ヨセフがエジプトの囚人から国務大臣に引き上げられるためには、いくつものテストがありました。その最後のテストは、力が与えられても思い上がらないか、というテストでした。
ヨセフは牢屋から呼び出され、ひげをそり、着物を着替えて王の前に立ちました。王がヨセフに「あなたは夢を解き明かすことができるそうだが」と聞きますと、ヨセフは、「いいえ、私ではありません。それは神様です」と答えました。
かつてのヨセフであったならば、うぬぼれて「はい王様、私にはそのような神通力があります」と言ったかもしれません。ヨセフは、牢屋で人格が変えられ、謙遜にさせられました。
人の病気の癒やしに関わったときに「私が病気を癒やしました」と言うか、「神様が癒やしてくださいました」と言うかでは、天と地ほどの違いがあります。
大きな教会堂を建て、たくさんの会衆を導いている牧師は、その心の中で「私は特別な牧師である」という思いを持ちやすいものです。しかし、心の底から「神様がしてくださいました」と言えることが大切であり、それは本当のことなのです。
ウィリアム・ウッド牧師が「支配神学」の危険性に対して警笛を鳴らしておられます。支配神学というのは、「自分が言った通りになる」と言うところから始まり、「台風よ、進路を変えよ!」「コロナよ、出て行け!」(「何々よ、何々になれ!」)などと命じて、支配しようとする考え方です。
聖書には「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコの福音書11章23節)と書かれています。
これは「何でもいいから、あなたが思う通りに命じたらその通りになる」というものではありません。初めは理想を祈り、命じていても、思い上がってくると、自己中心な罪の性質から出る思いを命じるようになり、結果として、自分が神のようになろうとしてしまう可能性があります。
むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」(ヤコブの手紙4章15節)
父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(ルカの福音書22章42節)
ヨセフは、心の底から「夢を解き明かしてくださるのは神様です」と言いました。大切なのは、正答を知って、形だけ「私ではなく神様です」と言うのではなく、心の底から言うことです。
神は神であり、私たちは被造物なのです。初めの人アダムとエバに悪魔が行った誘惑は「この実を食べたら善悪を知るようになれる(神のようになれる)」でした。
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」(創世記3章4、5節)
悪魔は今でも、人が思い上がり、高ぶって神のようになろうとするように誘惑してきます。私たちは、神が命じられたら「はい」と従い、神が命じもしないことを先走って言ったり行ったりしないように気を付けたいものです。
神は、あなたを奴隷のように扱っているのではないのです。神より少し低く造られたのです。同格ではないのです。神に仕え、神の御心を知り、神と共に生き、神と共に働いていきましょう。それがあなたの尊厳を守ることであり、最高の地位なのです。
ヨセフは謙遜でしたが、それで押しつぶされ、踏みつけられて低くされたのではありません。
パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ」。パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」そこで、パロは自分の指輪を手からはずして、それをヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、その首に金の首飾りを掛けた。(創世記41章39〜42節)
神があなたを高く引き上げてくださるのです。
◇















