また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。(ヨハネの黙示録20章11、12節)
私たちにも、必ずこの地上を離れる死の瞬間が訪れます。その前に、神の真理をもう一度学び、霊的な生き方を整えておきましょう。このヨハネの黙示録は、私たちがまだ体験していない歴史の先の世の終わりについて語っているといわれています。
特に20~21章では、世の終わりには、全ての人は例外なく、いのちの与え主である神の前に立たなければならないと教えています。あなたには、その準備ができているでしょうか。
1. 死んで終わりではなく、人生の中身を問われる私たちのいのち!
死んだら全てが終わる、と言う人もいますが、聖書は「人は一度死ぬことと、死んで神の裁きの座につくことが定められている」と明確に預言しています。誰であろうと、人間は必ず死に、死んだ後は神の前に立って、そのいのちの中身が問われるというのです。
そんな時が来ることを忘れていませんか。天国の入り口で、自分の名前がいのちの書に記されているか、問いかけられることは、避けて通れないと聖書は語っています。あなたの名はあるでしょうか。
2. いのちの書に記される善に生きるか、裁かれる悪にとどまるか
神様の前での裁きは明瞭で、清さや善で生きたのか、悪や罪にとどまったのか問われます。今は、自分が良いと思えばそれで良いと思っている人が多くいますが、神の目から見て公明正大に裁かれるとき、あなたの魂は立ちおおせるでしょうか。清いか清くないのか、その基準はあくまで、いのちを与えられた神様にあることを忘れてはなりません。
3. 誰も例外なく立つべき裁きの座!
誰一人例外なく、素のままの魂として神様の前に立ち、いのちの書に記されているか見極められるのです。例外はありません。そして、自分の強さや努力では、いのちの書に名前を記すことができません。私たちは、どこまでも罪深い人間です。神様はそれをご存じで、たとえ罪人であっても、神を見上げ、真剣に生きようとする者に特別な恵みを与えてくださいました。
4. 主キリストによる救い、助けと導きを受け止めよう!
自分の行いだけで、自分の正しさを誇ることのできる人間はいません。全ての人は罪を犯し、神の前に正しくない、滅びるだけの者です。しかし、神の御子であるイエス・キリストが私たちの罪を背負って、身代わりに死んでくださり、神の裁きを受け、私たちに救いを与えてくださいました。
だから聖書は「この世界に、イエス・キリストの御名以外に、人々を救い得る名はありません」と語ります。私たちを罪の世界から救い出し、私たちの名前をいのちの書に書き加えてくださるお方は、イエス・キリスト以外にはありません。
そして、この御名を信じた者には、神の子となる特権が与えられるのです。私たちは弱く不完全な者ですが、イエス・キリストと共に歩むならば、神の清さが与えられ、救われた者として、天国の入り口に立つことができるのです。天国と結び付いて、先に召された兄弟姉妹に、再びお会いしようではありませんか。
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