ヨハネ書Ⅰ《黙想・観想ノート》(2)光の中を歩んでいるなら・ヨハネ第一書1:5~10 村瀬俊夫

2015年7月18日17時08分 コラムニスト : 村瀬俊夫 印刷
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5節のギリシア語原文は、「これが、私たちが神から聞いて、あなたがたに伝える知らせです」で始まります。「私たちが・・・伝える知らせ」とは、《福音》のことです。その福音は、「私たちがキリストから聴いて」いるものに他なりません。「聴いている」とは、聞き流してしまうのではなく、聞いたことをしっかり心に刻み、それに従って生きる、ということを意味しているのです。

キリストは、[活ける神として、聖霊の導きと助けにより]聖書を通して私たちに語ってくださいます。私たちキリスト者にとって、そのキリストは私たち一人一人と共におられるお方でもあります。私のうちに私と共におられる内住のキリストから[聖霊の導きと助けによって]私が聴いているものが、まさに《福音》なのです。その福音とは何か。それが新改訳聖書では、5節の冒頭に書いてあります。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」と。

「神は光である」と言うのですが、私たちと共におられるキリストも、御自ら「わたしは、世の光です」と宣言しておられます(ヨハネ8:12)。すると私たちは、そのキリストの光に照らされているのです。「神は光である」という福音は、神が私たちに「まことの光」であるキリストを内住させていてくださる、という恵みの現実に他なりません。光である神のうちには「暗いところが少しもない」のです。もし遮(さえぎ)るものがなければ、光は暗闇をくまなく照らし、すべての暗闇を消し去ります。もし遮るものがあれば、その部分だけ暗闇が残るでしょう。

もし[キリスト者である]私のうちに暗闇の部分があるとするなら、キリストの光を遮るものが私のうちにある、ということになります。そのものの正体は、光を受けたくない不信仰である、と言ってよいでしょう。光を受けたいとする信仰があるなら、私の全身はキリストの光にくまなく照らされ、私のうちに暗いところは少しもない、という恵みの現実を味わうことができるのです。

このように、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」という真理は、私たちを離れて別にある《客観的真理》といったものではなく、まさに私たちキリスト者が体験している《主体的真理》である、と言うことができます。単なる知識や教理として[だけ]ではなく、私たちがキリストにあって体験している感謝と喜びを、確信をもって伝えていくことが私たちの証しであり、伝道であると思います。

6節以下に、「もし・・・なら」という文章が繰り返し[6節から10節まで各節ごとに計5回]出てまいります。これはギリシア語の文章では、未来の条件を示す条件文なのです。6節に「もし私たちが、神との交わりがあると言いながら、しかも暗闇の中を歩んでいるなら」とあるのは、現在はそうでなくても、いつか(やがて)そうなるなら、という意味で言われているものと理解してください。

「神と交わりがある」というのは、《キリストの光を受け、その光に照らされて、光の中を歩んでいる》ということと同じです。そのように告白しながら、もし私たちが「暗闇の中を歩んでいる」ということになるなら、私たちは光の中を歩んではいないことになり、まさに「私たちは偽りを言っている」ことになります。神と交わりがあるなら、その人の全身はキリストの光にくまなく照らされて、その人のうちには暗闇など少しもないはずだからです。

続く7節も、6節と同じことを別の言い方で述べているのだと思います。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。これは、私たちがキリストの光を受けた時に経験する恵みを再確認するように言われている言葉である、ということができます。私たちがキリストの光を受けることは、御子イエスの十字架の血によって私たちのすべての罪がきよめられる、ということに他なりません。罪は暗闇であり、暗闇が光に照らされて完全に消し去られるように、私たちの罪も十字架の血によってすべてきよめられ、完全に赦されるのです。

8節に言われていることは、7節で言われていることと、一見矛盾しているように思われるかもしれません。イエスの血によって罪が完全にきよめられ赦されているなら、もう私たちに「罪はない」と言えるのではないでしょうか。それなのに、どうして「もし、罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」と言われるのでしょうか。

もし私たち[キリスト者]が「罪はない」と言うなら、罪の赦しの福音もなくなってしまうからです。もし「罪はない」と言うなら、罪の赦しは必要がなく、[罪を赦す]神も無用の存在となるでしょう。10節には、「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たち[キリスト者]は神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」とまで言われています。罪の悲惨な現実を誰(非キリスト者)よりも深刻に理解しているのが、キリスト者であると思います。しかし、感謝なことに、真のキリスト者は、いつまでも罪の重荷に悩み苦しんでいるのではなく、自分の罪が完全にきよめられ赦されたことを知って、心から喜んでいるのです。

その罪の赦しときよめについて明確に教えてくれているのが、続く9節であります。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と。この聖句は、神が私たちの罪を赦してくださるのは、神の真実と正しさのゆえである、と教えてくれています。罪があれば、その罪を罰するのが「真実と正しさ(正義)」である、と理解するのが世間の常識でしょう。しかし、神の真実と正しさは、《罪を赦すこと》において表されているのです。これこそ福音ではありませんか。イエス・キリストにおいて、神の真実と正しさは、《罪を赦す神の愛、しかも無条件の赦しの愛》として示されているのです。

それにしても、私たちが《罪を赦す神の愛》を体験するためには、「もし、私たちが[真実で正しい神の前に]自分の罪を言い表すなら」という条件をクリアしなければなりません。「言い表す」と訳されているギリシア語(ホモロゲオー)は、「告白する」とも訳される言葉で、「同じことを言う」という意味が基本にあります。神学的には、「神の御心にかなったことを言う」「神の御心に答えていく」ということです。神の御心は、私たちの罪を赦してくださることに他なりません。したがって、私たちが「罪を言い表す」のは、罪を赦してくださる神の愛を私たちが喜んで受ける、という行為に通じているのです。

「神は光である」と言うときの「光」は、神の内実というよりも、内実が外に表れ出たものと考えられます。すると、神の光の内実とは何か。それこそ、私たちの罪を赦してくださる《神の愛》ではないでしょうか。「神の光の中を歩んでいる」ことは、その内実において、《神の愛の中を歩んでいる》ことなのです。日ごと新たに、心を神に向ける悔い改めによって自分の罪を言い表し、罪を赦してくださる神の愛を深く感じる歩みをしてまいりましょう。そうすれば、[聖霊の導きと助けによって]おのずから《愛の光の中を歩んでいる者》とされるのです。

(『西東京だより』第66号・2010年2月より転載)

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村瀬俊夫

村瀬俊夫(むらせ・としお)

1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。

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