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2025年8月27日23時19分更新
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「苦しみ」と「苦しみ」の解決

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(11)「苦しみ」が始まるまでの経緯(後半)救いの計画 三谷和司

2025年8月27日23時19分 コラムニスト : 三谷和司
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関連タグ:三谷和司

本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。

前半のまとめ

前半では、「苦しみ」が始まるまでの経緯ということで、私たちを苦しめている「死」が、どのようにして入り込んだのかを掘り下げた。その結果、「死」は、悪魔の仕業によることが分かった。悪魔が蛇を使って言葉巧みにアダムとエバを欺き、神に逆らう罪を犯させ、その罪に伴い、自動的に入り込んだのが「死」であった。従って、アダムとエバは、親切そうなおばあさんに欺かれて毒リンゴを食べてしまい、仮死状態になった「白雪姫」と同じであった。

そのことをご存じだった神は、人を救済するために立ち上がられた。このままでは人は滅んでしまうので、人を救うべく、「救いの計画」を立てられたのである。ところが、その救いからキリスト者の「苦しみ」も始まる。しかし、この「苦しみ」は「光」につながっているので、「苦しみ」を通ることは神の「救いの計画」であった。

そこで後半は、「救いの計画」であり、副題が「苦しみ」の始まりである。では、「救いの計画」を見ていこう。

「救いの計画」―「苦しみ」の始まり―

聖書が教えているのは、悪魔が人に罪を犯させ、その罪に伴い「死」が自動的に入り込んだということである。ならば、悪魔はどこから来たのかとなるが、聖書は「悪魔の起源」については沈黙する。仮に語られたとしても、人の理性では到底理解できないからである。人間が猿に数学を教えても、猿は理解できないのと同じである。

しかし、人の理性は、聖書が沈黙する領域に、すなわち神が語らない領域に入っていく。これは「悪魔の起源」に限らず、神が語らない領域には興味が湧き、入っていく。とはいえ、そこは元来、人の理性では到底理解できない領域なので、そこに入り込むと、人は神に向かってつぶやくことになる。それはちょうど、親に叱られた子が、親の気持ちを理解できる年齢でもないのに、それを勝手に詮索し、ひどい親だとつぶやくようなものである。

あのヨブも、苦しみの中、神が語らない領域に入り込み、つぶやいてしまった。すると神はヨブに、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは」(ヨブ記38:2、新共同訳)と注意した。さらには創造の秩序を語り、神は海に対し、「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」(ヨブ記38:11、新共同訳)と命じることで、理性の限界を越えないよう間接的に警告を発した。

このヨブの話は、私たちへの深い教訓である。それは、理性の納得を求めるのではなく、理性には限界があることを認め、聖書の教えを素直に信じることを示している。

その聖書は、「悪魔の起源」については沈黙するので、神がヨブに、「ここまでは来てもよいが越えてはならない」と言われた警告に従い、それ以上は詮索すべきではない。しかし、悪魔に関しては、次のことは明確に教えている。それは、悪魔は初めから人殺しであり、神の「真理」に立っていない、ということである――「悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです」(ヨハネ8:44)――。これは、悪魔は初めから神の側の者ではなく、神から出た者ではないことを意味する。これを素直に信じるなら、神が「死」の起源とされることも、罪の創造者とされることもない。この点については、前半で詳しく述べた通りである。

いずれにせよ、聖書が教えているのは、悪魔によって、神と人との間には越えることのできない「死」の壁が立ちはだかり、人の側から神に近づく道は閉ざされてしまったということである。そうなると、神の側から人に近づくしかないので、ここに神の「救いの計画」が立てられた。その骨子は、次の通りである。

人の側から神に近づくことができなくなったので、第一に、神は人に呼びかけ、神の側から絶えず救いの御手を差し伸べる――「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた」(ローマ10:21)――。第二に、その御手をつかむ者を神が引き寄せる――「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)――。それにより、「死の世界」から人を救い出すというのが、神が立てた「救いの計画」の骨子である。この計画に基づき、最初の人であるアダムとエバに向かって、神の呼びかけが開始された。

1. 神の呼びかけ

神は、悪魔の仕業で死ぬしかない姿になった人を憐(あわ)れまれた。そこで、何としても人を救おうと、神があらかじめ人の中に据えられたご自分の「いのち」、すなわち人を支えている「魂」を介して、神は人への呼びかけを開始されたのである。その最初が、アダムに対してであった。アダムはエバと一緒にいたので、それは同時に、エバにも向けられた呼びかけであった。

神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)

この神の呼びかけは、今日の私たちに対してもなされている。私たちは、それを心の奥底の意識の深層部分で、すなわち「潜在意識」と呼ばれている領域で感じ取っている。「あなたは、どこにいるのか」という言葉を通して、「この御手につかまりなさい。わたしがあなたを助けてあげるから!」という神の熱い思いを感じ取っている。人はこれを、「心の声」という。

そして、神の「救いの計画」によれば、この神の呼びかけに応答し、神の御手をつかむ者は救われるのである。滅びるしかない「死人」が、「生きる者」になれる。このことは、神が人となって来られたキリストによって明らかにされた。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。(ヨハネ5:25)

ここでキリストは、「死人が神の子の声を聞く時が来ます」と言われたが、そもそも、誰が自分のことを「死人」だと意識できるというのか。それを意識できるのは、神との霊的なつながりを失って「不安」を覚えている、心の奥底の「潜在意識」だけである。その「潜在意識」では、神の子であるキリストの呼びかけを聞くことができるので、「死人が神の子の声を聞く時が来ます」と、キリストは言われたのである。

そして、神の呼びかけを聞くのは「今」であると言われた。なぜなら、「永遠性」の神と「有限性」となった人との接点は、いつの時代も「今」という「瞬間」にしかないからである。「永遠性」とは変わらないことであり、「有限性」とは変化し続けることなので、変化し続ける世界から変化しない方を見ると、その方はいつも同じになるので、いつの時代も「今」が神との接点になる。それで聖書に、「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」(ヘブル13:8)とある。

つまり、アダムに呼びかけられた神は、同じように「今」、私たちにも呼びかけてくださっているということである。そういうわけで、キリストは、「死人」が神の子の声を聞くのは、「今」だと言われたのである。そして、その呼びかけを「聞く者は」、すなわち呼びかけに応答する者は、「生きる者」になるとキリストは言われたのであった。

このように、アダムの罪によって全ての人が死んでしまっていたので――「アダムにあってすべての人が死んでいるように」(1コリント15:22)――、「死人」を救うための神の呼びかけが、アダムの時から開始された。神の呼びかけが開始されたことで、それに応答する者は(聞く者は)、「死人」から「生きる者」になった。これこそが、神が人に与えてくださった、変わることのない「神の救い」である。

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(11)「苦しみ」が始まるまでの経緯(後半)救いの計画 三谷和司

2. 神の救い

神の救いは、「死人」を「生きる者」にすることである。それは、「永遠のいのち」を持つようにするということであり、「死」から「いのち」に移すということである。それでキリストは、神の呼びかけに応答し、救いを受け取った者のことを「永遠のいのちを持ち(原語は現在形)、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです(原語は現在完了形)」(ヨハネ5:24)と言われたのである。

ここで気を付けなければならないことは、古典ギリシャ語の「移っている」という現在完了形は、移りつつあるということではなく、「いのち」(神の国)に移された状態が、すなわち完了した状態が、今も続いていることを意味するということである。しかし、その事実を、肉の体が覆っていて見えないのである。そうであっても、肉の体は滅びるので、その時には、「死」から「いのち」に移っていた私を、神が完全に知っていたように、私もそれを完全に知ることになる。

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12)

このように、「永遠のいのち」が与えられた者は決して滅びることがなく、その者と神とを引き離すことは、もう誰にもできない。これこそが、神の救いである。それでキリストは、次のように言われたのであった。

わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。(ヨハネ10:28)

しかし、神の呼びかけに応答し、「永遠のいのち」が与えられて救われても、それは神を個人的に知ったということではない。ただ、神との個人的な交わりが可能になったということである。今風にいえば、メールアドレスを交換したに過ぎない。よって、神との関係は、あくまでもこれから築かれていく。

そこで神は、人が神との関係を築けるように、人を引き寄せる。それはちょうど、神から人に招待状のメールを送り、その返事を待つようなものである。神がメールを送り、神が催す宴会の席に行きたいという願いを起こさせるようなものである。

あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(ピリピ2:13、口語訳)

神からの招待状で、神が催す宴会に出席したいという願いが起き、神との関係が築かれていく。その中で、人は自分に起きた救いを自覚できるようになっていく。なぜなら、救われたという出来事は、意識の手前の「潜在意識」で起こったことなので、救われても意識できないからである。それが、神との関係が築かれていくことで、意識できるようになる。

具体的に言えば、神は人の中に願いを起こさせ、キリストへの信仰が持てるように導かれる。そこからキリストとの関係を築かせ、何が起きたのかを自覚させる。その旅が、「永遠のいのち」を与えられた瞬間に始まり、これが神の「救いの計画」が目指すところとなる。

「苦しみ」と「苦しみ」の解決(11)「苦しみ」が始まるまでの経緯(後半)救いの計画 三谷和司

3. キリストとの関係を築いていく

神は、「永遠のいのち」を与えた者の手をしっかりと握り、ご自分の所に引き寄せ始める。それは、人の心に働きかけ、神を目指す願いを起こさせるということである。ここに、神を目指す旅が始まる。その旅の中で、キリストについての御言葉を、人が意識できる「顕在意識」で聞く機会が訪れれば、その者はすでに「永遠のいのち」を持っているので、その「いのち」の源であるキリストへの信仰が意識の中で芽生える――「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」(ローマ10:17)――。こうして、与えられた「永遠のいのち」によって、ようやく父なる神と、神から遣わされたイエス・キリストを、人が意識できる「顕在意識」が知るようになる。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3)

イエス・キリストを知るようになるとは、自分の土台であるイエス・キリストに対し、信仰が芽生えるということである――「土台とはイエス・キリストです」(1コリント3:11)――。ここから、「顕在意識」での神との個人的な関係が始まる。ところが「顕在意識」には「肉の思い」が居座っているので、その思いとの葛藤が始まる。

その中、イエスを主と告白し、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じることができるようになれば、それを告白することで救いを自覚するようになる――「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10:9)――。「あなたは救われる」とは、救いを自覚できるようになるということである。なお、御言葉を聞いて葛藤はするものの、告白には至らない人もいる。それでも「永遠のいのち」を持っているので救われている。

このように、神との関係は「潜在意識」を土台に、「顕在意識」へと発展していく。まず「潜在意識」に届く神の呼びかけから始まり、それが「顕在意識」に立ち上がることで、イエス・キリストへの信仰として発展していく。これが、神との関係を築いていく歩みとなる。それは、キリストの言葉に従おうとする方向に向かう。すると、キリスト者の「苦しみ」が始まる。

4. キリスト者の「苦しみ」が始まる

イエス・キリストへの信仰が芽生え、救いを自覚できるようになると、その人はキリストの言葉に従おうとする。そのキリストは、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24、新共同訳)と言い、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよと命じる。

だが、いくら命じられても、それができないので葛藤が始まる。これが、救われたことで始まる「苦しみ」である。それは、人を救う「神の愛」に根ざす「苦しみ」であり、それをキリスト者は体感するようになる。

正確に言えば、「苦しみ」の根は、入り込んだ「死」であって、その「死」の恐怖が、私たちの心に深く根を張り、その根が見える安心をむさぼらせ、「この世」の安心に仕えさせている。しかし、それが「罪」であるとは、誰も認識しない。むしろ、それは喜びであり、良いことであると思っている。

ところが、それは「死」から実った「苦しみ」であり、神と人を分断する「罪」である。心を神に向けることを邪魔する「罪」である。そこで神は、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよと命じることで、これまでは気付かなかった「罪」を、「苦しみ」として体感できるようにするのである。

このように、救いを自覚し、キリストの言葉に従おうとした途端、キリスト者の「苦しみ」が始まる。それは、人にはできないことをキリストが要求してくるからである。この要求は「律法」と呼ばれるが、「律法」が「苦しみ」をもたらす。

しかし、その「苦しみ」は「律法」に従えないことで生じるので、「罪」である――「罪とは律法に逆らうことなのです」(1ヨハネ3:4)――。つまり、「律法」がなければ、隠れていた「罪」を知り得ないということである――「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう」(ローマ7:7)――。そして、「罪」を知ることこそが、神との関係が深まるための通過点なのである。なぜなら、「罪」を明らかにする神の要求(律法)は、神との関係を築かせる「神の愛」に根ざしているからである。

5. 神の要求は「神の愛」に根差している

キリスト者は、神の呼びかけに応答した者なので、「死」から「いのち」に移されている――「死からいのちに移っている」(ヨハネ5:24)――。もっとも、その事実は肉の体によって覆い隠されている。そうであっても、もう「死」から「いのち」に移されているので、肉の体が死ぬと同時に復活し、「神の国」を相続することになる。それは確定した未来であり、その確かさから、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよという要求が生まれる。この要求は、まさしく「神の愛」による、救いの確かさに基づいているのである。

ここで大事なことは、キリスト者はもうすでに「死」から「いのち」に移されているということである。別の言い方をするなら、イエス・キリストを信じているキリスト者は、「この世」に対し、すでに死んでいるということである。

あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:3)

つまり、キリスト者は、「この世」に対して死んでいるので、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよ、と神は要求するのである。具体的には、人から良く思われる「評判」や人がうらやむ「富」を手放し、神のことだけを思うようにと要求する。地上のものを思わず、天にあるものを思いなさいと要求する。

あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。(コロサイ3:2)

この要求を一言で言えば、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)である。そうなると、地上のものを思い、世の友になりたいと欲することは、自分を神の敵にすることになるので――「世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としている」(ヤコブ4:4)――、ここに「苦しみ」が生じる。

このように、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよと神が要求する根拠は、キリスト者はもう、「この世」に対して死んでいるからである。キリスト者の未来は、「神の国」に移り住むことに確定しているからである。いや、もうすでに「死」から「いのち」に移されたのだから、「神の国」のただ中にいる――「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)――。そうであるから、「私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです」(ピリピ3:16)となるので、「この世」の安心に仕えるのをやめ、神にだけ仕えよ、となるのである。

これこそが、神の要求の根拠であり、それは人を救った「神の愛」に根差している。しかし、いくら「この世」の安心に仕えるのをやめろと要求されても、「この世」の安心を手放すことなどできないというのが人の本音である。こうして、キリスト者はどうにもならない「苦しみ」を覚える。

6. どうにもならない「苦しみ」を覚える

「苦しみ」の起源は、悪魔の仕業による「死」である。その「死」は、「死の恐怖」を武器に一時の安心を目指させる。「この世の心づかい」や「富の惑わし」に生きるように誘惑し、人から良く思われたいという「評判」や、人がうらやむ「富」の獲得を目指させ、一時の安心を人に得させる。

ところが、「評判」や「富」を得るには、嫉妬や争いを繰り返すことになる。それは人を苦しめる。それでも「死の恐怖」から、人は「評判」や「富」の安心を目指してしまう。こうして、悪魔の仕業で入り込んだ「死」は、「苦しみ」の根を人の心に張り巡らせていく。

いずれにせよ、「この世の心づかい」や「富の惑わし」に生きることは、神の御言葉をふさぎ、神との関係を築くことを邪魔している。そのため、この生き方こそが神の目には罪のありさまであった。それでキリストは、次のように言われたのである。

また、いばらの中に蒔(ま)かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。(マタイ13:22)

「富の惑わし」が罪であるとは気付けても、一体誰が、「この世の心づかい」が罪であると気付けるのか。だが、それは罪である。かといって、「死の恐怖」がある以上、安心を求め、「富の惑わし」に生き、「この世の心づかい」に生きてしまう自分を、どうすることもできない。ここに、避けられない「苦しみ」がある。これこそ、キリストを信じる者が神から賜った「苦しみ」である。

あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)

このように、キリストの言葉に従おうとすると、どうにもならない「苦しみ」を覚える。それは、「評判」や「富」といった「この世」の安心を手放せない「苦しみ」である。ならば、神の要求に従い、「この世」の安心を手放すとどうなるだろう。それはそれで、「苦しみ」に襲われるのである。それは、「この世」に憎まれる「苦しみ」である。

7. 憎まれる「苦しみ」

「この世」の安心を手放すということは、人から良く思われようとするのをやめ、神の言葉に従う生き方をするということである。「富」の獲得を目指すのをやめ、あるもので感謝して生きる生き方である。自分がいかに正しい人間かを証しするのをやめ、キリストの「真理」を証しする生き方である。

しかし、こうした生き方をすると、途端に周りからは嫌われ、悪く言われるようになる。それは、キリストが私たちに示してくださった。キリストは「真理」を証ししたために迫害され、ついには殺されてしまった。要するに、「この世」に憎まれたのである。ここに「苦しみ」がある。

そして重要なことは、キリスト者は神の救いの御手につかまり、「死」から「いのち」に移された時点から、すなわち「この世」に死んでしまった時点から、「この世」の者ではなくなったので、実はもう、「この世」からは憎まれているということである。

わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。(ヨハネ17:14)

従って、キリスト者は「この世」の者ではないので、もうすでに、憎まれるという「苦しみ」の中にいる。その事実を、キリスト者は「この世」の安心に身を寄せることで見ないようにしているのである。

このように、キリスト者は「永遠のいのち」を持ったことで、「この世」の者ではなくなり、「この世」からは憎まれる者になっていた。すでに、「苦しみ」の中にいる。それ故、良く思われようとする努力は無駄なのである。それは「苦しみ」の中にいる自分を隠せても、良く思われようとすればするだけ、嫉妬や争いといった「苦しみ」を身にまとうことになるからである。それでイエスはペテロに、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)と言い、神を第一にすることを要求されたのである。

当初、ペテロは、自分は神を第一にしていると思っていたので、イエスが言われたことが分からなかった。ところが、イエスを知らないと裏切った自分と出会い、神ではなく、人のことを思っていたことにようやく気付くことができ、自分の「闇」を知ったのである。

つまり、こういうことである。「この世」の安心を手放せという神の要求に応えなければ、罪責感の「苦しみ」を覚えるが、要求に応えて手放しても、キリストのように「この世」から憎まれている自分を知ることになり、やはり「苦しみ」を覚えてしまうということである。キリスト者はどうあがいても、「苦しみ」からは逃れられないのである。そのため、多くの「苦しみ」を経て、「神の国」に至ることになる。

弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。(使徒14:22)

そして、神の要求で生じる「苦しみ」が、「闇」の中にいた自分に気付かせてくれる。そういう意味では、神の要求は「苦しみ」を覚えさせるが、その「苦しみ」は「闇」を照らす「光」に他ならない。そこで、「苦しみ」と「闇」の違いを見ておきたい。

8.「苦しみ」と「闇」の違い

「苦しみ」は、神の律法(要求)に応えられない「罪」の体感である。そして「闇」は、「光」の神と断絶している状態であり、それを「死」という。この「死」を持ち込んだのが、「悪魔」であり、「悪魔」が「闇」の支配者である。悪魔は、アダムに罪を犯させることで、「死」を持ち込んだのである。それ故、アダム以降の人間は、生まれながらに「闇」の中に閉じ込められてしまった。しかし、その事実が、「この世の安心」によって覆い隠されている。

そこで、神は「この世の安心」を剥ぎ取り、自分ではどうすることもできない「闇」の中にいることに気付かせようとする。その時に使う武器が、「苦しみ」である。その「苦しみ」は、神の要求に応えられないことで生じる「苦しみ」であり、この「苦しみ」が「闇」の中にいる自分に気付かせてくれる。それは、絶望に追い込まれるということである。絶望は、どうにもできない「闇」の中にいる自分に気付いたことの印であり、それが神を心から信頼する信仰を目覚めさせる。こうして、神との関係が築かれていく。具体例で説明しよう。

神は全財産を貧しい人に施せと要求する――「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」(ルカ18:22)――。この要求に誰が応えられるのだろう。多くの財産を持っていればいるだけ無理である。どうしても、「富の惑わし」に生きてしまう。

ここに、神に逆らう「苦しみ」が生じる。この「苦しみ」と向き合えば、どうにもならないほどの、みじめな自分が見えてくる。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24、新改訳2017)。これが、「闇」の中にいた自分に気付くということである。

そして、「闇」の中の自分と出会うと、それは「絶望」になる。この「絶望」が、心から神により頼む信仰を呼び起こすので、「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ローマ7:25)となる。

このように、「神の愛」に根差した神の要求によって生じる「苦しみ」が、「闇」を照らす神の「光」であり、その「闇」は、神と人を分断している「死」である。しかし、キリスト者が「この世」の者ではなくなったので、その「死」は、「この世」から憎まれている状態である。この「闇」に気付くことで、心から神により頼む信仰が開始する。こうして、「苦しみ」は「闇」を照らす「光」となり、真実な信仰へと導いてくれる。

9.「苦しみ」は「闇」を照らす「光」

キリスト者になったことで、「苦しみ」は避けられなくなった。神の言葉に従っても、従わなくても「苦しみ」を覚えるからである。神の言葉に従えば、キリストのように、「この世」から憎まれる「苦しみ」を覚え、神の言葉に従わなければ、罪責感の「苦しみ」を覚える。全ては、「永遠のいのち」を持ったことに起因する。「永遠のいのち」という「光」を持ったことで、信仰の歩みの中で「苦しみ」が始まったのである。その経緯は、次の通りである。

キリスト者は「永遠のいのち」を持ってしまったので、「永遠のいのち」の「光」が「闇」を照らし出す。その「光」が、元来の「苦しみ」を明らかにする。それは、神と分断した状態にある「闇」であり、神との関係が回復した者にすれば、その「闇」は、「この世」からは憎まれる「苦しみ」である。それを見えなくさせているのが「この世」の称賛や「富」といった「この世」の保証なので、「光」はそれを奪い取り、「闇」を照らし出そうとする。

すると、キリスト者はそれが奪い取られることに抵抗し、「苦しみ」を体感する。これが、「永遠のいのち」という「光」を持ったことで、「苦しみ」が始まった経緯である。

このように、キリスト者にとっての「苦しみ」は、人が得た「この世」の保証を神が奪い取ることにある。その保証は、心を神に向けさせない罪なので、「神の愛」が罪を洗い流そうとすることで「苦しみ」が生じる。そして、その「苦しみ」と真摯(しんし)に向き合えば、「闇」の中にいた自分に気付かせてくれ、「絶望」へと追い込まれる。するとその時、手にしていたキリストへの信仰から、心から神により頼む「信仰の実」が産声を上げるのである。こうして、まことの「平安」へと導かれていく。

これが、神の立てられた「救いの計画」に他ならない。それは「苦しみ」を与える計画ではなく、「苦しみ」の先に「平安」を与える計画である。キリスト者に、将来と希望を与える計画である。

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──【主】の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)

すなわち、キリスト者を「死」から「いのち」へと、永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、キリスト者をしばらくの「苦しみ」のあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださるということである。

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(1ペテロ5:10)

以上が、キリスト者における「苦しみ」が始まるまでの経緯である。(続く)

※ 今回のコラムは、キリスト者は神の国に移されたのだから、見える安心を手放すように神が迫ることを述べた。それは、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)ということである。そこで、このことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノア】神の国とその義を)。

【付録】

今回のコラムは、前半で「悪魔の起源」に触れ、理性には限界があることを述べた。その際、近代哲学の扉を開いたカント(1724〜1804)の思想に言及した。そこで、もう少し彼の考えに立ち止まりたい。というのも、カントは、リベラルな信仰を生み出した起点になった人物であると、誤解されることも少なくないからである。

ここでいうリベラルな信仰とは、理性によって信仰の内容を吟味し、納得できる範囲で受け入れるのが正しい「信仰」とする立場である。これは、神の啓示に応答する信仰ではなく、理性の理解に依拠する信仰であり、この立場の起点が、カントであると見なされることが多い。なぜなら、カントは著書の中で、例えば「理性信仰」という言葉を用いたからである。

しかし、それは「信仰」を理性に置換した表現ではない。そうではなく、理性の限界を説き、「信仰」は理性の延長にはなく、心の声(道徳命令)の延長にあることを述べたものである。そのため、カントは「理性信仰」を「道徳信仰」とも呼んだ。つまり、カントはリベラルな信仰とは対峙(たいじ)し、神の啓示を素直に信じる信仰を訴えた人物である。

いずれにせよ、カントに対するリベラルな信仰の誤解は、彼の思想を十分に理解していないことにある。そこで、この付録では、カントの思想の重要な点に的を絞り、それをできるだけ簡潔に、分かりやすく述べてみたい。それは一言で言えば、理性至上主義の行き過ぎと戦うものであった。

理性至上主義と戦う

カントの時代、啓蒙主義の潮流が広がり、あらゆる事柄を理性によって把握しようとする理性至上主義が活発になっていた。その波はキリスト教にも及び、神の啓示に応答する「信仰」を、理性による理解に置き換えようとする人々が現れた。例えば、神の存在は理性によって証明できるとし、それを神を信じる根拠にするのである。これは逆に言えば、証明できなければ信じないということであり、これをリベラルな信仰という。それは、神からの語りかけに応答する信仰ではなく、理性による納得を土台とする信仰である。

これは全て、啓蒙主義の理性至上主義の行き過ぎの結果であった。そこでカントは、理性の重要性は認めても、理性の行き過ぎはよくないと批判した。理性の限界を明確に定めることで、行き過ぎを抑制させようとした。そのことで、啓示に応答する「信仰」を守ろうとしたのである。そのために書かれたのが、哲学の世界を一変させたといわれる、『純粋理性批判』であった。

この書においてカントは、神の存在は証明できないことを、理性の構造そのものを通して示した。そうなると、「信仰」を理性に置換する試みは終わりとなるからである。ここで大事なのは、理性の行き過ぎた越権を奪い取ったことである。あくまでも理性は、可能な経験の対象だけに適用されるものであって、それを越えてはならないとしたのであった。これこそが、カントが『純粋理性批判』で言いたかったことなので、その本の第2版の序文には、こう書かれている。

だからわたしが神、自由、[霊魂の]不死を、理性を必然的かつ実践的に使用するために想定することができるためには、[経験を超越するような]行き過ぎた洞察をすることが許されるという越権を、思考する理性から奪う必要があるのである。というのも、思考する理性がこうした洞察をするために利用せざるをえない原則は、実際には可能な経験の対象だけに適用されるはずのものである。それが経験の対象となりえないものに向けられるときには、こうした[経験を超越した超自然的な]ものを、たんなる現象に変えてしまうのであって、それによって純粋理性を実践的に拡張するあらゆる試みは不可能であると宣言することになるのである。

だからわたしは、信仰のための場所を空けておくために、知を廃棄しなければならなかったのである。」(『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫、175ページ)

こうして、理性と信仰のすみ分けがなされ、そのことが、哲学の世界に新たな秩序をもたらした。なぜなら、それまでは、信仰でしか知り得ない領域にまで理性が入り込み、何の根拠もない独断論が横行していたからである。根拠なき主張であっても、言葉巧みに語る者が勝者となる――そんな力の論理が哲学の世界を支配していたからである。そこではもはや、理性は経験を試金石とはしなくなっていて、自らの誤りを発見できなくなっていた。哲学の世界は、果てしない言葉の戦いが繰り広げられる闘技場となり、「無政府状態」と化していた。こうした混乱を前に、カントは理性と信仰のすみ分けを試みた。そしてそれを、『純粋理性批判』によって成し遂げた結果、哲学の世界は根底から刷新されたのである。この「無政府状態」の様子は、カント自身が第1版の序文の冒頭で描いている。

このように、カントは、理性至上主義の行き過ぎに対して、その限界を明確にすることで応答した。彼の目的は、理性によって全てを把握しようとする行き過ぎから、啓示に応答する信仰を守ることにあった。その結果、カントの理性批判は、リベラルな信仰の広がりに対する一つの哲学的な防波堤となった。

だが同時期に、カントの理性批判に異を唱え、理性を信仰の中心に置いて神学を再構築しようとした者も現れた。それが、シュライエルマッハー(1768〜1834)である。彼は、リベラル信仰を支える自由主義神学の先駆者となった。

一方で、カントの理性批判を深く受け止め、信仰を主体的な「跳躍」として捉えたのがキェルケゴール(1813〜55)であった。彼の思想は、カール・バルトをはじめとする20世紀の神学者たちに深い影響を与え、彼らは自由主義神学に批判的な立場を取った。

では、理性と信仰は対立したままなのだろうか。理性と信仰は、全く関係しないのだろうか。そのようなことはないと、カントは理性と信仰の関係にも言及した。

理性と信仰の関係

カントは、理性が信仰を否定するのではなく、むしろその信仰の土台を整える役割を担っているとした。理性は、信仰の門を開く鍵であるとした。平たく言えば、理性は問いを照らす灯であり、その問いに応えるのが信仰ということである。さらに言えば、理性は矛盾を明らかにするツールであり、その矛盾に対する答えを担うのが信仰ということである。

そして、理性は問いを照らすということ、理性は矛盾を明らかにするということ、これこそが理性の限界を認めるということであった。理性の限界を認めることが、問いにぶつかったということであり、矛盾に遭遇したということである。要するに、理性の行き止まりである。この行き止まりに来れば、神の言葉に素直に耳を傾ける信仰が現れるというのがカントの言いたいことである。しかし、人は理性の行き止まりに来ても、自らの限界をわきまえずに、その先を強引に理性で進もうとする、とカントは批判したのである。

そしてカントは、行き止まりの先を教えているのが聖書であるとした(『たんなる理性の限界内の宗教』)。つまり、聖書の教えは、理性によって完全に理解されるものではなく、むしろ理性を超えたところで、心に語りかけてくるということである。神が語られる言葉は、論理の整合性を超えて、心の深みに触れるということである。

その聖書は、「悪魔の起源」については沈黙する。それは、理性の行き止まりであるということである。その先には進むな、ということである。ただ、聖書が教える悪魔の本質に耳を傾け、信じなさいということである。そこでカントは、「悪魔の起源」について、すなわち「悪の起源」について、次のように語っている。

「悪の起源」について

理性が沈黙するところに、すなわち理性の行き止まりに、神の言葉が響くというのがカントの一貫した主張である。そのカントは、コラムの前半で触れた「悪魔の起源」については、すなわち「悪の起源」については、次のように述べている。

だから聖書も(『新約』の部分で)悪の創始者のことを(これは私たち自身のうちにある)、最初からの偽りをいう者と呼び、人間のうちにある悪の主要根拠と思われるものに関しては、そのようなものとして人間を特徴づけているのである。(『たんなる理性の限界内の宗教』A42「カント全集10」岩波書店、57ページ)

ここでカントはイエスの言葉を引用し、「悪の創始者」である悪魔は、「最初からの偽りをいう者」に着目した。なぜなら、「最初から」となれば、もはや理性では分からないからである。そこでカントは、「悪の起源」を「時間起源」で求めてはならないとした。

私たちに帰せられるべき道徳的性質(悪を選択する性質)については、時間起源を求めてはならないのであって、この性質の偶然的な現存在を説明しようとすれば、それがどんなに避けがたくとも(中略)それを求めてはならないのである。(『たんなる理性の限界内の宗教』A43「カント全集10」岩波書店、57ページ ※( )は筆者が意味を補足)

このように、カントが出した「悪魔の起源」における最終結論は、「時間起源を求めてはならない」であった。「悪魔の起源」は、理性で始まりを探求するなということなので、それは不可能である故に、カントは「それを求めてはならない」と述べた。要するに、「悪魔の起源」については、理性では「分からない」ということである。私も同感である。ところが理性は、「悪魔の起源」を知ろうとし、良い御使いが堕落したのが悪魔だとした。しかし、そうすると、良い御使いを造られた神が、悪の創造者になってしまうことに気付かなかった。そのことを、今回のコラムで述べた。

さて、あまり知られてはいないが、当時、理性の限界をわきまえずに語られる思想に、現代の「進化論」の土台となった「連続性の原理」があった。それは、理性の限界をわきまえず、言葉巧みに人を言いくるめる思想だったので、カントは激しく批判した。

「進化論」の土台となった思想を批判

カントは、ダーウィン(1809〜82)によって体系化された「進化論」が広く知られる以前から、その学説を支えることになった、「連続性の原理」の思想が世に出るや否や、これを激しく批判した。例えば、次のように述べている。

種の段階的な移行が連続的につづけられるとすれば、どの二つの種のあいだにも、真に無限の中間項が存在していなければならないことになるが、これは不可能だからである。(『純粋理性批判』B689『純粋理性批判6』光文社古典新訳文庫、181ページ)

これは何を言っているかというと、「A」から「B」へ、例えば「猿」から「人間」へと、種が連続して変化し続けるというのであれば、「猿」と「人間」の間には、無限の中間項が存在しなければならないことになる。しかしそれは、原理的に成立し得ない。なぜそうなのか――それは、理性を支える「因果律」、すなわち「結果には原因がある」という連続性に沿って考えれば分かる。

「因果律」に沿って考えると、「A」から「B」に移行するには、その中間点(1)を通過する必要がある。すると、その(1)に至るには、そのまた中間点(2)を通過しなければならない。その(2)に至るには、そのまた中間点(3)を通過しなければならない。この連鎖が無限に続くので、「B」に至ることはできないというのが「因果律」の答えになる。

従って、この「連続性の原理」の思想は、理性を支える「因果律」を無視した空想に過ぎないということである。それは、理性の名を借り、理論の外形をまとってはいても、実質は空想に過ぎないというのが、カントの言わんとすることである。

それ故、種が他の種に移行するという「連続性の原理」を、カントは理性の大胆な冒険とやゆした――「この種の仮説は、理性の大胆な冒険と呼ぶことができる」(『判断力批判』A419『カント全集9』岩波書店、94ページ)――。さらには、「魔術にかたむく狂信的な性癖を根本から助長する説明方式」(『人間の概念の規定』A97『カント全集14』岩波書店、79ページ)とも述べ、根拠のない推測や迷信に対して警鐘を鳴らした。

こうしてカントは、人間の存在を「連続性の原理」で説明することを退け、その基盤を理性を超えた神に位置づけた。だがその努力も実を結ぶことなく、「連続性の原理」は世に広まり、やがてダーウィンが登場し、20世紀の神学は混乱の時代を迎えることとなった。

しかし、カントの理性への厳密な態度に深い影響を受けた人たちも大勢いた。その中の一人が、実存の深みを探ったキェルケゴールであり、彼の思想は、カール・バルトをはじめとする20世紀の神学者たちに深い影響を与え、混乱した神学に新たな光をもたらすことになった。

以上で、カントの思想の紹介を終える。ここで知ってもらいたかったのは、カントはリベラルな信仰を生み出したのではなく、リベラルな信仰に対抗する、福音主義の信仰を生み出す起点となった人物だということである。そのことは、「進化論」の土台となった思想をカントが激しく批判した事実からも、十分にうかがえる。

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◇

三谷和司

三谷和司

(みたに・かずし)

神木(しぼく)イエス・キリスト教会主任牧師。ノア・ミュージック・ミニストリー代表。1956年生まれ。1980年、関西学院大学神学部卒業。1983年、米国の神学校「Christ For The Nations Institute」卒業。1983年、川崎の実家にて開拓伝道開始。1984年、川崎市に「宮前チャペル」献堂。1985年、ノア・ミュージック・ミニストリー開始。1993年、静岡県に「掛川チャペル」献堂。2004年、横浜市に「青葉チャペル」献堂。著書に『賛美の回復』(1994年、キリスト新聞社)、その他、キリスト新聞、雑誌『恵みの雨』などで連載記事。

新しい時代にあった日本人のための賛美を手がけ、オリジナルの賛美CDを数多く発表している。発表された賛美はすべて著作権法に基づき、SGM(Sharing Gospel Music)に指定されているので、キリスト教教化の目的のためなら誰もが自由に使用できる。

■ 神木イエス・キリスト教会ホームページ
■ ノア・ミュージック・ミニストリー YouTube チャンネル

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