栗栖ひろみの記事一覧

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(7)剣をとる者は剣で滅びる

日本に帰国した新渡戸は1904(明治37)年、後藤新平の斡旋で東京帝国大学(現在の東京大学)の専任教授となった。そしてその2年後、この大学より法学博士号が贈られた。

2019年12月04日20時33分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(6)台湾の復興を助ける

新渡戸は、世界の人々に堂々と語れる日本の道徳について考え、それを「武士道」に求めた。武士道とは戦争をしたり、争ったりすることではなく、武士の心意気というものは極めて高い倫理性を持っていることを語った。

2019年11月20日13時43分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(5)遠友夜学校

18日間の船旅の後、船は港浜に着いた。新渡戸がメリー・エルキントンを伴って実家に行くと、あれほど反対していた養父太田時敏は妻と共に大喜びで2人を迎え入れ、親戚の者たちも駆けつけて口々に祝福してくれるのだった。

2019年11月06日22時45分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(4)クエーカー教徒との出会い

それは札幌農学校3年目、1880(明治13)年の夏だった。稲造はなぜか急に母に会いたくなったので、休暇を利用して札幌を出発した。久しぶりに旅をするのでゆったりした気分になり、あちこち寄り道をしてから、ようやく盛岡の実家に着いた。

2019年10月16日15時23分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(3)青年よ、大志を抱け!

1877(明治10)年。稲造は札幌農学校に第二期生として入学した。ここでは寮費、食費、生活費などがまかなえる官費(月16円)をもらえたので、養父の太田時敏の負担は大いに軽減されることになった。

2019年10月02日17時49分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(2)荒地に落ちた種

「稲之助は賢い子だ。それに他の子どもにない品性が身についている。あの子にそろそろ学問と武道の手ほどきを受けさせてはどうだろう」。ある時、祖父の伝はこう言ってまとまった金をせきに渡した。

2019年09月19日20時58分

天才的数学者パスカル、キリスト者として歩んだその生涯と遺著『パンセ』

天才的数学者パスカル、キリスト者として歩んだその生涯と遺著『パンセ』

欧米では、聖書に次いで広く読まれているのが、この『パンセ』だといわれ、多くの著者がこの書によって知性と信仰心を養われてきた。パスカルは天才的な数学者・科学者として世に知られているが、その彼がなぜこのようなキリスト教書を著したのだろうか。

2019年09月11日10時02分

新渡戸稲造

太平洋の橋―新渡戸稲造の生涯(1)稲穂のように

南部藩の勘定奉行新渡戸十次郎の屋敷は喜びに包まれていた。この家の三男が生まれたのである。ちょうどこの日は子どもの祖父に当たる新渡戸伝が苦労して開墾した三本木原の農地で初めて米の収穫があったことから、子どもは稲之助と名づけられた。

2019年09月05日14時13分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(最終回)白鳥の歌

1815年4月。ヨゼフ・シュミットが再び戻ってきて、ペスタロッチに協力を申し出た。友人や彼の援助者たちは、もうあのような男とは関わらないほうがいいと言っていさめたが、ペスタロッチは耳を貸さず、喜んでシュミットを迎え入れた。

2019年08月21日14時45分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(12)成功から暗い谷間へ

1802年11月。ナポレオンは憲法制定会議を召集し、ペスタロッチはチューリッヒの代表としてパリに赴いた。彼はチューリッヒのために幾つかの提案をしたがほとんど採択されず、気落ちしたが、この地において思いがけない収穫があった。

2019年08月07日18時16分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(11)新しい小学校

ペスタロッチは、ようやく小康を得たので、シュタンツの孤児院の復興を政府に願い出た。しかし、孤児院の仕事の結果が疑わしいという報告がなされたので、彼の願いは叶わず、政府は彼をシュタンツに召還する決定を出せなかった。

2019年07月17日21時47分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(10)孤児の父

それから3日後、政府から派遣された職人がやってきて、台所と寝室の仕切りとドアを作った。それから、ベッドを設置し、テーブルとイスを運び込んだ。また生活に必要な台所用品、食器、そして毛布や布団、孤児たちに着せる下着と新しい服なども届けられた。

2019年07月03日16時14分

『聖なる漁夫』 ペテロの生涯とアラビア王女のロマンスが交錯する物語

『聖なる漁夫』 ペテロの生涯とアラビア王女のロマンスが交錯する物語

『聖なる漁夫』は、イエスの弟子ペテロの生涯を、アラビアの王女のロマンスと重ねて描いた小説である。この書はベストセラーとなった同じ著者による『聖衣』と共に世界中で親しまれており、キリスト教と無縁な人も楽しく読める一大エンターテイメントである。

2019年07月02日22時02分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(9)シュタンツの悲劇

1792年8月26日。ペスタロッチはフランス国民議会から「フランス名誉市民権」を授与された。これに対しスイス国内には、ペスタロッチがフランスと秘密の関係を持っているのではないかと恐れる者がいた。

2019年06月19日14時39分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(8)ペンで弱者を弁護する

チャルナーの勧めにより、その後ペスタロッチは、「貧民は貧困へと教育されなくてはならない」という論文をイーザク・イーゼリンに送った。この論文は「エフェメリデン」に掲載され、大きな反響を呼んだ。

2019年06月05日17時30分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(7)ノイホーフの貧民学校

1773年には、10人近い子どもがノイホーフに収容された。これだけの子どもを養うのに、ペスタロッチ夫妻は自分たちもパンを口にできない日があった。後にペスタロッチは友人に手紙で書いている。

2019年05月15日11時59分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(6)取り残された子どもたち

1770年8月12日のことであった。ペスタロッチに1万5千グルデンの借用貸付をした銀行家ハウプトマン・シュルテスがやってきて、ペスタロッチの事業は将来発展が見込まれず不安定だからと共同経営の打ち切りを宣言し、貸付金の返済を迫った。

2019年05月01日7時59分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(5)茨と雑草のはびこる道

こうしてアンナ・シュルテスとの愛を心の中ではぐくみつつも、ペスタロッチは亡き友メナルクと約束した貧民救済という理想の実現に向けて準備を始めた。彼はヘルヴェチア協会の「社会研究会」でボートマー教授が語った言葉を心に銘記していた。

2019年04月18日9時46分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(4)親友の死とアンナとの出会い

さらに、ペスタロッチを悲しませるような事件が起きた。ヘルヴェチア協会の「社会研究会」で知り合って以来一番の親友になったヨハン・ガスパール・ブルンチュリ(愛称メナルク)が結核を患い、日に日に衰弱していったのである。

2019年04月03日13時40分

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(1)父なし子

孤児の父―ハインリッヒ・ペスタロッチの生涯(3)民衆の幸せのために

ハインリッヒ・ペスタロッチは、小学校で初等教育を受けた後、ラテン語学校スコラ・カロリーナを経て、1761年から3年間コレギウム・フマニタスという大学の哲学クラスに通った。

2019年03月20日22時16分

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