本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
「苦しみ」から「苦しみ」へ
キリスト者は、神が差し出された御手につかまった者である。神の御手につかまると、神がキリスト者を神の方に引き寄せる。ところが、神は「神の国」を住まいとし、人は「この世」を住まいとするので、引き寄せられるためには「この世」を脱ぎ捨てなければならない。それは、「この世」の安心を手放さなければならないということである。人から良く思われる「評判」や、人からうらやましがられる「富」を手放すということである。
ならば、キリスト者は、「この世」のものを捨てることができるのか。「この世」の安心を手放すことができるというのか。そんなことは到底できないので、ここに葛藤が生じ、それが「苦しみ」となる。
すると、神は「この世」の安心を手放すことができないキリスト者を神の元に引き寄せることを諦めるのだろうか。いや、決して諦めない。神はいったんつかんだ手を絶対に離さず、神の所まで確実に引き寄せる。故に、キリスト者はどうしても「この世」の安心を手放さなければならない。
ところが、キリスト者は「この世」の安心を手放すどころか、逆に「この世」を愛し、世の友になろうとする。しかしそれは、自分を神に引き寄せる「神の愛」に逆らっているので、神に敵対することになる――「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです」(ヤコブ4:4、新改訳2017)――。それでも、なお、手放すことができないのである。
そうなると、神に引き寄せられていく道は葛藤から葛藤へと、試練から試練へと、すなわち「苦しみ」から「苦しみ」へと進む道になる。
だが、「苦しみ」へと進む道は、「神の愛」に従えない自らの限界を知り、自らの「弱さ」を認められるようになっていく道でもある。すると何と、その「弱さ」に神の恵みが完全に現れる――「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)――。ここに「光」がある。そうである以上、「苦しみ」から「苦しみ」へと進む道は、「闇」から「光」へと進む道なのである。
前回は、そのような話をした。今回はその続きとして、「苦しみ」が始まるまでの経緯をたどっていく。その話は前半と後半に分かれ、前半は、「苦しみ」の起源となった「死」が人に入り込んだ出来事を掘り下げていく。それは悪魔の起源を探る旅でもあるので、副題を「悪魔の起源」とする。後半は、キリスト者が体感する「苦しみ」は、神がキリスト者を引き寄せる神の救いによって始まったので、タイトルを「救いの計画」とする。では、「死」が入り込んだ出来事を見ていこう。
「苦しみ」が始まるまでの経緯(前半)
「死」が入り込んだ出来事を掘り下げていく―悪魔の起源―
人は、神と共に永遠に生きる者として造られた。朽ちることのない存在として、神のかたちに造られた。そこに、悪魔に操られた蛇が登場する。蛇は言葉巧みに人を欺き、罪を犯させてしまった。ところが、罪というのは、神の御心に背くことなので、それによって神との関係が壊れてしまった。その神は「永遠性」なので、神との関係が壊れるとは、人が神と関われない「有限性」へと転じてしまうことを意味した。こうして、罪によって人の姿は「有限性」へと転じ、朽ちていく運命を背負うことになった。
これが、聖書の語る「死」が人に入り込んだ出来事であり、「死」は罪によって入り込んだのである。そして、入り込んだ「死」が全人類に広がった――「罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった」(ローマ5:12)――。この出来事の中に、人の「苦しみ」の起源がある。
そこで、私たちはこの「死」が入り込んだ出来事を、もう少し丁寧に掘り下げてみたい。その「死」は、神から出たものなのか、それとも別の起源を持つのか――まずは、その根源に目を向けてみたい。
よく耳にするのが、神が人の罪を見て怒り、罰として「死」を与えたということである。つまり、「死」は神から出たという理解である。
だが、もしそうなら、「苦しみ」を取り除く「光」が消えてしまう。というのも、今日の私たちを苦しめているのは「死」であり、その「死」が、見える安心をむさぼる罪の原因であると、聖書が教えているからである――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――。そうである以上、「死」が神から出たとなれば、神が人の敵となるので、そこにはもう希望の「光」が差し込まなくなってしまうのである。
では、なぜ人の罪が「死」を招いたのか――そのことを聖書から丁寧に見ていく必要がある。そうしなければ、「闇」の実体も「光」の実体も見えてこない。キリスト者の「苦しみ」が始まるまでの経緯をたどるためには、どうしても避けては通れない課題である。
そこで聖書を見てみると、「死」は神から出たものではなく、人の罪に伴って自動的に入り込んだものであったことを教えている。
1. 自動的に入り込んだ
聖書が教えているのは、「罪によって死が入り」であって、「罪の罰として死が入り」ではない。罪自体が、神との関係を壊す行為なので、罪がそのまま、神と人を断絶する「死」の壁になったということである。それで聖書は、「罪によって死が入り」と教えた先で、この出来事を次のように言い換えている。
罪から来る報酬は死です。(ローマ6:23)
ここで「報酬」と訳されている箇所の原語は「オプソーニオン」[ὀψώνιον]であり、それは当然予想される結果を意味する。例えば、時給1千円で8時間働けば、8千円が支払われる。猛毒のキノコを食べれば、「死」が訪れる。こうした結果は、当然予想できるので、それを「報酬」といい、ギリシャ語では「オプソーニオン」という。
それに対して、予想ができない第三者の判断によるものは「報い」という。例えば、困っていた人に手を差し伸べ、思いがけず深い感謝の贈り物を受け取ったとしよう。その場合の「贈り物」は予想できた結果ではないので、「報い」といい、「報酬」とは区別される。ギリシャ語も同様で、「報い」に対しては「アンタポドシス」[ἀνταπόδοσις]、あるいは「ミストス」[μισθός]といった言葉を使う。さらに言えば、その「報い」の中身を罪に対する「罰」として言い表すのであれば、「ティモーリア」[τιμωρία]という言葉もある(参考:織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』教文館、322頁)。
以上の知識がそろえば、ここでは「報い」ではなく、ただの「報酬」を意味する「オプソーニオン」が使われている以上、入り込んだ「死」は罪に対する神からの「罰」ではなく、それは、予想可能な結果に過ぎなかったことを示している。つまり、「死」は、人の罪に伴って、自動的に入り込んだのである。罪を犯すと自動的に生じる出来事――それが、神と人を分断する「死」であった。そこには、神の裁きはなかった。なぜなら、罪自体が、神との関係を壊す行為だからである。
そうしたことから、神はアダムに「それを取って食べるとき(罪を犯す時)、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17、括弧は意味を補足)と言われたのであった。神は、人が罪を犯すとき、すなわち罪と同時に「必ず死ぬ」と言われたのである。それ故、聖書は「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)と教えている。ならば、実際に「死」が入り込んだ出来事の記事を見てみよう。
アダムとエバは、蛇に欺かれて、禁断の実を食べるという罪を犯してしまった。すると直ちに、「有限性」しか見えない「肉の目」に変わり、彼らは自分たちの肉の姿しか見えなくなったという――「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世記3:7)――。そう、神が言われたように、食べるという罪を犯すと同時に、神と人を分断する「死」が自動的に入り込んだのである。
すると彼らは、自分たちの姿が裸であることを恐れ、隠れてしまった――「私は裸なので、恐れて、隠れました」(創世記3:10)――。その時、神はアダムに次のように言われたのであった。
すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」(創世記3:11)
ここで神はアダムに、「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と注意していた禁断の実を「食べたのか」と問われた。これは、人の中に入り込んだ「死」が神の裁きによるものではなかったことを、何よりも証ししている。まことに、罪によって「死」が自動的に入ったということである――「罪によって死が入り」(ローマ5:12)――。
ちなみに、神との関係が断たれる「死」が入り込んだのに、なぜアダムは神と会話できたのかという疑問が生じるが、その答えは簡単である。それは、神が人に与えた神の「いのち」である「魂」を介し、心の声として人に語られたからである。あるいは、神が人となって現れ、語られたのかもしれない――イエスがこの地上に現れたのと同じように。
このように、聖書は、人の罪に伴い自動的に「死」が入り込んだことを教えている。それは、神による裁きではなく、罪そのものがもたらした当然の結果――「報酬」であったことを教えている。そうなると、どうして人は罪を犯したのかということが問題になる。
2. どうして人は罪を犯したのか
聖書によると、悪魔に操られた「蛇」が、悪巧みによってエバを欺いたとある――「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(2コリント11:3)――。このことから、どうして人は罪を犯したのか、その答えは簡単である。悪魔によって欺かれたからである。それはちょうど、『白雪姫』の話に出てくる悪い女王が、親切そうなおばあさんに姿を変え、言葉巧みに毒リンゴを食べさせた場面と同じである。
しかし、たとえ欺かれたとはいえ、食べてはならないと言われていた実を食べたことで、人は神に逆らう罪を犯してしまった。それは神との関係を壊す行為だったので、それに伴い、自動的に「死」が入り込んでしまったのである。
このように、どうして人は罪を犯したのか――それは悪魔によって欺かれたからである。悪魔こそが「死」の力を持つ者であり――「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)――、「人殺し」であった。なぜなら、悪魔が人に罪を犯させ、人を「死」に追いやったからである。それで聖書は、「罪を犯している者は、悪魔から出た者です」(1ヨハネ3:8)と断言する。
そうなると、次の疑問は「悪魔の起源」である。ここでは「苦しみ」が始まるまでの経緯をたどっているが、今度は「悪魔の起源」の考察である。
3. 悪魔の起源
人の「死」に対しては、神は一切関与されていなかった。「死」は、人に罪を犯させた悪魔に原因があった。無論、神は悪魔の存在を知っておられた。人を欺き、罪へと誘う者の存在をご存じであった。悪魔に欺かれて罪を犯すと、何が起きるかについては分かっていた。それで、「それを取って食べるとき(罪を犯すとき:意味を補足)、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と、事前に注意されたのである。
その悪魔の気配については、聖書の最初の書である創世記の冒頭に、「闇」として象徴的に記されている――「闇が深淵の面にあり」(創世記1:2、新共同訳)――。そして、この「闇」の正体である悪魔については、イエスご自身が、「悪魔は初めから人殺しであり」(ヨハネ8:44)と語られたのである。「人殺し」とは、人を「死」に追いやる、ということである。それには、人に罪を犯させればよいので、悪魔は人に罪を犯させることができる者であったということである。
しかし、罪を犯させるには、神に逆らう「偽りの情報」を正しいと信じ込ませる必要があるので、さらに悪魔のことをイエスは、「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」(ヨハネ8:44)と明言されたのである。イエスは、悪魔は「偽りの父」であり、「偽りの情報」を正しいと信じ込ませるために、自分にふさわしい話し方をすると言われた。それはすなわち、人を欺くことにかけては比類なき存在であるということである。
このように、悪魔は、人に罪を犯させ、人を殺してしまう「人殺し」であった。人に罪を犯させれば神との関係が壊れ(死が入り込み)、人は滅びるしかない姿になるからである。では、なぜ悪魔は「人殺し」だったのか。その理由をイエスは、こう言われたのである。
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。(ヨハネ8:44)
イエスは、悪魔が初めから「人殺し」なのは、初めから「真理」に立っていなかったからだとした。「真理」とは、神のことなので、悪魔は初めから、神の交わりの中には含まれていなかったということである。つまり、悪魔は初めから神に属さない者であり、神から出た者ではなかったのである。
そうなると、悪魔は初めから、神と同じように存在していたことになる。これを「二元論」というが、聖書は「二元論」を否定する。聖書は、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と語り、初めにおられたのは「神」であって、そこには悪魔はいなかったとする。これを「一元論」といい、あくまでも聖書は「二元論」を否定する。
では、悪魔はどこから来たのか――となるが、聖書はその起源について沈黙するので、私たちには知るすべがない。
この沈黙は、単なる情報不足ということではない。むしろ、神の起源もそうだが、起源の理解は人の理性をはるかに超えているので、聖書は沈黙するということである。例えるなら、幼い子どもに宇宙の構造を説明しても、それを理解できないので、親は沈黙するのと同じである。同様に、起源については、いくら神が教えたところで、人の理性では全く理解できないので、聖書は沈黙するのである。
従って、神の沈黙は、「これ以上は立ち入ってはならない」と神が定めた境界線である。それはちょうど、神が「海」に対し、「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」(ヨブ38:11)と言われたのと同じである。その場合、私たちはその前に立ち止まるしかないので、「悪魔の起源」は分からないというのが結論である。これは、人の理性には限界があることを示している。
4. 理性には限界がある
理性の限界を深く洞察したのが、近代哲学の祖と呼ばれたカントである。彼が出した結論は、理性には理解できない領域があり、そこに理性が立ち入ることは、神の前にバベルの塔を築くようなものであり、傲慢(ごうまん)な知の試みとなる、というものであった。
確かに、理性には理解できない領域がある。それは、理性が使う物差しは、結果には原因があるという「因果律」しかないからである。ならば、なぜ「因果律」では理解できない領域が生まれるのか、宇宙の起源で説明しよう。
「因果律」で過去を探り、宇宙の始まりを知ろうとすれば、今日では「宇宙のビッグバン」(宇宙は何かが膨張してできたとする理論)にまでたどり着くことができる。すると、理性が使う「因果律」は問う。膨張する前はどうなっていたのか。仮に、その答えを見つけても、今度は、その状態はどこから来たのかと問う。こうして、理性は終わりなき旅へと誘われる。それはちょうど、鏡を向かい合わせにすると、鏡の中に鏡が映り、その鏡の中にもまた鏡が映り、どこかに「最初の鏡」があるはずなのに、理性ではその最初にたどり着けないのと同じである。つまり、「因果律」しか使えない理性には、理解できない領域がある。
このように、宇宙は存在しているのに、理性では宇宙の起源が分からないのである。その宇宙の起源は神なので、神のことは理性では分からないということである。実際聖書は、神は1人であると教え、同時に、父と子と聖霊の3人が、それぞれ異なる位格を持つ神であるとも教えているが、これは理性では理解できない構造である。さらに聖書は、神は霊であると教えているが、霊とは何なのかも理性では分からない。また、神は初めからおられたということだが、すると理性は、神は一体どこから来たのかとなり、頭の中で堂々巡りとなる。こうした場合、理性の限界を認めるしかない。
だが、理性の限界を認めても、何ら心配する必要はない。ここに、「信仰」の出番があるからである。理性が行き詰まるとき、その先は「信仰」が担当するのである。理性が納得できなくても、聖書が、宇宙の始まりは神であると教えているので、それを信じれば済む。ということは、「理性」が自分の限界を認めない限り、「信仰」の出番は、いつまでも来ないことになってしまう。このからくりに気付いたのが、カントであった。
そこでカントは、まさしく「信仰」のための場所を空けるために、理性の限界を認めさせたのである。それを書いたのが、哲学の地図を塗り替えたといわれるほどの革新をもたらした、『純粋理性批判』であった。カントは、その本の第2版の序文で、次のことを書いている。
だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかったのである。(『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫、175ページ)
「知を廃棄」するとは、理性には理解できない領域があることを認めさせ、その領域に、理性が立ち入ることをやめさせるということである。そうしないと、「信仰」の出番がなくなるからである。カントは、そのことをここで述べている。
ここでカントの話をしたのは、「悪魔の起源」については聖書が沈黙している以上、それは理性が立ち入ってはならない場所であるということを知ってもらいたかったからである。
さて、人には理性の限界があるにもかかわらず、人はそこに踏み込み、「悪魔の起源」を知ろうとしてしまった。その結果、今日では定番となった一つの説が生まれた。それは、神が造られた良き御使いが堕落し、悪魔になったという説である。
5. 良き御使いが悪魔になった
聖書は、「悪魔の起源」については沈黙している。それは、理性では理解できない領域の話だからである。しかし、人はその領域に入り込んでしまった。すると、その領域では、もはや理性は役に立たないので、聖書の言葉から「悪魔の起源」を想像するしかなかった。そして、神が造られた良き御使いが傲慢になり、堕落して悪魔になったとした。その根拠に、イザヤ14:9〜15やエゼキエル28:12〜19が用いられた。だが、それらは片やバビロンの王、片やツロの王に対する預言であり、「悪魔の起源」を語ったものではない。そうであっても、これらの御言葉と、「罪を犯した御使いたちを」(2ペテロ2:4)、また「自分のおるべき所を捨てた御使いたちを」(ユダ1:6)とをひも付け、御使いが堕落して悪魔になったとした。
ところが、ひも付けされたこれらの教えは、御使いが堕落して悪魔になったという話ではなく、悪魔がアダムを欺いて罪を犯させたように、御使いも悪魔によって欺かれたから罪を犯したという話である。それ故、「自分のおるべき所を捨てた御使いたち」(ユダ1:6)の後に、「悪魔と論じ」(ユダ1:9)、という記述が続く。これは、悪魔が、罪を犯した御使いたちとは別の存在であることを示唆している。
それでも、良き御使いが堕落して悪魔になったと言うのであれば、悪魔は初めから「人殺し」であったわけではないので、途中からそうなったことになる。すると、イエスが言われた「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません(神から出た者ではないという意味)」(ヨハネ8:44)と矛盾し、イエスがうそを言ったことになる。それだけではない。悪魔になった良き御使いを造られたのは神なので、神が「死」の起源となり、罪の創始者になってしまう。これはもう、神の聖なる属性に反することであり、聖書の証言とも一致しない。
つまり、聖書が沈黙する領域に、すなわち理性では理解できない領域に勝手に入り込むと、そこでは想像するしかないので、神を罪の創造者にしてしまうという危険が待ち構えている、ということである。
これこそが、カントの訴えた危険性である。聖書が沈黙する領域に理性で立ち入ろうとすれば、そこはもう想像するしかない世界なので、いつの間にか聖書の教えから逸れていってしまうということである。これは、神の前にバベルの塔を築くのと同じである。それでカントは、理性で理解できない領域には絶対立ち入ることなく、そこは神の言葉を素直に信じる「信仰」に任せるべきであることを訴えたのである。それが、危険から身を守る道であると。
このように、神が造られた良き御使いが堕落し、悪魔になったというのは、聖書の教えではない。他にも、「悪魔の起源」についてはさまざまなことが論じられてきたが、それはどれも独断論であって、聖書の教えに基づくものではなかった。ただの想像であった。
そこで、もう一度整理する。聖書が教えているのは、悪魔は神から出た者ではないということである。すると、初めに神と悪魔がいたのかとなり、それは「二元論」のように聞こえてしまうが、聖書はそれを明確に否定している。聖書は、初めにおられたのは「神」だけであるとする「一元論」を教えている。そうなると、もはや理性では理解し得ない領域なので、それ以上は立ち入るべきではない。ただ聖書は、そのように教えている以上、それを素直に受け入れ、信じることが人の取るべき態度である。これが、聖書の教える謙遜である。つまり、「悪魔の起源」は知ろうとしてはならないのである。
さて、ここまでの話で重要なことは、今日人を苦しめている「死」は、人の罪に伴い、自動的に入り込んだものだということである。それは、神による裁きではなく、罪そのものがもたらした当然の結果――「報酬」であった、ということである。そして、人に罪を犯させたのは悪魔であり、その「悪魔の起源」については、聖書が沈黙しているので分からない、ということである。そして聖書は、入り込んだ「死」が、今日の私たちの罪の原因になっていることを教えている。
6.「死」が罪の原因となった
聖書は、誰もが「罪人」であると語る――「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)――。では、なぜ私たちは罪を犯すようになったのか。どうして神に逆らい、見える安心をむさぼるようになったのか。それは、私たちの中に「死」が入り込んだことによる、と聖書は教えている。
それゆえ、ちょうど一人の人を通して罪がこの世に入り、罪を通して死が入り、まさしくそのように、全ての人たちに死が広がった。その結果、全ての人が罪を犯すようになった。(ローマ5:12、私訳)
この私訳は、新約聖書のギリシャ語辞書としては最も学術的に優れているとされるドイツ語の Walter Bauer の辞書を、Danker 監修の下で英訳された第三版の365ページに記載されている英訳を、私が日本語に訳したものである。
ここで聖書は、入り込んだ「死」によって私たちが罪を犯すようになったことを、端的に教えている。それは、入り込んだ「死」によって人は滅びる姿になり(有限性)、その恐怖から、神ではなく、見える安心をむさぼるようになった(罪を犯すようになった)ということである。そうである以上、「死」のとげこそが、今日の「罪」である――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――。
このように、私たちの罪は、「死」によって私たちを支配したのである――「罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)――。その「死」は、見てきたように悪魔の仕業によって入り込んだのであって、神からの「罰」ではなかった。神が「罰」として、人に「死」をもたらしたわけではなかった。それ故、人には「希望」がある。
7. 人には「希望」がある
「死」のとげが、今日の「罪」である。そうである以上、その「死」が、アダムの犯した罪を見て神が怒り、神からの「罰」としてもたらされたとなれば、神が私たちを「罪人」にしてしまったことになる。なぜなら、人の罪は、「死」によって人を支配したからである――「罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)――。「死」のとげが人の罪なので――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――、その「死」が神からとなれば、神が私たちを「罪人」にしてしまったことになってしまうのである。
それだけではない。「死」が神からとなれば、神は「死のとげ」である罪と戦うために、ご自分と戦うことになってしまう。これはもう、全くもってあり得ない話である。それで聖書は、「死」は人の罪に伴い、自動的に入り込んだこと、すなわち、神からではないこと、それをさまざまな視点から繰り返し教えている。
にもかかわらず、「死」は、アダムの罪に対する神からの罰だと人は思ってしまう。理由は、人には「罪には罰」という眼鏡があるからである。その眼鏡は、アダムの罪によって「死」が入り込んだという記事を見ると、神が怒り、罰として「死」を与えたと、その記事の意味を勝手に補完してしまうのである。この補完については、具体例で説明してみよう。
顔も名前も知らない「有名な外科医」が、あなたをホテルのロビーで待っているという。そこであなたは、その人は身なりもしっかりした「男性」だと思い、「男性」を探すことだろう。しかし、この「有名な外科医」は「女性」であった。そうなると、あなたはどんなに探そうとも、「有名な外科医」には会えない。
何が言いたいかというと、聖書は繰り返し、「死」は神からではないことを教えても、「罪には罰」という眼鏡が、それをふさいでしまうということである。そもそも、神にある人の罪に対する眼鏡は、「罪にはあわれみ」である。それは、キリストの十字架が何よりも雄弁に語っている。
少し話がそれたが、ここで大事なことは、人がどう補完しようとも、聖書は一貫して、人を苦しめている「死」は、神とは無関係の悪魔の仕業であって、神からではないことを教えているということである。なぜそれが大事なのかと言えば、そうであれば人には「希望」があるからである。
つまり、こういうことである。アダムとエバに罪を犯させ、この世界に「死」を持ち込んだのは悪魔であり、彼らは被害者であった。悪魔に操られた「蛇」が、悪巧みによってエバを欺いたので――「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように」(2コリント11:3)――、アダムとエバは、親切そうなおばあさんに欺かれて毒リンゴを食べてしまった「白雪姫」と同じように、被害者であった。
それで神は、被害に遭い、裸である自分たちの姿を恐れるようになったアダムとエバのために、わざわざ皮の衣を作り、彼らに着せてくださったのである。「神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった」(創世記3:21)。
このように、人は悪魔に欺かれた被害者である。それ故、神の憐(あわ)れみの対象となるので、「希望」がある。だからこそ、人となって来られた神は、「また裁きについてとは、この世の支配者(悪魔)が裁かれたことである」(ヨハネ16:11、聖書協会共同訳、括弧は意味を補足)と言い、裁く相手は悪魔であって、人ではないことを教えられたのである。人は裁く対象ではなく、あくまでも救いの対象であることを明言された。
わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。(ヨハネ12:47、新共同訳)
繰り返すが、悪魔の悪巧みによって人は欺かれ、罪を犯し、その罪によって自動的に「死」が入り込み、人も、人が暮らす世界も滅びる姿になり「虚無」に服したので、被造物には「希望」があるのである。
被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。(ローマ8:20、新改訳2017)
ここにある「服従させた方」とは、「神」のことではない。敬語に訳されているためにそう思ってしまうかもしれないが、ギリシャ語には敬語はない。これは「服従させた者」と理解すべきであり、それはアダムを指している。アダムの罪に伴い、自動的に「死」が入り込んだことを述べている。それで、このことを書いたパウロは他の手紙で、「アダムにあってすべての人が死んでいる」(1コリント15:22)と書いている。
以上が、「死」が入り込んだ出来事を掘り下げていく、悪魔の起源の話である。この話で重要な点は、今日人を苦しめている「死」は、神からではないということである。「死」の力を持つ者は悪魔であって――「悪魔という、死の力を持つ者」(ヘブル2:14)――、「死」は神の敵であるということである――「最後の敵である死」(1コリント15:26)――。それで、神は人を救う計画を立てられたのであった。そこで後半は、「救いの計画」である。(続く)
◇