私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。……だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5章14~17節)
このクリスマス、イエス様の救いが必要な人がたくさんいますので、単なるイベントで終わるのではなく、イエス様の救い、福音をお届けしたいと思います。
旧統一協会の裁判のニュースを心痛めながら見ていました。人が作った宗教と、イエス様の福音に立った教会との違いは何だろうかと思いました。人が作った宗教は、人のわがまま、欲望が入りますので、今回のような事件が起こるのです。違いは、救い主イエス様がそこにおられるかどうかということです。
マタイ1章でイエス様のお誕生の預言がヨセフに与えられたときに「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」「その名はイエス(意味は、神は救いたもう)です」。そして、マルコ10章でも「人の子が来たのも……多くの人のための、贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるため」と宣言しています。
神であられるお方が、救い主となるために、人の姿をとってお生まれくださったのです。人間の歴史の中で、イエス様のご生涯だけが、人々を救うために、死ぬために、お生まれくださったのです。生まれた最初から、福音的、伝道的なのです。そして、パウロはキリストの死について、次のように語っています。
1. キリストの死→全ての罪人の死
14節に「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」とあります。私たちの心は汚く、神の裁きを受け、死んでお詫びをしなければならない罪深い存在ですが、私たちが死ぬ代わりに、神の御子であるイエス様が十字架で身代わりの死を遂げてくださいました。
イエス様が十字架で死なれたことが、私たち罪人みんなが死んだことになるとパウロは語っています。キリストの死は、それほど大きな意味があり、その死を実現するために、イエス様はこの世にお生まれくださったのです。
2. キリストの死→全ての罪赦された者の生命
15節「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」。キリストの死は、私たちがキリストに向かって生きるように、生まれ変わるための死だったと語っています。
これからは、自分のためとか、世の中の流行に従って生きるのではなく、キリストに倣って、キリストのしもべ、弟子、証し人として生きていく生き方、新しい人生が与えられるように、キリストはお生まれくださったのです。
3. キリストの死→新しいいのちの体験
17節「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。キリストの死が、新しいいのちをもたらしてくださいます。この世の悪や罪の影響下で、自分の弱さ、滅び、絶望の中で生きていた者が、キリストにあって新しくされ、いのちと愛と希望のある新しい人生を生きていくことができるのです。
そして、14節「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」とパウロは語ります。信仰と聖霊の働きによって、私たちもこの実感を頂きましょう。このクリスマス、私たちのために、死ぬためにお生まれくださったイエス・キリストを心からお迎えしましょう。
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