
集中構造分析によるテキストの提示
今回は「時の賛歌」といわれる3章1~17節を読みます。ちなみに、この原稿を書き上げた日は、くしくも「時の記念日」である6月10日でした。この箇所は集中構造になっていますので、その分析によって聖書本文を提示します。集中構造とは、A-B-X-B´-A´のように、中核部(X)を中心とした対称形の文章構造のことをいいます。
聖書には、旧約にも新約にも、この集中構造による記述がたくさんあります。集中構造の文章を読むメリットはたくさんありますが、私は、①中核部を知ることによって文章全体の中心メッセージを知る、②対称に位置する2箇所を読み比べることによって両者の共通性を見いだす、という2点を心がけています。
集中構造の分析を行う場合は、分析者によってその結果に個人差が出ることは承知していただきたいと思います。私が分析した3章1~17節の全体像を最初に示します。A~G-X-G´~A´のセクションを抽出することができました。各セクションには、適宜タイトルを付けました。
それではこの分析を基に、聖書本文を読み進めていきます。
A〔全てに時がある〕
1 天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある。B〔全ては神の御手の内に〕
2 生まれるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、抜くに時がある。3 殺すに時があり、癒やすに時がある。壊すに時があり、建てるに時がある。4 泣くに時があり、笑うに時がある。嘆くに時があり、踊るに時がある。5 石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。抱くに時があり、ほどくに時がある。6 求めるに時があり、失うに時がある。保つに時があり、放つに時がある。7 裂くに時があり、縫うに時がある。黙すに時があり、語るに時がある。8 愛するに時があり、憎むに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。C〔考察〕
9 人が労苦したところで、何の益があろうか。10 私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。D〔神による時の支配〕
11a 神はすべてを時に適って麗しく造り、E〔円環的な永遠〕
11b 永遠を人の心に与えた。F〔神の永遠への畏れ〕
11c だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。G〔ヤダアティー〕
12 私は知った。X〔中核〕
12b 一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に、人の子らに幸せはない。13 また、すべての人は食べ、飲み、あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である。G´〔ヤダアティー〕
14a 私は知った。F´〔神の永遠への畏れ〕
14bc 神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく、加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた。E´〔円環的な永遠〕
15ab 今あることはすでにあった。これから起こることもすでにあった。D´〔神による時の支配〕
15c 神は過ぎ去ったものを捜し求める。C´〔考察〕
16 太陽の下、さらに私は見た。裁きの場には不正があり、正義の場には悪がある。B´〔全ては神の御手の内に〕
17ab 私は心の中で言った。「神は正しき者も悪しき者も裁かれる。A´〔全てに時がある〕
17c 天の下では、すべての出来事に、すべての業に時がある。」
1~2章においてコヘレトは探求を行っていましたが、前回その結論として、「食べて飲み、労苦の内に幸せを見いだす。これ以外に人に幸せはない。それもまた、神の手から与えられるものと分かった」(2章24節)ということを、彼が導き出したことをお伝えしました。今回の箇所でも、集中構造の中核であるXにおいて、「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に、人の子らに幸せはない。また、すべての人は食べ、飲み、あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である」(3章12節b~13節)と同じ内容のことを示し、このメッセージの重要性をコヘレトが強調しています。
クロノスとカイロス、ゼマーンとエート
1節の「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある」には、2つの時が示されています。それは、「時機」と訳されている「ゼマーン / זְמָן」と、「時」と訳されている「エート / עֵת」です。旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳聖書では、前者は「クロノス / χρόνος」、後者は「カイロス / καιρός」となっています。クロノスとカイロスは、本来はどちらもギリシャの神であり、ギリシャ哲学においてはどちらも重要な概念です。
一般的に、クロノスは過去・現在・未来という幅を持った時、すなわち時間であり、カイロスはあることを行った時や瞬時を意味します。2~8節には14の対句が示されていますが、例えば2節前半の「生まれるに時があり、死ぬに時がある」ですと、誕生から死までの時間がクロノスであり、誕生と死があったそれぞれの時がカイロスになります。ですから、ヘブライ語のゼマーンとエートをそれらに当てはめるのであれば、誕生から死までの時間がゼマーンであり、誕生と死があったその時がエートということになります。
本来、七十人訳聖書は、ヘブライ語をギリシャ語に訳したものであり、その観点でいえば、ゼマーンがクロノスに、エートがカイロスに訳されたということになるのでしょう。けれども私は、このことについては、ギリシャ哲学にあったクロノスとカイロスという概念を、コヘレトが自分の思考に反映させたのではないかと考えています。
前回までに、コヘレトはストア派とエピクロス派の考え方に影響されつつも、それらに相反していることをお伝えしてきました。この両派も、クロノスとカイロスの概念についてはさまざまに論じており、コヘレトの時代には、時についての考察が深化していました。つまり、コヘレトはこの両派に影響されつつも、そういったことは全て、唯一なる神の御手の内にあるのだということを主張しているのではないかと思うのです。
2~8節に示されている14の対句は、14のゼマーンであり、28のエートです。これだけ多くのことを示しているのは、「全て」ということを意味しているからではないかと思います。そして、10節の「私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た」という観察の記述によって、その全ては神の御手の内にあるということを示しているのでしょう。
14の対句はそれぞれ、それほど難しい内容ではないと思いますが、ただ一つ、5節前半の「石を投げるに時があり、石を集めるには時がある」という対句は分かりにくいと思います。ですので、この対句については私の考えを述べておきたいと思いますが、これは次回に回したいと思います。
神の支配にある時
11節abは、集中構造において15節と対称になっています。ですからこの2箇所は、冒頭でお伝えしたように、それぞれを読み比べて共通性を見いだすことができれば、分かりやすく読み解けると思います。また、1章9~11節と深く関連していると考えられますので、当該箇所を提示します。
9 すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つない。10 見よ、これこそは新しい、と言われることも、はるか昔、すでにあったことである。11 昔の人々が思い起こされることはない。後の世の人々も、さらに後の世の人々によって、思い起こされることはない。
3章11節aの「神はすべてを時に適って麗しく造り」は、原文に忠実に訳すと、「彼(神)はすべてを彼の時にかなって麗しく造った」となります。この場合の「時」も、エートが使われていますが、エートには日本語の時という言葉と同じように、「あることを行った時・瞬時」と「広義の時全般」という両方の意味があります。この場合は、8節までの「あることを行った時・瞬時」とは違い、「広義の時全般」の意味で使われています。時というもの全てを神が支配していて、その下において神羅万象の創造がなされたということです。
一方、3章15節cの「神は過ぎ去ったものを捜し求める」は、提示した1章9~11節の内、11節の「昔の人々が思い起こされることはない。後の世の人々も、さらに後の世の人々によって、思い起こされることはない」に対応していると私は考えています。人間が思い起こさないような過去も、神は見いだすということです。時は神が支配しているからです。
円環的に無限に繰り返される時
このような、神が時を支配し超越しているというコヘレトの考察は、ギリシャ哲学的な時の概念の中の超越性を持つときに進んでいきます。ギリシャ哲学には、クロノスとカイロスの概念の他に、「アイオーン / αἰών」という、もう一つ時を示す言葉があります。クロノスが一定の時間、カイロスが瞬時であるのに対し、アイオーンは円環的に無限に繰り返される時という概念を持ち合わせています。アイオーンについては、ストア派とエピクロス派も論じており、コヘレトもそれを知っていたでしょう。
では、コヘレトはアイオーンをヘブライ語に訳すとき、どういった語を用いたのでしょうか。それは、11節bの「永遠を人の心に与えた」で「永遠」と訳されている「ハーオーラーム / הָעֹלָם」です。第1回でもお伝えしましたが、この語はヘブライ語の「オーラーム / עוֹלָם」に、定冠詞の「ハ / הַ」が付いた形です。ヘブライ語の定冠詞は、元の語を限定化・特定化する働きがあり、ハーオーラームはオーラームという語を限定化しています。
今回の文脈では、オーラームは初めも終わりもない、人間が極めることのできない神の永遠を意味しています。ギリシャ語のアイオーンは円環的に無限に繰り返される時ということであり、神の永遠とは質的に異なっていました。それでコヘレトは、ハーオーラームという語を当てたのだと思います。アイオーン、すなわちハーオーラームは、人が心で思うことのできる永遠なのです。
1章9節の「すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる」と、3章15節abの「今あることはすでにあった。これから起こることもすでにあった」は、同じ内容であり、これらはギリシャ的な円環的な永遠であるアイオーンを意味していると私は考えています。それは、神の支配の下にある永遠であって、神の永遠とは質的に異なるものなのです。
神の永遠と人間の瞬時との交差
集中構造のFとF´に進みますが、「だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない」(11節c)のであり、「神が行うことはすべてとこしえに変わることがなく、加えることも除くこともできない。こうして、神は、人が神を畏れるようにされた」(14節bc)のです。この場合の「とこしえ」は、定冠詞の付かないオーラームです。新共同訳は、ハーオーラームもオーラームも「永遠」と訳していましたが、聖書協会共同訳は、ハーオーラームは「永遠」、オーラームは「とこしえ」と訳し分けています。
GとG´である、12節aと14節aの「私は知った(ヤダアティー / יָדַעְתִּי)」に、修辞的に挟まれて(ただし14節aは内容的には14節bcを指している)、中核部Xの「一生の間、喜び、幸せを造り出す以外に、人の子らに幸せはない。また、すべての人は食べ、飲み、あらゆる労苦の内に幸せを見いだす。これこそが神の賜物である」(12節b~13節)が伝えられています。
このメッセージは1~2章の結論でもありましたが、3章のこの箇所では、「時」という山を登り詰めた、神の永遠という頂において示されています。それが意味することは、食べて飲んで幸せを見いだすことが、永遠の神から与えられたものであることを強調しています。そしてそれが、人間が生きている「今この時」と交差しているのです。
直線的な時概念
16節から、「太陽の下、さらに私は見た。裁きの場には不正があり、正義の場には悪がある。私は心の中で言った。『神は正しき者も悪しき者も裁かれる』」と、今までと少し違ったニュアンスのことが記されています。これは、コヘレトの言葉の最後である「神は善であれ悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべての業を裁かれる」(12章14節)とよく似た内容です。ここでは、ヘレニズムの円環的な永遠性の時概念に対して、ヘブライズムの直線的な永遠性の時概念が示されています。しかしこの直線的な永遠性を持つ時は、人間に与えられる時であり、神の支配の下にある時です。
17節は締めくくりとして、聖書協会共同訳では「天の下では、すべての出来事に、すべての業に時がある」と記されていますが、原文には「天の下では」はありません。この箇所は、天の下ではない「裁きの座(終末)」に向かうあらゆる出来事、業に時(エート)があることを示しています。ここでのエートも、3章1節のように瞬時を意味するものではなく、神の支配にある全ての時を意味するものとして伝えられていると思います。
前シリーズ「コヘレト書を読む」の第9回では、3章1~17節には、「点的な時」(エート)、「時間」(ゼマーン)、「無限」(ハーオーラーム)、「神の永遠」(オーラーム)という4つの時が示されている、とお伝えしていました。しかし、今回の考察では、以下のように、これらの4つの時に1つを加え、5つの時が示されていると考えさせられました。
- 点的な時(瞬時)、あることを行った時:エート(ヘブライ語)、カイロス(ギリシャ語)
- 幅を持った時(時間):ゼマーン(ヘブライ語)、クロノス(ギリシャ語)
- 無限、円環的な永遠:ハーオーラーム(ヘブライ語)、アイオーン(ギリシャ語)
- 神の永遠:オーラーム(ヘブライ語)
- 裁きの座(終末)に向かう直線的な永遠性を持った時:エート(ヘブライ語)
このうち、1と2はヘレニズムとヘブライズムに共通する時であり、3はヘレニズム的世界観による時であり、4と5はヘブライズム的世界観による時です。(続く)
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