ある日、神はアブラハムに声をかけました。
神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。(創世記22章2、3節)
聖書を見ると、アブラハムは間髪入れずに(「翌朝早く」)従っています。しかし、アブラハムにとってのイサクは、年寄子であり、世継ぎであり、正妻から生まれた最も愛するひとり子でした。
ロボットであるなら話は別ですが、夜に神の御声を聞いてから、アブラハムには間違いなく葛藤があり、祈りがあり、翌朝までさまざまなやりとりがあったはずです。しかし、決め手となったのは、神を信じる信仰でした。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブの手紙2章21~23節)
ヤコブは「アブラハムがイサクをささげた行いによって義と認められた」と語ります。そうであるとしたら、宗教改革者マルティン・ルターが強調した「信仰義認」と矛盾があるように感じます。
見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク書2章4節)
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ人への手紙1章17節)
ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。(ガラテヤ人への手紙3章11節)
わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。(ヘブル人への手紙10章38節)
上記の4つの聖句は「信仰による義」を語るのに、ヤコブは「行いによる義」を語ります。
ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。(ヤコブの手紙2章20節)
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。(ヤコブの手紙2章24節)
矛盾なのか、はたまた信仰の違う側面を語っているのでしょうか。後者です。口で「信じます」と言うことはできても、行いがなかったら、その信仰は本物ではないからです。つまり、信じていないから、行いが伴わないのです。
「イエス様を信じたら、永遠の命が与えられます」と聞いた人がそれを信じたなら、そのまま何もしないで去って行くことはないはずです。私たちの路傍伝道を通して「神様を信じます」と言ってくれた人はたくさんいます。しかし、多くの人が「ありがとう、じゃーね!」と去って行ってしまうのです。それはリップサービスか、口先だけの信仰か、信じたつもりか、よく分かっていないかのいずれかでしょう。
もし、夜中に戸をたたく人がいて「あなたの家が火事ですよ。早く逃げてください!」と言ってくれたなら、直ちに避難行動を取り始めるはずです。「ああ、そーですか? ありがとうございます!」と言って、そのまま寝てしまう人がいるとしたら、それは理解していないか、信じていないかのどちらかです。
アブラハムがイサクをささげたことは、神を信じることとイコールなのです。「いったんは神を信じたが、イサクを殺すのが惜しくなってささげることをやめた」のであれば、途中で信仰を捨てたことになるのです。
今日、あなた自身の信仰がどうであるかを知りたかったら、あなたの神に対する行動を見たら一目瞭然です。もし、行いのない信仰というものがあるとしたら、それは信じているつもりか、口先だけの信仰です。もしあなたがそのような状態であるとしたら、「神様、信仰のない私を助けてください」と祈ってみませんか。
信仰は、恵みによって与えられるものです。恵み深い神は、神を求めるあなたに信仰を与えられ、信仰に伴う行動を与えられます。その信仰によって、あなたを義と認め、祝福してくださいます。
◇
















