本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
―神と人との関係―
人はどうしても、「苦しみ」の原因は見える困難にあると思ってしまう。しかし、「苦しみ」の原因は、心を神に向けられないことにある。そこで前回は、「苦しみ」の構図について述べた。それは、入り込んだ「死」のせいで、目指す神が見えないことであった。目指す神は、自分のただ中におられるにもかかわらず――「あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる」(ゼパニヤ3:17)――、その神が見えないために、自分の外に神を求めてしまうのである。これでは、心を神に向けたくても向けられないので、これが「苦しみ」の構図であった(第5回「苦しみ」の構図)。
そこで今回は、神が自分のただ中におられることをさらに知るために、神と人との関係を掘り下げてみたい。それは、「人の造り」の概要の話から始まる。
「人の造り」の概要
人とは、「体」が収集する情報を認識し、それを基に思考する「精神」である。認識ができるのは、認識に必要な「物差し」を持っているからであり、認識を基に思考ができるのは、その「物差し」が指し示す目的地に向かって動かされているからである。目的地に向かうからこそ、どうすれば目的地に行けるのかと思考ができる。目的地に向かって動かされていなければ、思考は決してできない。思考とは、目的地を前提とするのである。
従って、人である「精神」が機能するには、情報を収集する「体」に加え、その情報を認識し思考するための「物差し」と、その「物差し」が指し示す目的地に向かって人を動かす「運動」が必要になる。そこで神は、「物差し」と「運動」の両方を兼ね備えた神の「いのち」を、ちりで造った人の「体」に吹き込まれた。それによって「体」が収集する情報を認識し、思考する「精神」は機能するようになり、人は生きる者となった。聖書は、そのことを次のように教えている。
神である【主】は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。(創世記2:7、新改訳2017)
ここにある「いのちの息」の「いのち」は「ハイイーム」[חַיּׅים]で、それは複数形であり、三位一体の神の「いのち」を指す。「息」は「ネシャーマー」[נְשָׁמָה]で、「魂」とも訳せる。つまり、「いのちの息」とは、神の「いのち」による「魂」であり、それを「体」に吹き込むことで、人である「精神」は機能するようになったということである。
このように、人である「精神」は、「魂」と「体」に支えられている。その「魂」は神の「いのち」なので、神を目的地とする「神の思い」を「精神」に発信する。それが認識に必要な「物差し」となり、さらには神に向かって人を動かす働きをする――「神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩篇42:2、新共同訳)――。そのおかげで、人である「精神」は、「体」が収集する情報を認識でき、それを基に、神を目指して思考ができる。

このように、人は神から出て、神の「いのち」である「魂」によって保たれ、神に向かって動かされているのである。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ローマ11:36、新共同訳)
ここで大事なことは、人の土台は神の「いのち」であり、人は神の中に生き、動き、存在しているということである――「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)――。神を目指して、動いているということである。それは、神の友と呼ばれることを目指しているということである――「彼は神の友と呼ばれたのです」(ヤコブ2:23)――。
以上が、「人の造り」の概要である。この概要から、神と人との関係を掘り下げてみたい。
神と人との関係を掘り下げる
見てきたように、人の土台となる「岩」は、神である――「神こそ、わが岩」(詩篇62:2)――。人は土台の神を道の光とし、光を目指して動いている――「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)――。
このことから、人は土台の神と向き合った中にあって、目の前にいるのは目指す神だけであることが分かる。それで聖書に、「イエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)とある。つまり、目標は神であり、人は神を目指して生きるように造られたのである。言い換えれば、人の側に意識がなくても、人は神にのみ希望をおいている、ということである。
わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。(詩篇62:6、新共同訳)
それで聖書は、目標の神から外れることを、すなわち「ハマルティア」[ἁμαρτία]を、人の「罪」とする。目標の神から外れることは、神であるイエスを信じないことを意味するので、イエスは、「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハネ16:9、新共同訳)と言われたのである。
以上の話は全て、人は神との関係の中で生きていることを示している。神との関係が、人の中心であることを指し示している。ということは、神との関係を中心に持った者が、この世界で暮らしているということであり、中心の神との関係から生じた気分が、この世界に投影されているということになる。要するに、この世界で感じる「苦しみ」は、自分と神との関係で生じた気分の投影なのである。

つまり、神と人との関係を掘り下げると、人の中心は神であり、人は絶えず神と向き合った中にあるということである。この中心が、自分と他者との関係に投影されている。それでイエスは、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです」(マタイ22:37、38)と言い、人を愛するのは第二の戒めだと言われたのである。
そうなると、人にすることは、神にしていることになる――「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)――。何をするにも、人に対してではなく、神に対してしていることになる――「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」(コロサイ3:23)――。すなわち、人との交わりが、そのまま神との交わりを意味するのである。
私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(1ヨハネ1:3)
そうであれば、どれだけ人を愛せるかで、どれだけ神を愛しているかを知ることができるので、「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(1ヨハネ4:20)と聖書は教えている。
このように、神と人との関係を掘り下げれば、自分と神との関係が、そのまま自分と他者との関係に投影されていることが分かる。この社会での気分は、神との関係が投影されたものだと分かる。それ故、社会で覚える「苦しみ」の解決は、神との関係を改善する以外にはないのである。誰かに「怒り」が湧き、「苦しみ」を覚えたなら、それは神との関係がうまくいっていないからであって、その「苦しみ」の解決は、神との関係を改善する以外にない。
では、人が誰かに対して「怒り」「苦しみ」を覚えるとき、神との関係が、どのようにうまくいっていないのかを見てみよう。
神との関係が、うまくいっていない
神の本質は「愛」であり――「神は愛です」(1ヨハネ4:16)――、その「愛」の中身はキリストが十字架で明らかにされたように、人の罪を無条件で赦(ゆる)すものである――「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26:28、新共同訳)――。
そのため、神は人との関係を、人の罪を無条件で赦すことで築こうとされる――「あなたは私たちの罪をことごとく/海の深みに投げ込まれる」(ミカ7:19、聖書協会共同訳)――。誰もが心を神に向けられない「罪」の状態にあり、そのことで罪の行為に走ってしまうので、神は人との関係を、人が自分の罪の行為を言い表し、神がそれを赦すことで築こうとされる。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)
ということは、罪を赦すという「神の言葉」を、罪を犯したことがないと言って拒んでしまうとどうなるだろう。それは神を偽り者とするのであり、神との関係を築くための「神の言葉」が、その人の内にはないことになる。
罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません。(1ヨハネ1:10、新共同訳)
これでは、神との関係はうまく築けないので、人との関係もうまく築けない。その人には、自分の罪が神に赦されたという経験がないので、人の罪を見ても赦せなくなり、「怒り」を覚えてしまい、人との関係がうまく築けない。ならば、神との関係がうまくいくにはどうすればよいのか。
神との関係がうまくいくには
神との関係がうまくいくには、人の側が罪(苦しみ)を神に言い表し、罪を赦す「神の言葉」を――「子よ。あなたの罪は赦されました」(マルコ2:5)――素直に受け取ればよい。その経験をすればするほど、神を多く愛せるようになり――「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7:47、新共同訳)――、神との関係はうまくいく。
つまり、多くの罪が赦されたなら、神を多く愛せるようになり、人も多く愛せるようになるのである。人の罪を見ても、自分の罪も赦されたのだから赦そうと思えるようになり、「怒り」も生じなくなっていく。こうして、神から罪を赦された気分が、そのまま人との関係にも投影されるので、人との関係もうまくいく。
このように、人が誰かに「怒り」「苦しみ」を覚えるのは、その人が神の愛を拒み、神との関係がうまくいっていないからである。神の愛は、罪を無条件で赦すにもかかわらず、自分には罪がないと言って神の愛を拒むから、神との関係がうまくいかない。そのせいで、人との関係もうまくいかないので「苦しみ」を覚えてしまう。
だが、神の愛を素直に受け取り、神に愛されている自分に気付けば、神との関係がうまくいき、そのまま人を愛せるようになる。あのヘレン・ケラーのように。
まことに、神と人との関係が全てであり、神との関係が世界に投影されているのであって、見える周りの人たちは、神との関係を理解するための映像に過ぎないのである。なぜなら、人は神を目指して生きるように造られたのであって、人は神の前に一人で生きる「単独者」だからである。自分の前には、神しかおられないからである。これこそが、神と人との関係の真実である。
神と人との関係の真実
人は一人で、神と向き合った中で生きている。それが人の中心であり、全ては神との関係から発展し、神との関係が世界に投影されている。あくまでも人は一人であって、そこには自分を支えてくれている神しかおられない。その証拠に、人は死ぬときは一人である。ところが、人は映像に過ぎない周りの人たちを恐れてしまう。
それで聖書は、「人を恐れるとわなにかかる」(箴言29:25)と教えている。ならば、誰も恐れる必要はないのだろうか。いや、恐れなければならない方がいる。それは神である。イエスは、そのことを次のように言われた。
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10:28、新共同訳)
ここでイエスは、人を生かすも殺すも神にしかできないので、神を恐れなさいと言われた。それは、人は神の前に一人で生きているということである。神の前にいるのは自分だけであり、自分の前にいるのも神だけであり、人は「単独者」であるということである。その神との関係が、そのままこの世界に投影されるので、イエスは神だけを恐れるようにと言われたのである。そして、神を「恐れる」という行為の実体は、キリスト(救い主)であるイエスから目を離さないことである――「イエスから目を離さないでいなさい」(ヘブル12:2)――。
このように、人は神の前で、一人で生きる「単独者」である。これが、神と人との関係の真実である。しかし、人は目の前にいる神が見えないので、自分の外に神を求めてしまう。それは、神ではなく、人との関係を求めてしまうということである。神を目指す運動に逆らい、人を目指してしまうのである。人から良く思われることを目指し、人との関係を築こうとする。人との関係の中で自分を知り、生きようとする。それが「苦しみ」の構図である。では、総括をしよう。
総括
人は神から出て、神の「いのち」である「魂」によって保たれ、神に向かって動かされている――「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ11:36、新共同訳)――。本人が意識しようがしまいが、人は神を求め、神を目指している。
ところが、その神を自分の外に求めてしまうので、自分のただ中におられる神とうまく関係を築くことができない――「あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる」(ゼパニヤ3:17)――。これでは、罪が無条件で赦される「赦しの恵み」を体験できない。
「赦しの恵み」を体験できないと、人の罪を見ると赦せなくなり、「苦しみ」を覚え、その「苦しみ」は、罪を犯した相手のせいだと思ってしまう。だが真実は、相手の罪を赦すことができないので「苦しみ」を覚えている。相手の罪を赦せないのは、自分の罪が神から無条件で赦されたことを知る経験がないからである。これを、心が神に向いていないという。
逆に、自分の罪が神に赦されたことを知るなら、私もあの人を赦そうとなる。自分には人を裁く資格などないとなる。それでイエスは、こういう例えを話された。
主人に頼み、多額の借金を免除された者がいた。ところがその人は、自分に借金をしていた者が借金の免除を頼んでも赦さなかった。そして、彼を牢に投げ込んだ。それを聞いた主人が、「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」(マタイ18:32、33)と言って怒り、彼への借金の免除を取り消し、今度は借金を全部返すまで、その人を獄吏に引き渡したという。そしてイエスは、「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです」(マタイ18:35)と言われたのである。
この例えは、自分の罪が赦されたなら、人からの罪も赦すべきであることを教えている。裏を返すと、自分の罪が赦されたことを真剣に知るなら、人からの罪も赦せるようになるということである。人からの罪を赦せない者は、自分の罪が赦された経験を真剣にはしていないということである。それで、イエスは例えの中で、人の借金を赦さなかった者を獄吏に引き渡したと言われた。これは、罪が赦される体験を真剣にさせるためにそうされたのであった。なぜなら、人の罪を赦される神は、自らが人の罪を赦すために十字架にかかり、真剣に人の罪を赦されたからである。
また、この例えは同時に、人は神と向き合った中で生きている「単独者」であることを示している。人にすることは、神にすることであることを示している。
このように、人の土台は神であり、人は単独で生きているのではない。人は、神によって生かされている存在であり、神がいなければ何もできない。例えるなら、神が「ぶどうの木」の幹であれば、人はその「枝」である。幹がなければ「枝」は何もできないように、人も神を離れては、何もすることができないのである。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。(ヨハネ15:5)
従って、神と人との関係で最も大事なことは、人は神に支えられ、神によって生かされている者だということである。人は神(ぶどうの木)の前に一人で生きる「単独者」(枝)だということである。それが人の中心であって、その中心が世界に投影されているのである。
しかし、人は目の前にいる神が見えないので、自分は一人で生きていると思ってしまう。そこで、目指す神を自分の外に求めてしまう。ならば、どうして神が見えないのか。それは、神と人とを分断する「死」が、悪魔の仕業で入り込んだからである。これについては、前回のコラムで述べているのでそちらを見てほしい(第5回「苦しみ」の構図)。
以上の話が分かれば、「苦しみ」の原因は、神との関係がうまくいっていないことにあることが分かるはずである。というより、聖書は一貫して、そのように教えている。人の中心は神との関係にあるからそうなることを聖書は教えている。(続く)
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