ヨハネ書Ⅰ《黙想・観想ノート》(5)世に打ち勝った者として・ヨハネ第一書2:12~17 村瀬俊夫

2015年8月8日07時08分 コラムニスト : 村瀬俊夫 印刷
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この段落の前半(12~14節)で、著者はキリスト者である読者に、彼らがどんなに素晴らしい恵みを受けているか、世に対してどれほど優位に立たされているか、ということを示しています。そのことを自覚し体験しているなら、キリスト者には不平や不満があろうはずがなく、いつも感謝と喜びに満たされていることでしょう。段落の後半(15~17節)は、前半から自然に導き出される福音的訓戒とみなすことができます。

前半では、「子どもたちよ」「父たちよ」「若い者たちよ」という三重の呼び掛けで始まる言葉が、二回りずつ記されています。二回り目は「子どもたちよ」が「小さい者たちよ」となっていますが、意味は変わりません。どちらも読者全体に向けられています。キリスト者は皆、神の子どもとされているのですから。「父たちよ」と「若い者たちよ」という呼び掛けも、読者の年齢層による区別を想定するよりも、そんな区別など気にせず、読者全体に呼び掛けているものと考えてよいのではないでしょうか。

「子どもたちよ」には、「私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦(ゆる)されたからです」、二回り目の「小さい者たちよ」には、「私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです」という言葉が、それぞれ続きます。言い回しに微妙な違いがあっても、同じ事を言っているのだと思います。「書き送る」ことは「書いて来た」ことに他ならず、主の御名によって罪が赦されたからこそ、私たちは神を御父として知るようになったからです。

訳し方の問題ですが、「私が書き送る[書いて来た]のは、・・・からです」と、書いた理由を述べるよりも、「私が書き送る[書いて来た]のは、・・・ことです」と、書いた内容を示すように訳すのがよいと思います。「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたことです」というように。

キリスト者は皆、主の御名(イエス・キリスト)によって、罪の赦し[それに加えて永遠のいのち]を与えられ、神の子とされています。それで神を御父として知る恵みにあずかっているのです。それにもかかわらず、キリスト者は自分が罪深い者であることを知っています。しかし、罪の自覚が深まる中で、罪のために[いたずらに]悩み苦しむ者ではありません。罪の自覚が深まるほど、その罪が赦された感謝と喜びを深く味わうことができるのが、キリスト者であるからです。

「父たちよ」という呼び掛けには、二回とも同じ内容の言葉が続きます。すなわち、「あなたがたが、初めからおられる方を、知ったことです」と。「初めからおられた方」とは、1章1節に照らして明白なように、主イエス・キリストを指しています。キリスト者は皆、この主イエス様を知った者であり、主イエス様によって罪の赦しを体験し、神の子どもとされているのです。

「若い者たちよ」という呼び掛けに続いて言われているのは、二回り目に添えられた余分な言葉を除けば同じ内容で、「あなたがたが悪い者に打ち勝った」ということです。「悪い者」は、15節以下に出てくる「世」と置き換えることができます。「世」とは悪い者が支配している領域を意味しているからです。キリスト者とは、イエス・キリストによって《世に打ち勝った者》に他なりません。二回り目に「あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして・・・」と付言されているように、「神のみことば」であるキリストが私たちのうちにおられるので、私たちは「強い者」とされ、《世に打ち勝った者》とされているのです。

世に打ち勝ったということは、今も世に打ち勝っている、これからも世に打ち勝っていく、ということを意味します。その意味で、私たちキリスト者は《世に打ち勝った者》であるのです。それで世に打ち勝った者として、キリスト者は、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」という福音的訓戒へと導かれることになるのです。

キリスト者とは、世に打ち勝った者である以上、《世をも、世にあるものをも愛することをしない者》である、と言うことができるでしょう。ですから、「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません」(15節前半)というのは、キリスト者に対する当然の勧めである、と言っても過言ではありません。それを証明するかのように、「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(15節後半)と明言されているのです。

「世」という言葉について、誤解を防ぐため補足説明をしておきます。ヨハネの福音書3章16節には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」とあります。このように神が愛された「世」を、どうして私たちが愛してはいけないのか。これは当然の疑問であると思います。しかし、神が愛された「世」と、私たちがキリストによって打ち勝った「世」とは、意味が違うのです。前者は、神が創造した世界であって、神はこの世界に住むすべての人を愛しておられます。後者は、前述したように《悪い者が支配している世》を意味します。残念ながら、神が創造した世界には悪い者がはびこっています。そういう「世」を愛してはいけない、と言われているのです。

信仰とは、私たちが能動的に何かをすることではありません。それは徹底的に受け身のものであり、私たちに[聖霊によって]近づいてくださるイエス様の愛を深く感じ、その愛を豊かに受けることに他なりません。そのとき私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを与えられ、御父を知ったという感謝と喜びにあふれるのです。

『信仰による人間疎外』(いのちのことば社、1989年)という本を書いた工藤信夫先生(精神科医)は、その中で「私たちキリスト者は『こうしなければならない』という間違った信仰から解放されなければいけない」と言われています。私たち人間を疎外する[人間として駄目にしてしまう]信仰とは、まさに「こうしなければならない」という律法的信仰(信仰の名に値しない「偽りの信仰」)であるのです。

重ねて申しますが、信仰は私たちが何かをすることではありません。まして「何かをするべきである」ということではありません。ただ主イエス様の赦しの愛を受け、その豊かな恵みを喜び、心から感謝することです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)という勧めほど、キリスト者の信仰生活にぴったりの勧めはありません。主にあっていつも喜び、すべての事について感謝するなら、それが自然に絶えず祈ることに通じるのです。

イエス様の愛を豊かに受けてごらんなさい。私たちのうちに「御父を愛する愛」(16節)が湧き上がり、「世と世の欲は滅び去ります」(17節)。ですから、自然に世と世の欲には迷わされなくなります。そのように私たちを《世に打ち勝った者》としてくださる主イエス様の愛は、私たちの思いをはるかに超えて大きく、広く、また深いのです。

世に打ち勝った者として、私たちキリスト者は「神のみこころを行う者」(17節)とされます。「神のみこころ」は、私たちが主イエス様の愛を受け、互いに愛し合う生活を[この世で]実践することです。「御父を愛する愛」が、そのことを可能にしてくれます。

(『西東京だより』第69号・2010年6月より転載)

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村瀬俊夫

村瀬俊夫(むらせ・としお)

1929年、東京都生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了、東京神学塾卒業。日本長老教会引退教師。文学修士。著書に、『三位一体の神を信ず』『ヨハネの黙示録講解』など多数。現在、アシュラム運動で活躍。

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