聖書には、イエス様の言葉として「赦(ゆる)されない罪がある」と書かれています。
人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイの福音書12章32節)
「人の子」とは、イエス様がご自分のことを言うとき、好んで使った表現です。つまり、「わたしに言い逆らっても赦される」と言っているのです。にもかかわらず、「御霊に言い逆らう罪は赦されない」と断言されました。
一体どういうことでしょうか。イエス様はこの直前に、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人を癒やされました。イエス様は神であられましたが、人となって来られたときには、神の力を使わないで生きておられました。私たちと同じように、祈り、御霊の力によって癒やしの働きを行われました。
しかし、ユダヤ人のリーダーたちは、それを拒否して、「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」(マタイの福音書12章24節)と言い切りました。
それを聞いた庶民たちは、どうしたらよいでしょうか。
そのとき、悪霊につかれて、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」(マタイの福音書12章22、23節)
庶民たちは「この方こそキリストではないだろうか」と半ば信じようとしていたのに、リーダーが「この人はキリストではない、悪霊の力で奇跡をしたに過ぎない」と、信仰の道を閉ざしてしまったのです。
御霊の力を否定したら、そこで全てが閉じたのです。聖書は教えます。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(コリント人への手紙第一12章3節)と。
御霊をベルゼブルの霊と言ったら、「イエス様を主」と言わせてくださる御霊に、誰が心を開けるのでしょうか。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ローマ人への手紙10章13節)
主の御名を呼び求めるだけで救われるのに、救いを拒絶するので救われることがなく、結果として「罪が赦されない」ことになるのです。
今日も主の御霊は、イエス様を信じ、呼び求めるように人々を導いておられます。私たちは、主の御霊の働きを認め、その導きに従っていきたいものですね。
私たちは既に、主の御霊に従ったことで、イエス様を信じて救われていますが、さらに継続して主の御霊に導かれて生きていきたいものですね。その生き方の中には、決して「赦されない罪」など存在しないのです。
イエス様が十字架で、私たちの罪を背負って死んでくださったのですから。
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