本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
―「苦しみ」の構図―
心を神に向けられないことが「苦しみ」の真の原因である、という話をしてきた。しかし、人はどうしても、「苦しみ」の原因は見える困難にあると思ってしまう。そこで、本コラムの後半は、神と人との関係を深く掘り下げ、神と人との関係を正確に把握することを目指す。そうすれば、「苦しみ」の原因がさらに分かるからである。では、後半の最初は、――「苦しみ」の構図――について考察する。それは、人は神に向かって動かされている、という話から始まる。
神に向かって動かされている
人は欲するものを手に入れたなら喜ぶ。しかし、しばらくすると飽きてしまい、また他のものが欲しくなる。それを、物心がついたときから、絶え間なく繰り返している。これは、自分が本当は何を欲しているのか知らないということを示している。だが、何を欲しているのか知らなくても、知らないものに向かう努力は、神に向けられている。というのも、人は神によって造られ、神によって保たれ、神に向かって動かされているからである。
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。(ローマ11:36、新共同訳)
人は神によって造られたので、誰もが神に向かって動かされている。本人には意識がなくても、誰もが神を欲し、神との出会いを目指している。聖書は、そのように教えている。
神よ、わたしの魂はあなたを求める。(詩篇42:2、新共同訳)
自分は何を欲しているのかを知らなくても、このように誰もが神に向かって動かされている。本人には意識がなくても、誰もが神を欲し、神との出会いを目指している。つまり、それが自分の外に何かを欲するということの原動力になっているのである。それ故、何かを欲する努力は、全て、神に向かっている。
ということは、神が人の「安心」となるように人は造られているということである。人は水がなければ生きていけないように、神が、まさしく生きていく上で必要な「生ける水」(ヨハネ4:11)となるように造られているのである。ただ、その神が見えないので、見える世界に神を、すなわち「安心」を欲してしまうだけである。
例えば、子どもがおもちゃを欲するのは、それを手にすれば「安心」できると思うからである。青年が恋人を欲するのは、それを手にすれば「安心」できると思うからである。大人が名誉や富を欲するのは、それを手にすれば「安心」できると思うからである。
このように、人は神に向かって動かされているが、この世界ではその神が見えないので、自分の外に次から次と何かを欲し、それで「安心」しようとする。神が見えないので、手当たり次第に何かを欲し、「安心」と出会おうとする。
ところが、手にしたものはどれも神ではないので、満足することができず、再び他のものが欲しくなる。人はこの努力を無限に繰り返すのである。そして、人は次第に何かを欲することに疲れ果ててしまう。これは、目指す神は、自分の外にはいないことを示している。では、神はどこにおられるのか。何と、神は自分のただ中におられる。
神は自分のただ中におられる
自分の外に探し求めていた「安心」となる神は、何と、私たち一人一人のただ中におられると、聖書は教えている。
あなたの神、【主】は、あなたのただ中におられる。(ゼパニヤ3:17)
探し求めていた神を、畏れ多くも人は持っているということである。「安心」となる神が見えないために神を自分の外に求めてきたが、その神は私のただ中におられたのである。そうとも知らず、自分の外に「安心」となる何かを欲することで神を求めてきた。これでは神に出会うことができない。そのため、何かを欲する努力は無限に続いてしまう。まさに神は、私の外の世界では無限であった。
だいたいにして、神を持っていなければ、すなわち「不変の真理」を持っていなければ、「体」がいくら情報を持ち込んでも、その情報を判断する物差しがない。物差しがなければ、何の認識も思考も生じない。思考が生じなければ、「言葉」も持てない。
しかし、人は何かを認識し、思考し、「言葉」を持つことができる。ということは、人の中に「不変の真理」があるということであり、それは神を持っているということなのである。それで聖書は、「言葉」は神であるとする――「ことばは神であった」(ヨハネ1:1)――。
さらに言えば、神を持っていなければ、神のことを思うことも、神を求めることもできない。人は知らないものは思うことも、求めることもできないからである。
例えば、昔の人はスマホを知らないので、スマホのことを思うことも、性能の良いスマホを買いたいと欲することもない。しかし、人類は「神」という共通の「言葉」を持っていて、誰もが神のことを想像でき、神に思いをはせることができる。それは、誰もが神を持っているからである。自分のただ中に神がおられるから、そうしたことができる。
これは、冷静に考えれば分かることであり、人は神(不変の真理)を持っていなければ、何も認識することができないのである。プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲル、キェルケゴールといった、そうそうたる哲学者たちは皆そのように考え、彼らはその仕組みからおのおのが独自の哲学を展開した。
このように、私たちが「言葉」を持って生きていられるのは、神が私たちの中にあって、私たちを生かしてくれているからなのである。それでイエスは、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」(ヨハネ15:4)と言われたのである。イエスはここで、私たちは神と向き合って生きているのであって、すでに神を持っているから、そのことに気付きなさいと教えている。
私たちは神を持っている
私たちは、自分の外に神を求めてきたが、その神を私たちはすでに持っている。神と向き合った中で生きている。ただ、そのことに気付かずに生きているだけであって、私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのである。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。(使徒17:28)
人は神の中に生き、動き、また存在するということは、人は神に背負われて生きているということである。それは、たとえ人が道を誤っても、神は人を見捨てることができないということであり、人の目が見えなくなっても、耳が聞こえなくなっても、言葉を発せなくなっても、神がそこにいてくださるということである。年老いて頭が回らなくなっても、それでも変わらない神がいてくださるということである。つまり、人が苦しむときは、いつも神がそばにいてくださるのである。これは、何と幸いなことだろう。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖(あがな)い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ63:9)
神はいつもいてくださるので、神が人となって現れたイエスは、「インマヌエル」と呼ばれた。意味は――「神は私たちとともにおられる」(マタイ1:23)――である。そうであるからこそ、人を苦しめている罪を神は自分の「苦しみ」として背負い、罪を取り除こうとしてくださる。
そこで、神は人の罪を赦(ゆる)すと言われる。人の罪は無限の広がりを持つのに、それでも赦すと言われる――「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます」(マルコ3:28)――。つまりこれは、人の罪が無限に広がっても、神の赦しはさらに無限であり、人の罪は決して神の赦しの無限を追い越すことができないということを意味する。ここに、「苦しみ」の解決があり、まことの「安心」がある。
しかし、人は自分のただ中におられる神の「安心」にとどまるのではなく、自分の外に神を求め、見える「安心」にとどまろうとしてきた。それは、目があっても見えないからである――「目がありながら見えないのですか」(マルコ8:18)――。目が見えないので、誤ったものを神として求めてしまう。それは「的外れ」の生き方であって、聖書はこの「的外れ」を「罪」と呼ぶ。ここに、「苦しみ」の構図がある。
では、なぜ自分のただ中におられる神に、人は気付かないのだろう。結論から言うと、人の心が純粋ではないからである。神はまことに純粋な方なので、純粋な心でしか、神には気付けない。ならば、「純粋な心」とは何なのか。
「純粋な心」とは何なのか
神は100パーセント「純粋な方」であり、そこには何の偽りもない。そのため、人も「純粋な心」を持たなければ、神には気付けない。ならば、「純粋な心」とは何なのか。それは、何の偽りもない正直な心である。そして、自分が正直な心の持ち主かどうかの試金石は、自分が「罪人」であることを認められるかどうかである。
つまり、自分には罪がないと言うのであれば、その人は自分を欺き――「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており」(1ヨハネ1:8)――、偽りを言う者である。逆に、自分は罪を犯す「罪人」だと認められる人は正直な人であり、「純粋な心」を持っている。その人は目の前にいる神に気付くことができる。
なぜなら、100パーセント「純粋な方」は罪に妥協しない、罪を取り除く医者だからである。神は「罪人」という「病人」を癒やす医者である。それ故、自分を「罪人」だと認められる人は、目の前の神に気付くことができる。それで、イエスは次のように言われたのである。
医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。(マルコ2:17)
ここでイエスは、「罪人」は「病人」と同じであり、ご自分は彼らを癒やす医者であると言われた。そうである以上、自分を義人だとし、「罪人」という「病人」ではないとするなら、もう医者は必要ないので、自分を支えてくださっている、医者である神には気付けない。
だが、うれしいことに、人の現状は誰もが「罪人」という「病人」であって、義人は一人もいない。「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)。ならば、どうして罪を認める「純粋な心」を持てないのだろう。聖書は、その原因を「死」が入り込んだからだとする。
「死」が入り込んだ
その昔、悪魔は蛇を使って人を惑わし、「神と異なる思い」を信じ込ませてしまった。悪魔は蛇を使い、神が「食べると必ず死んでしまう」(創世記2:17、新共同訳)と言われた実を食べても、「あなたがたは決して死にません」(創世記3:4)と、言葉巧みに人をだまし、「神と異なる思い」を人に信じ込ませてしまった。それは神を信じないことなので、これが罪であった――「罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと」(ヨハネ16:9、新共同訳)――。
ちなみに、その時の蛇は、今日のような姿ではなく、人とは最も親しい関係を築くことができた、最も賢い動物であった。故に聖書は、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(創世記3:1、新共同訳)と教えている。ここでの「賢い」は良い意味での「賢い」であって、あのチンパンジーのように「賢い」ということであり、人とは最も親しい関係を築ける良い動物であったということである。なぜなら、神は良いものしか造られなかったからである――「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)――。それで、悪魔は人と親しかった蛇を操って人を油断させ、欺いたのである。では、話を戻そう。
蛇は、普段から親しい関係にあったので、人は蛇が言った、「あなたがたは決して死にません」(創世記3:4)という「神と異なる思い」を、ただ信じてしまった。すると、どうなっただろう。ぶどうの木の枝は、ぶどうの木と「一つ」であるように、神と人とは「一つ思い」で結ばれていたので――「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ15:5)――、人が「神と異なる思い」を信じて禁断の実を食べたことで、神と人との「一つ」関係は崩壊してしまった。「神と異なる思い」を信じるという罪を犯したことで、人は神と分離し、神が見えなくなった。この出来事を、「死」が入り込んだという。
そこで聖書を見てみると、「死」が入り込んだとき、アダムとエバは自分たちの土台の神が見えなくなり、自分たちの姿しか見えない「肉の目」が開いたとある――「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)――。これにより、人は裸の自分に「恐れ」を覚えるようになり――「私は裸なので、恐れて」(創世記3:10)――、自分の外側を装うようになったとある――「そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った」(創世記3:7)――。これは、自分の外側を装うことで自分を良く見せ、自分の罪を隠すようになったということである。
それで二人は、禁断の実を食べた罪を神に問われると、それを他者のせいにし、自分は悪くないと自分の罪を隠した。隠すことで、自分を良く見せようとした。自分は正しい人間であろうとした。ここから、人は誰の「うわべ」が良いかを競うようになり、そこにねたみや嫉妬が生まれ、人は人を愛せなくなった。それがさまざまな「罪の行為」を誘発するので、カインはアベルと「うわべ」を競い、カインに嫉妬し、彼を殺してしまった。
以上の経緯を簡単にまとめると、一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して「死」が入り、その「死」が全ての人たちに広がり、全ての人は神が見えなくなった。その結果、誰もが罪を犯すようになった、ということである。聖書はそのように教えている。
それ故、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)
――なお、この私訳は Joseph A. Fitzmyer による英訳を日本語にしたものである。この英訳は、新約聖書のギリシャ語辞書としては最も学術的に優れているとされるドイツ語の Walter Bauer の辞書を、Danker 監修の下で英訳された第3版の365ページに記載されている――
このように、「純粋な心」を持てなくなった原因は、神が見えなくなる「死」が入り込んだからである。そのことで自分の姿に「恐れ」を抱くようになり、自分の外側を装い、自分は正しい人間であることを目指すようになった。それにより、自分は「罪人」であることを認められる「純粋な心」が持てなくなったのである。これでは、自分のただ中におられる神に気付くことができない。これが「苦しみ」の構図である。
「苦しみ」の構図
「苦しみ」の構図は、人が神に向かって動かされているにもかかわらず、神に出会えないことにある。神という「安心」を求めているのに、神に近づけないことが「苦しみ」の構図である。それは、自分のただ中におられる神を、自分の外に求めてしまうからである。そうなってしまったのは、神が見えなくなる「死」が入り込んだからである。
つまり、人の中に神と人を分離する「死」が入り込んで以来、人は土台の神が見えなくなり、神を自分の外に求めるようになったのである。その神は「安心」を与える「生ける水」(ヨハネ4:11)だったので、誰もが自分の外に「安心」を欲するようになった。
その「安心」の最高峰が、人から良く思われ、愛されることだったので、誰もが自分の「うわべ」を飾り、自分の罪を隠し、自分を正しい人間に見せようとした。こうして、自分のただ中におられる神に気付けなくなった。
そこにはもう、自分は「罪人」であることを認められる「純粋な心」はなく、「自分には罪がない」と自分を欺くしかない。しかし、神は罪を取り除く医者なので、これでは神に出会えない。真理である神には、気付けない――「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(1ヨハネ1:8)――。
そこで人は、神と出会える接点を「罪」ではなく、「理性」に求めるようになった。「理性」で神の存在を証明し、そこに神を信じることの根拠を求めるようになった。神を「理性」で知り、神を納得の対象にしようとしたのである。だがそれは、神を論じているだけであって、生きた神と出会っているわけではない。神についての知識と出会っただけである。
これでは、いつまでたっても、自分のただ中におられる神には気付けないので、心を神に向けられない。ここに「苦しみ」の構図がある。人は神に向かっていくように造られているので、神に向かえないことが、すなわち心を神に向けられないことが「苦しみ」となる。この「苦しみ」が「罪」であり、それはまさしく入り込んだ「死のとげ」であった――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――。では、ここまでの話をまとめながら、それに関する総括をしたい。
総括
「苦しみ」の原因は、神を求めているのに、すなわちまことの「安心」を求めているのに、その「安心」となる神と出会えないことにある。それは、自分のただ中におられる神を、自分の外に求めてしまうからである。神を外に求めることが、何かを欲するということの原動力になっている。
しかし、いくら自分の外に何かを欲し、それを手にしても、それは神ではないので喜びも長続きせず、再び何かを欲するようになる。人はそれを、死ぬまで繰り返してしまう。全ては、共におられる神に人が気付かないまま、自分の外に神を求めてしまうからである。
共におられる神に気付かないのは、自分が「罪人」であることを認められる「純粋な心」がないからである。神は「罪人」という「病人」を癒やす医者なので、「罪人」であることを認めない限り、神との接点はない。医者を必要とするのは「病人」であり、自分は「病人」ではないと言うのであれば、医者である神は不要になるので、これでは神に気付くことができない。
そこで、なぜ人は自分には罪がないとし、自分を正しい人間であるかのように装うようになったのかを見てきた。それは、神と人を分離し、神を見えなくする「死」が入り込んだからであった。そのせいで、人は自分の姿しか見えなくなり、そのことの「恐れ」から自分の姿を装うようになり、自分を正しい人間とするようになった。それはちょうど、イエスの時代の律法学者やパリサイ人のようである。彼らは外側を装うことに成功し、正しい人間とされたが、イエスは彼らの姿を次のように言われたのである。
わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。(マタイ23:27)
これでは、一緒におられる神には気付けない。実際、律法学者やパリサイ人は、目の前に神(イエス)がおられたにもかかわらず、全くもって気付かなかった。ところが、彼らは神に近づいていると思っていた。これを「盲目」という。「盲目」とは、自分が神に近づいているのか、それとも遠ざかっているのかが分からないことをいう。
このように、本人は気付いていなくても、自分を正しいとすることで、すなわち罪がないと言うことで神を拒んでいるのである――「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(1ヨハネ1:8)――。
それ故、自分を正しいとさせるように仕向けた「死」を負った状態を「罪」といい――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――、「死」を負って死んでいる状態にある人を「罪人」と呼ぶ――「罪過の中に死んでいた」(エペソ2:5)――。
つまり、「罪人」故に人は罪を犯すのであって、罪を犯すから「罪人」なのではない。人が「罪人」なのは、「死」を負っているからである。そうである以上、「罪人」とは「死」による「病人」であり、「死」は医者である神にしか癒やせないので、イエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と言われたのである。
まさしく人の「罪」が、神と人とを結ぶ「接点」である。それは、「良い行い」ではない。それ故、イエスと一緒に十字架につけられた一人の「罪人」は、イエスに助けを求めたことで救われた。彼は、何も「良い行い」をしなかったが、救われたのである(ルカ13:42、43)。
そして、誰もがイエスと一緒に十字架につけられた「罪人」であり、誰もが神に助けを求めることができる。誰もが「罪人」なので、誰もが神との「接点」を持っていて、神の治療を受けられる。それが神の赦しであり、それは人の罪が紅のように赤くても、真っ白にしてしまうのである。
【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)
これを「赦しの恵み」という。この恵みを受け取ることが「苦しみ」の治療になる。この恵みは誰であれ「ただ」で受け取ることができる。なぜなら、誰もが、イエス・キリストを土台にして生きているからである――「その土台とはイエス・キリストです」(1コリント3:11)――。しかし、その方の「赦しの恵み」の治療を拒めば、「苦しみ」は解決しない。
ところが、人はその方の治療を拒んでしまう。それは、土台の神が見えないからである。見えないのは、悪魔の仕業で「死」が入り込んだからである――「死をつかさどる者、つまり悪魔を」(創世記2:14、新共同訳)――。つまり、この「死」が、「苦しみ」の構図を作り上げたのである。
なお、人はいくらイエス・キリストを土台にして生きていても、その方の救いの御手を拒み続け、その呼びかけに応答しないのであれば、そこに「永遠のいのち」はない。また、その呼びかけに応答し、キリストを信じるようになっても、「赦しの恵み」の治療を拒めば「苦しみ」は解決しない。それでも、信じている者は「永遠のいのち」を持っているので――「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)――、天国には行ける。
以上が、総括である。ここでは、――「苦しみ」の構図――ということで話をしてきたが、それは「死」が作った構図である。「死」が入り込んで以来、人は自分の中におられる神に気付かなくなり、その「死」による「恐れ」から、自分の罪を隠すようになった。これでは心を神に向けたくても向けられないので、これが「苦しみ」の構図となった。(続く)
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