それから1週間後のことだった。小麦を巡ってさらなる奇跡がニコラスの上にもたらされたのだった。
その日は午後から、にわかに天候が荒れ、やがて暴風雨がやって来た。その時、アレクサンドリアの港から、小麦を積んだ6隻の船がこのミラの港に一時寄港したという知らせが、ニコラスの耳に届いた。それを伝えたのは、貧しい漁師の家を訪問し、わずかばかりの小麦の配給を行っていたアペレであった。
ニコラスは、早速港に出かけて行くと、各船団の船長に尋ねた。「ちょっとお願いがあるのですが」。「何でしょう」。「この船に小麦を積んでいるといううわさを聞いたのですが、本当ですか?」「その通りです」
「実は、この地方は飢餓のためにたくさんの人が飢え苦しんで、死んでいく人もいるのです。それで、こういう人たちを救うために、どうか小麦を10キロずつ譲っていただけないでしょうか?」
「それは無理です」。彼らは青くなって言った。「私どもは、アレクサンドリアの港を出るときに、穀物の目方をきっちりと測ってきました。ビザンチウムに着いたら、それをそっくり皇帝陛下の小麦倉庫に納めなければならないのです。もし10キロ差し上げたら、目方が減って、それこそ私どもは処罰されます。ですから、かんべんしてください」
「それなら、私の名前で行ってください。全て私が責任を取りますから」。ニコラスは言った。船長たちはしばらく頭を突き合わせて相談していたが、ようやく一人が言った。
「いいでしょう。ニコラス司教様。あなたの頼みとあらば、嫌とは申せません」。「ありがとう。あなたがたの上に災いが降りかからないようにお祈りしていますよ」。ニコラスはこう言って感謝した。船長たちは親切にも10キロ分の小麦を入れた袋を教会まで届けてくれたのだった。
さて、それから彼らは再び船を出航させ、ビザンチウムに着くと、びくびくしながら東ローマ皇帝ディオクレティアヌスが所有する小麦倉庫へ行った。
今日は、特に厳しいといううわさの役人が2人、帳簿を片手に控えている。船長たちは、ガタガタ震える足で進み出た。そして心の中で「ああ、神様、神様」とつぶやいていた。
10キロ不足していることはすぐに分かるだろう。自分たちにはどんな恐ろしい運命が待っていることか。
「早く積み荷をはかりにかけるがよい」。一人の役人が催促した。
第一船団の船長は、死んだようになって、震える手で自分の船の積み荷をはかりに載せた。すると役人は一瞬、渋い顔になった。
(そら来た。もう最後だ)船長は、心の中で覚悟を決めた。
その時である。一人のローマ軍団の将校が近づいてきて、役人にそっと耳打ちした。すると、役人は恭しく敬礼してから頷いた。「合格。十分に目方がある。その次!」
2番、3番・・・5番の船長たちが進み出たが、全て合格だった。倉庫に全て納め終えた後、船長たちはその若い将校の前に膝をついて礼を述べた。「ありがとうございます。どうかお名前を聞かせてくださいまし」
「ああ、私は西ローマ皇帝に仕える軍人コンスタンティウス・クロルスの息子コンスタンティヌス。たまたまビザンチウムを視察せよとの皇帝の言葉に従ってここへ来たら、あなたがたがニコラス司教から頼まれて小麦を分けてしまったという話を聞いたものでね。あの人とは古い友達さ。親友と言えばいいかな。彼に会ったらよろしく伝えてほしい」
そう言うと、長い髪を後ろに払って歩み去った。船長たちはアレクサンドリアに戻ると、この不思議な話を人々に語ったので、いつしか「小麦配給の奇跡」と称されるこの話は、船乗りたちの間で代々語り継がれることになったのである。
一方、ニコラスたちは地中海貿易船の船長たちに分けてもらった小麦を測ったところ、60キロ以上もあったので、教会の倉庫に入り切れず、別にテントを設置してその中に運び入れた。
そして、これはこの町の全ての貧しい家庭に配給された。それから2年間、この地方の人々は食糧に困ることがなく、畑にまく種を蓄えることができたので、彼らはその生活を立て直すことができた。
その翌年は大豊作を迎え、ミラの町は復興したのだった。
*
<あとがき>
聖ニコラスを巡っては、不思議な話が多くあり、それが彼を伝説上の人物にしたようです。この「小麦配給の奇跡」については、今なお船乗りたちの間に語り継がれています。
飢餓が起きたとき、相変わらずニコラスは司教の身でありながら、自ら托鉢(たくはつ)して歩いていたのですが、たまたまアレクサンドリアの港から出航し、ミラの港に一時寄港した船団の船長たちの好意で、小麦を分けてもらうことができました。彼らは危険を承知でニコラスに協力したのです。
果たしてビザンチウムでローマ皇帝の納品庫に納める検閲に引っかかりました。小麦の量が足りないことはすぐに分かり、この船長たちには死刑に処せられる運命が待っていました。
ところがこの時、実に不思議な奇跡が起こりました。昔アレクサンドリアの図書館で会い、友情を誓い合った軍人の息子コンスタンティヌスがローマ軍団の将校としてこの場に来ており、ニコラスのためにこの急場を救ったのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。