アルシノエ2世の神格化
今回は4章1~12節を読みますが、その前に、前回扱った箇所のうちの3章20~21節について、少し補足をしておきたいと思います。
20 すべては同じ場所に行く。すべては塵(ちり)から成り、すべては塵に帰る。21 人の子らの息が上へ昇り、動物の息が地に降ると誰が知るだろうか。
私は、コヘレトの時代を紀元前250年ごろと見ています。これは、多くの聖書学者が支持する見解ですが、この時代のイスラエルは、アレクサンドリア(現在のエジプトの地中海沿岸の都市)を王都とするプトレマイオス朝の支配に置かれていました。王であるプトレマイオス2世(在位:同286~246年)は、姉であり、近親婚による妻であったアルシノエ2世を、自分が支配している地において崇拝の対象とさせていました(エリザベス・ドネリー・カーニー著『アルシノエ2世』152~153ページ)。
前回お伝えしたように、同268年にアルシノエ2世が死去した後は、神格化がさらに進められました。アレクサンドリアには、アルシノエイオンという神殿が建てられ、地方でも神格化が進められていきました(同書164~169ページ)。
プトレマイオス朝は、イスラエルにおいては唯一神への信仰を認めていたので、アルシノエ2世への信仰を強制することはなかったでしょう。けれども、死去したアルシノエ2世の神格化については、コヘレトはそれを知っていたとするのが妥当です。そうなると、コヘレトは3章20~21節で、人が死後に神になるという考えを批判し、人も含め「すべては塵から成り、すべては塵に帰る」というヘブライズム的な教えを強調したという可能性も考えられます。
虐げと嘆き
それでは、4章1~12節を読みます。1~3節「虐げと嘆き」、4~6節「妬(ねた)みによる競争主義」、7~8節「企業戦士の空しさ」、9~12節「共同体を大切にするヘブライズムの提示」に区切って読んでいきたいと思います。
1 私は再び太陽の下で行われるあらゆる虐げを見た。見よ、虐げられる者の涙を。彼らには慰める者がいなかった。また、彼らを虐げる者の手には力があった。彼らには慰める者がいなかった。2 今なお生きている人たちよりも、すでに死んだ人たちを私はたたえる。3 いや、その両者よりも幸せなのは、まだ生まれていない人たちである。彼らは太陽の下で行われる悪事を見ないで済むのだから。
プトレマイオス朝は、イスラエルに対して唯一神への信仰は認めていましたが、労働面では搾取を行っていたようです。死海の北側に位置し、後に新約聖書に登場するザアカイがいた町エリコと、死海西岸の町エン・ゲディ(歴代誌下20章2節)には、樹脂から香料を取るバルサムという木の栽培園があり、これらはプトレマイオス2世が私有地として所有し、搾取が行われていました(マルティン・ヘンゲル著『ユダヤ人・ギリシア人・バルバロイ』50ページ)。
また、広範な地域で、灌漑(かんがい)設備、水車、種まき鋤(すき)、ぶどう絞り機の改良が行われており、経済的領域にヘレニズムの影響が現れていたようです(同書50~51ページ)。1節の「虐げ」とは、このようなプトレマイオス朝の支配において、イスラエルでなされていたことだと考えられます(マリア・アントニア・マルケス、中ノ瀬重之著『喜んであなたのパンを食べなさい―ともに学ぶ「コヘレトの言葉」』143ページ参照)。
コヘレトはこのような状況に対して、虐げられる者の弱さを「見よ、虐げられる者の涙を」と、虐げる者の加害性を「虐げる者の手には力があった」としているのです。そして、「彼らには慰める者がいなかった」という言葉を、虐げられた者への発言の後だけでなく、虐げる者への発言の後にも記しています。
なぜ両方に書いているのかについては、「虐げられている者を慰める者がいなかったことを2度繰り返している」という説と、「虐げられている者と虐げる者の両者を慰める者がいなかった」という説の2つがあります。私は、後者の「両者を慰める者がいなかった」という説を採ります。
「虐げられる者を慰める者がいなかった」というのは、被支配地の現実的な矛盾についての嘆きだと思います。しかし、慰めるという語は、旧約聖書においては多くの場合、神の慰めを指す言葉です。支配者であるプトレマイオス朝の役人たちは、神が不在の状況に置かれています。ですから、「彼らには神の慰めがない」ということを、コヘレトは2度目の言葉において嘆いているのだと思います。
コヘレトは自身の観察によって、こうした社会の空しさを伝え、さらに、既に死んだ人と、まだ生まれていない人の優越までを論じています(2~3節)。しかしこれは、この後の展開への布石であって、コヘレトがここで、生きることを疎かにしているのではないと思います。ともあれ、コヘレトの論述は、「慰めはどこにあるのか」という観点で進められていきます。
妬みによる競争主義
4 また、私はあらゆる労苦とあらゆる秀でた業を見た。それは仲間に対する妬みによるものである。これもまた空であり、風を追うようなことである。5 愚かな者は手をこまぬいて、己の身を食い潰(つぶ)す。6 両手を労苦で満たして風を追うよりも、片手を安らぎで満たすほうが幸い。
コヘレトがアレクサンドリアに居住していたということは、ありそうなことです。彼が知恵を追求し続けていたことは、この書の全編からうかがわれますから、プトレマイオス1世と2世によって築かれたアレクサンドリア図書館で学んでいた時期があると考えるのは自然なことです。そうなると、ここで示されている内容は、アレクサンドリアで観察したことかもしれません。一方、イスラエルもプトレマイオス朝の支配によって貨幣経済が浸透し、競争主義が強くなっていましたので、イスラエルで観察したことである可能性も十分にあります。
いずれにしても、ヘレニズム世界には競争主義が広く浸透していたと思えます。その原因となっているのが、「妬み」であるようです。妬みは、国や時代を問わず、人間世界に存在します。けれども、貨幣経済による競争主義は、それを助長するといえましょう。そのため、自分より豊かに見える他者への妬みにかられ、両手を労苦で満たしてもうけたとしても、安らぎがないなら風を追うようなことだとして、片手であってもそれを安らぎで満たす方が良いと、コヘレトは言っているのです。これは、貨幣経済、またそれによる競争主義に対する批判といえるでしょう。
企業戦士の空しさ
7 私は再び太陽の下、空である様を目にした。8 一人の男がいた。孤独で、息子も兄弟もない。彼の労苦に果てはなく、彼の目は富に満足しない。「誰のために私は労苦し、私自身の幸せを失わなければならないのか。」これもまた空であり、つらい務めである。
これも、前段と同じく、ヘレニズム的状況における観察でしょう。この一人の男性が、孤独で息子も兄弟もないとされているのは、この男性に身寄りがないということではなく、息子や兄弟も含め、他者は自分に関係ない、どうでもよい、と思っているということでしょう。
富を築くために、家族を含め他者のことはおかまいなしに突っ走ってきた一人の男性。今日で言うならば、企業戦士という言葉がぴったりの男性です。コヘレトは、この事例を空しいと言っています。これも、プトレマイオス朝による貨幣経済、またそれによる競争主義に対する批判といえましょう。
共同体を大切にするヘブライズムの提示
9 一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。10 たとえ一人が倒れても、もう一人がその友を起こしてくれる。一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。11 また、二人で寝れば暖かいが、一人ではどうして暖まれよう。12 たとえ一人が襲われても、二人でこれに立ち向かう。三つ編みの糸はたやすくは切れない。
コヘレトはここで、ヘブライズムを提示します。それは、個人よりも共同体を優先する在り方です。今回見てきたように、ヘレニズムによって貨幣経済が浸透していったことがうかがえますが、個人の幸せを追求することを目的としたギリシャ哲学も、イスラエル社会に影響を与えていたことでしょう。コヘレトは、そのことを批判しているのだと思います。
ここに記されていることは、当時の格言だと思われますが、「一人⇔二人」「倒れる⇔助け起こす」「暖かい⇔寒い」「切れやすい⇔切れにくい」という対比構造の文体は、ヘブライズムに特徴的なものです。また、内容的にも、「落穂拾い」の教えに代表されるような、共同体を重視する旧約聖書の教えに適合します。
3章までにおいて、時間や人間の神格化の例を見てきましたが、ここでもう一つの神格化が示されていると思います。それは、「マモン」という、富そのものを神とするものです。イエスは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ福音書6章24節)と教えておられますが、ここでの富は「マモーナス / μαμμωνάς」です。マモンは、ギリシャ神話の神ではありませんが、やはり神格化の一つでしょう。
コヘレトはそれよりも、他者を大切にする共同体重視の歩みの大切さを説いています。それは、「他者と私」を造られた神に対する賛美の在り方でしょう。「慰めはどこにあるのか」という観点で論を進めてきたコヘレトが、「慰めは共同体の主である神にある」ということに行き着くのです。
3章までにおいて、「今この時に永遠の神からのプレゼントを喜んで受け取る」という、コヘレトが大切にしているメッセージを見てきましたが、今回の箇所で「共同体の重視」という、もう一つのメッセージが示されたと思います。このメッセージは、コヘレトの言葉を通貫して示されていることなのです。(続く)
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