものに属するということである。そうなると、そこでは変わらないものだけが残ることになる。ならば、変わらないものとは何なのだろう。

変わらないものは「神の言葉」である――「主のことばは、とこしえに変わることがない」(1ペテロ1:25)――。その「神の言葉」によって造られた人の姿である。それは非常に良い姿である――「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)――。その姿を「真実な姿」という。

そのため、変わらないものに属するようになると、変わらない「真実な姿」にまとわりついた泥は、すなわち罪は洗い流されていく――「まつわりつく罪とを捨てて」(ヘブル12:1)――。そのようにして、そこでは「真実な姿」だけが残る。平たくいえば、変わらない主に似せて造られた、自分に気付かされていくということである。これはまさに、御霊なる主の働きによるのである。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリント3:18)

「顔のおおいを取りのけられて」とは、「真実な姿」にまとわりついた泥(罪)が洗い流されるということである。これが御霊に属するということであり、そこでは「真実な姿」を取り戻すので「自由」がある――「主の御霊のあるところには自由があります」(2コリント3:17)――。この「自由」については、人を「足」に例えて説明すると分かりやすい。

「足」の「真実な姿」は、地面を歩けることにある。ところが、その「足」にさまざまな物が絡みつき、歩けなくなったとしよう。そこで「足」は、絡みついた物を取り除く治療を受け、歩けるようになった。すると「足」は、途端に「自由」を手にできる。

人の場合も、これと同じである。自分の「真実な姿」を取り戻せたのなら、「自由」が手に入る。「自由」が手に入れば、そこには「希望」が生まれる――「希望を持たせるためなのです」(ローマ15:4)――。ならば、変わらない神に造られた、人の「真実な姿」とはどんな姿なのだろう。

人の「真実な姿」

聖書によると、神は人を、変わらないご自分に似せて造られたという――「我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26、新共同訳)――。そこで神は、人をご自分のからだの器官として造られたという――「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(1コリント12:27)――。

これこそが、変わることのない人の「真実な姿」である。それは、神の器官としての姿である。そうであれば、体の器官は皆異なるので、誰一人として同じ姿の者はいないということになる。体の器官はどれも大切であるように、誰もが神にはなくてはならない「大切なきみ」ということになる。それは、人の「平坦化」など不可能ということである。

だからこそ、神は一人一人と単独で向き合い、「個人」を生かそうとされる。本来の姿を発揮させようとされる。その姿は誰とも比べることができないので、すなわち神にはおのおのが必要なので、神は「個人」を生かそうとし、そのために、人の「真実な姿」にまとわりついた泥(罪)を洗い流そうとされる。それ故、神と向き合って生きる人たちは泥が洗い流されていくので「自由」が手に入り、「希望」を持てるようになる。ここにこそ、「苦しみ」の解決がある。

このように、人の「真実な姿」は神の器官である――「からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています」(1コリント12:14)――。人は神の器官なので、神は個別に人と向き合い、人を生かそうとされる。そこでは、人の「真実な姿」が生かされるので「自由」があり、「希望」がある。

しかし、人には神が見えないので、「集団」に属することを目指し、「集団」の目で自分を知ろうとする。すると、変わらない「真実な姿」に泥がまとわりついていき、誰もが本来の自分を見失ってしまう。誰もが「集団」の中で泥まみれになり、誰もが同じ罪人となって「平坦化」され、「苦しみ」にあえぐようになる。そこで言いたい、あなたが属そうとする「集団」は存在しないのだと。「集団」という実体は存在しないのだと。

「集団」という実体は存在しない

「集団」という実体は存在しない。そこにあるのは、あくまでも「個人」であって、「個人」がいくら集まっても「個人」なのであり、「個人」が集まると「集団」という一つの実体が生まれ、存在するようになるわけではない。石ころをいくら集めたところで、そこにあるのは石ころであって、石ころが一つとなり「岩」になるわけではないのと同じである。

そのため、「集団」の見立ては絶えず有力な「個人」の考えに左右され、有力な「個人」は次から次に変わるので、「集団」の見立ては定まることがない。人のうわさも七十五日というが、その見立ては風のように消えていく。つまり、「集団」という実体は存在しないのである。

このことは、自分が幼いときに属していた子どもの「集団」を思い出せばすぐに納得がいく。というのも、その「集団」は、今はどこにもないからである。それは風と同じように、消えていってしまったからである。

ところが、人は存在しない「集団」に属そうとし、そこで自分の価値を見いだそうとする。そんなことをしても、そこで知り得るのは、変わらない自分の価値ではない。変わらない「真実な姿」でもない。それは単に、その時々の人の目に映った価値であり、姿に過ぎない。

ならば、この世界で唯一、実体として存在するのは誰かというと、それは神だけである。そのため、神に属さない限り、変わらない自分の価値も、変わらない「真実な姿」も知りようがないのである。

しかし、人は実体のない、いつかは風のように消えてしまう「集団」に身を置き、そこで自分を知ろうとする。神が見えないので、人との関わりの中で(「集団」の中で)、自分の価値を知り、自分が何者であるかを知ろうとする。

それは自分を「集団」に溶け込ませるということであり、「集団」の目に良く映るよう、演技して生きるということである。これは変わらない「真実な姿」に覆いをかけることなので、ここに「苦しみ」が生じる。

このように、「集団」という実体は存在しないので、「集団」の中で自分の価値を知ろうとするのは幻想である。実体として存在するのは神だけなので、神と向き合って生きない限り、本当の自分を知ることはできない。

本当の自分を知ることがなければ、「苦しみ」の解決もない。すなわち、人は「単独者」であることを知るようにならない限り、「苦しみ」の真の解決はないということである。そこでイエスは、人が「単独者」であることを、例えを用いて教えられたのである。ならば、その例えを真剣に見てみたい。

例えに見る「単独者」の教え

イエスは、神と人とが暮らす「神の国」の様子を例えで話された。その例えの中には、神と人との関係を教えたものが複数ある。そこでまず、労働者の例えを見てみよう。

ある者は朝早くから働き、ある者は9時ごろから、またある者は12時ごろから働いた。さらに、ある者は3時ごろから働き、最後の者は5時ごろから働いた。

ところが、彼らが受け取った賃金は皆、同じ「1デナリ」だった。すると、朝から働いた者たちが主人に文句を言った。これに対して主人は、あなたと約束したのは「1デナリ」であり、何も不当なことはしていないと言った(マタイ20:1〜16)。

この例えは、誰もが神との関係の中で、一人で生きていることを教えている。そのため、周りと自分を比べ、自分の労働時間の長さを訴えても意味がないことを教えている。つまり、人は神の前では一人であって、「単独者」なのである。

また、イエスの次の例えも、神と人との関係を教えている。それは、いなくなった1匹の羊を捜し歩く羊飼いの話である。

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。(ルカ15:4)

イエスは、羊を1匹なくしたら、他の羊は放っておいてでもその1匹を捜しに行くと言われた。しかし、この世界は逆である。この世界では、「集団」についていけない者は放っておかれ、「集団」が大切にされる。「集団」と「個人」とでは、「集団」が優先される。大多数の「集団」の意見が優先され、「個人」の意見は無視される。

従って、この世界では、99匹を野原に残したまま、たった1匹を捜しに行くようなことはしない。99匹を犠牲にするよりは、1匹を犠牲にすることが正しいとされる。ところが、イエスの考えはこれとは正反対であった。99匹を野原に残し、すなわち「集団」を放り出し、「個人」を助けに行くと言われたのである。あくまでも、大切なのは「個人」であるとされた。これは、神の関心は「集団」ではなく、あくまでも「個人」であることを物語っている。

まことに神は、あなたを「集団」の中で比べ、その優劣であなたと関わろうとはされないのである。徹底的に、あなたという「個人」だけを見て、あなたと関わるということである。それでイエスは、たとえ1匹の羊であっても命を懸けて捜し、いなくなっていた1匹の羊を見つけたなら、天に喜びが湧き上がると言われたのであった。

ひとりの罪人が心を神に向けるなら、向ける必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ15:7、私訳)

イエスははっきりと、「九十九人の正しい人」の様子を見るよりも、一人の人が心を神に向けられるようになった様子を見る方が、喜びであると言われたのである。それはつまり、神の関心は「集団」にではなく、最後まで「個人」にあり、神の目の前には、あなた一人しかいないということである。言い換えれば、「集団」という実体は存在していないということである。

このように、イエスは例えを通して、神は人と一対一で関わっているのであり、すなわち「個人」と関わるのであっで、「集団」と関わっているのではないことを教えられた。それ故、神の目にはユダヤ人も、ギリシャ人もないのである――「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません」(ローマ10:12)――。なぜなら、人は神の前で、一人で生きている「単独者」だからである。

しかし、人は神に属そうとはせず、「集団」に属そうとする。実体のない「集団」の中で自分の価値を知ろうとし、周りと自分を比べてしまう。ここに「苦しみ」が生じる。そこでイエスは、人は神の前に一人で生きている「単独者」なので、周りと自分を比べることは愚かでしかないことを、こうして例えで教えられたのであった。その例えは、まだ他にもある。それは、あの放蕩息子の例えである。

放蕩息子の例え

人は神の前に一人で生きている「単独者」であることを、イエスは放蕩息子の例えでも教えられた(ルカ15:11〜32)。その例えは、前半が放蕩息子の話であり、後半が放蕩息子の兄の話である。

前半では、一人の人が心を神に向けられるようになったなら、どれほど神は喜ばれるかを教えている。神の関心は「集団」にではなく、「個人」にあるということである。そして、後半の兄の話は、それをさらに深く説明している。

兄は畑仕事が終わり、疲れて家に向かうと、音楽や踊りの音が聞こえてきたので、何が起きているのかと僕に尋ねた。すると僕は、放蕩していた弟が帰ってきたので、お父上が喜びのあまり、最上の肉を息子に食べさせ、みんなで祝っていると言った。

それを聞いた兄は、怒って、家に入ろうともしなかった――「すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった」(ルカ15:28)――。この兄の態度を見て、「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」(ルカ15:28)とある。

父が兄をなだめたのは、兄が弟と自分を比べ、その中で自分の価値を知ろうとしていたからである。しかし、兄は機嫌を直さなかった。父がなだめても耳を貸さず、逆に、自分は真面目に働いてきたのに、放蕩した弟には、自分が食べさせてもらったこともない最上の肉を食べさせるのはなぜかと訴えた。

こうして、兄は徹底的に弟と自分を比べ、自分の方が価値ある者であることを訴えたのである。すると、父はこう言った。

子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。(ルカ15:31)

ここで父は、すなわち神は、※3「おまえはいつも私といっしょにいる」と言われた。この言葉こそ、人は神の前では一人であり、目の前にいるのは神だけであることを教えている。そこで神は続けて、「私のものは、全部おまえのものだ」と言われたのである。

神はここで、「全部おまえのものだ」と言われたのであって、「一部おまえのものだ」と言われたのではない。「全部」ということは、神の前には兄一人しかいないということであり、兄が神の全てであることを意味する。

もし「一部」と言われたのであれば、神の前には大勢いるということになるが、ここで神は「全部」と言い、「おまえはいつも私といっしょにいる」と言われたのである。そうである以上、人は神の前で一人なのであって、目の前にいるのは神だけだということである。

そして、神は放蕩した弟とも同じように、一対一で関わっているので、「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ15:32)と言い、神は人を比較せず、個別の対応しかしないことを教えたのである。

このように、父(神)は怒る兄に、他の人と自分を比べ、自分の価値を知ろうとするのは誤りであることを教えた。「集団」に身を置き、周りと比べることで自分の方が優れていると訴え、そのことで褒美を求め、それによって父(神)との関係を築こうとするのは誤りであることを教えたのである。これは「集団」に身を置く、すなわち肉に属する生き方への警告に他ならない。

イエスは他にも、人の中心は神との関係であり、その関係が周りの人との関係に投影されることを、金持ちとラザロの例え(ルカ16:19〜31)でも教えられた。

金持ちとラザロの例え

金持ちはぜいたくに暮らしていたが、ラザロは彼の食べ残しで腹を満たしていた貧しい者であった。ところが、二人は死ぬと、ラザロは天に引き上げられ、金持ちはよみに落とされた。そうなったのは、ラザロは神に身を置き、神との関係を築く生き方をしていたが、金持ちは「集団」に身を置き、神との関係を築く生き方をしていなかったからである。

そこで、よみに落とされた金持ちは、天にいるアブラハムに、自分の兄弟だけでもよみに落とされないよう、彼らに言い聞かせてほしいと頼んだ。しかしアブラハムは、彼らには「モーセと預言者との教え」があるので、その教えに耳を傾けないのなら、たとえ誰が死者の中から生き返って、彼らに神の言葉を伝えても、彼らは聞き入れはしないと言った。

アブラハムは彼に言った。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(ルカ16:31)

ここで重要なのは、「モーセと預言者との教え」に耳を傾けない者は、誰がその者に神の言葉を語ろうとも、その者は聞かないということである。では、「モーセと預言者との教え」とは、一体何を指すのだろう。

「モーセと預言者との教え」とは、一言でいえば「神の律法」である。その「神の律法」は人の心に記されているので――「律法の命じる行いが自分の心に記されている」(ローマ2:15、新改訳2017)――、「モーセと預言者との教え」とは、神が人の心に語る「神の言葉」を指す。

よって、ここでの真の意味は、神が人の心に直接語る「神の言葉」に耳を傾けないのであれば、誰が「神の言葉」を語ろうとも、その者は聞き入れないということである。これは非常に分かりやすく、人の中心は神との関係であり、その関係が周りの人との関係に投影されることを教えている。要するに、私は神と向き合った中で生きている「単独者」ということである。その関係が、この世界に投影されているのである。

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(7)人は「単独者」である 三谷和司

このように、イエスは多くの例えを通して、人は「単独者」であることを教えている。神の前にはあなたしかいないことを教えている。それでイエスは、あなたの頭の毛さえも、皆数えられているとまで言い――「あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています」(マタイ10:30)――、また、「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」(ヨハネ10:3、新改訳2017)とも言われたのである。

これは全て、神は人と一対一で関わっていることを教えている。一対一なので、神はあなたを周りと比べ、「あなたは劣っている」と断罪することは決してされない。むしろ、神はあなただけを見ているので、あなたの限界を見て助けようとされる。

「神の思い」を人の心に語り続け、そのことで自分の限界に気付かせ、神に助けを乞わせようとされる。そのことで、神はあなたを助け、あなたの神への信仰、希望、愛を育てようとされる。

それはまるで、イエス・キリストという土台に「神の建物」を建てるかのようである。そこで聖書は、「単独者」の話を建物の話に重ねている。(続く)

文中の注

※1 本文で、「大事なのは人が自分のことをどう思うかではなく、神が自分のことをどう思っているか」と書いたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノア】たいせつなきみ)。

※2 本文で、「神から褒められるために、一生懸命頑張る必要は全くない」と書いたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノア】がんばらなくっていいのさ)。

※3「おまえはいつも私といっしょにいる」と父である神が言われたことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノア】わたしは共にいる)。

参考までに

本書で述べた「単独者」という言葉は、キェルケゴールによる言葉である。そのことは特に、彼が書いた『後書』(正式名は『哲学的断片への結びの学問外れな後書』)で詳しく論じられている。また、個人の主体性が失われ、「集団」の中に埋没する「平坦化」への警告は、彼が書いた『文学批評』でのテーマであった。そして、キェルケゴールはその中で、「平坦化」を「水平化」ともいい、人々を「平坦化」する働きを批判している。

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三谷和司

三谷和司

(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手がけ、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

■ 神木イエス・キリスト教会ホームページ
■ ノア・ミュージック・ミニストリー YouTube チャンネル

※ 本コラムの内容はコラムニストによる見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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