藤崎裕之
-
私の名を使って(その3) マルコ福音書9章38~41節
イエスいわく、「私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」。正直なところ、これは相当に理解できない言葉だと思う。イエスが言われる「私たち」というのは、イエスと弟子たちのことだろう。
-
私の名を使って(その2) マルコ福音書9章38~41節
「私の名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、私の悪口は言えまい」とイエスは言われた。何とも含蓄のある言葉ではないか。イエス・キリストの名を使うというのは、キリスト教の世界では、まあまあ普通のことである。
-
私の名を使って(その1) マルコ福音書9章38~41節
キリストの名前を使って悪霊を追い出す、というのは私にはなじみのない行為である。癒やしを頼まれたというのは数回しかなかったが、もちろん、頼んだ相手はキリストの名前によって癒やしを求めているのであって、「私の力」に信頼してくれたわけではない。
-
復活はないのか(その2) マタイ福音書28章
兵士たちは、祭司長や長老たちから多額の金を受け取ってうその証言をした。「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と。見張り役としてはどうかと思う。自分たちが全く見張り役になっていないことを、証言させたことになる。
-
復活はないのか(その1) マタイ福音書28章
マタイによる福音書によると、祭司長や長老たちは、イエスの遺体は誰が盗んだため、墓から消え去ったことにした。つまり、彼らはイエスの遺体が消えたことはある程度認めたわけである。
-
罪とは都合の良い言葉である(その3) マルコ福音書14章27~31節
ペトロはなぜこのような、すぐに「バレる」うそをついたのか。どう考えてもペトロの言葉は、その顛末(てんまつ)がまる分かり過ぎだ。だからといって、私はペトロを責めているのではない。
-
罪とは都合の良い言葉である(その2) マルコ福音書14章27~31節
聖書が語るペトロの姿は多様である。と言えば驚くであろうか。ほとんどの人が思い浮かべるのは、ガリラヤ湖で漁師をしているペトロの姿ではないだろうか。イエスがペトロを弟子としたのは、ガリラヤ湖畔での出来事だ。
-
罪とは都合の良い言葉である(その1) マルコ福音書14章27~31節
全世界的にレントである。久しぶりに東西教会が同じ日に復活祭を迎える。「お宅はいつですか」と聞かれることもないので、それはそれでうれしい限りである。さて、昨年であったか、日本ではLGBT理解増進法と呼ばれる法律が施行された。
-
聖地があるなら行ってみたい(その2) ルカ福音書19章45節~20章27節
「祭司長たちや律法学者たちが、長老たちと一緒に」イエスに近づいてきた。それは、イエスが神殿に入って民衆に福音を告げ知らせていたときのことであった。祭司長たちは明らかに神殿側の人間であり、彼らにとってイエスは相当に部外者であったろう。
-
聖地があるなら行ってみたい(その1) ルカ福音書19章45節~20章27節
令和の宗教ブームが来ない。少なくともキリスト教界隈は、コロナ騒動で手痛い「停滞」を余儀なくされた。ような気がする。少しは教会をサボりたいと思いつつ、何となく教会に行っていた者たちにとって、コロナ騒動は良い機会であったのかもしれない。
-
堕落とは人生の深掘りである(その3) マルコ福音書12章13~17節
税は皇帝から課せられたもの。罪はわれわれが積み重ねてきた神への負債。だとして、負債を返さないと、いろいろとペナルティーが課せられる。税金の場合は延滞税となる。利率は市中金利よりずっと高い。
-
堕落とは人生の深掘りである(その2) マルコ福音書12章13~17節
罪は神への負債であるとしたら、われわれは神に対して具体的にどのような借りがあるのだろうか。もちろん、そのようなことは昔から議論されてきただろう。今さら蒸し返すべきことだとは思わないが、とりあえず罪が負債であるという点に絞って考えてみよう。
-
堕落とは人生の深掘りである(その1) マルコ福音書12章13~17節
罪とは何であろうか。「人間は生まれながらに罪を背負っている。イエス・キリストはそのような罪人である人間をお赦(ゆる)しになり、お救いくださる唯一の方」と、まあこれに近いことを幼稚園の頃から教えられてきた。
-
犬も歩けば棒に当たる的な(その3)
イエスは来たのだ。あらゆる意味でイエスは来る。それは、光がわれわれに向かってくるがごとくである。実は、光を完全に遮断するのはかなり難しいことだ。夜になれば、少なくとも太陽の光は届かないが、それでも至る所に光はある。
-
犬も歩けば棒に当たる的な(その2)
祈るとはどういう事柄であろうか。と考えることはほとんど徒労かもしれない。なぜかといえば、われわれ人間は祈る存在であるからだ。むしろこのように言うべきかもしれない。「いったい人間が祈らなかった時代があるのだろうか」と。
-
犬も歩けば棒に当たる的な(その1)
私は船が苦手である。とはいえ、船旅は人生で何度か経験してきたわけであるが、神戸から松山までフェリーで一晩揺られたのが最長記録ではないかと思う。それが25歳の時だった。相当に大きな船で、恐らく1万トンくらいはあったはず。
-
義はゴールではない ローマ書5章考察(その4)
神を超えるのが人間の理想である。故にニーチェは偉いと思う。目標は高くあるべしだ。ところが、悲しいことに神を超えるといえども、その神がどれほどの高みにおられるのかについて、何とも人間は無知なのだ。分かっているようで、実は全く分かっていない。
-
義はゴールではない ローマ書5章考察(その3)
どういう経緯だったかは分からないとしても、ローマではかなり早い時期からキリストへの信仰を持ったグループがあったのだ。もちろん、パウロよりもずっと早く入信した人がいたであろうことも想像すべきことだ。
-
義はゴールではない ローマ書5章考察(その2)
「イエス・キリストによる神との平和」が、われわれに希望を与えるとパウロは言う。神との平和とは、何ともつかみようのない言葉ではある。私が思うに、真のグレイトな人間というのは、神との平和よりも、神に打ち勝つことを目指すのではないか。
-
義はゴールではない ローマ書5章考察(その1)
わが誇りはいずこにありや――。私は「グレイト」な人間になりたいと願っている。「ビッグ」ではなく「グレイト」である。大きいだけでは意味がないのだ。ダントツで褒めたたえられる人間になりたいのだ。自分磨きとはそういうものではないか。
人気記事ランキング
-
米保守派活動家で熱心なクリスチャンのチャーリー・カーク氏、イベント中に射殺される
-
キリスト教に回心したウィキペディア共同創設者、所属教会を発表
-
「聖書を読まなかったら、今の自分はない」 元ヤクザの進藤龍也氏と山崎純二氏が対談
-
イエスの統治を祝う祭典「ジーザス・レインズ」が10周年 ラップ賛美など新しい試みも
-
主につながり、人々を主につなげよう 万代栄嗣
-
篠原元のミニコラム・聖書をもっと!深く!!(244)聖書と考える「スティンガース 警視庁おとり捜査検証室」
-
新しい発見 佐々木満男
-
「苦しみ」と「苦しみ」の解決(12)「苦しみ」から「光」へ 三谷和司
-
シリア語の世界(32)シリア語聖書の人名・地名小辞典 川口一彦
-
ワールドミッションレポート(9月15日):アンギラ 静かなる島に迫る変化と教会の使命
-
米保守派活動家で熱心なクリスチャンのチャーリー・カーク氏、イベント中に射殺される
-
「世界で最も優しい裁判官」 フランク・カプリオさん死去、敬虔なカトリック信者
-
キリスト教に回心したウィキペディア共同創設者、所属教会を発表
-
「聖書を読まなかったら、今の自分はない」 元ヤクザの進藤龍也氏と山崎純二氏が対談
-
イエスの統治を祝う祭典「ジーザス・レインズ」が10周年 ラップ賛美など新しい試みも
-
石破茂首相が退陣表明、15年ぶりのクリスチャン首相
-
「信教の自由を脅かす」 旧統一協会の解散命令巡り特別集会、西岡力氏らが登壇
-
「苦しみ」と「苦しみ」の解決(12)「苦しみ」から「光」へ 三谷和司
-
新しい発見 佐々木満男
-
ワールドミッションレポート(9月15日):アンギラ 静かなる島に迫る変化と教会の使命
-
「世界で最も優しい裁判官」 フランク・カプリオさん死去、敬虔なカトリック信者
-
米保守派活動家で熱心なクリスチャンのチャーリー・カーク氏、イベント中に射殺される
-
石破茂首相が退陣表明、15年ぶりのクリスチャン首相
-
「信教の自由を脅かす」 旧統一協会の解散命令巡り特別集会、西岡力氏らが登壇
-
牧師を辞めた理由は? 元牧師730人を対象に調査 現役牧師や信徒へのアドバイスも
-
「聖書を読まなかったら、今の自分はない」 元ヤクザの進藤龍也氏と山崎純二氏が対談
-
ウェールズ聖公会、首座主教にレズビアンの女性主教選出 保守派からは強い批判の声
-
キリスト教に回心したウィキペディア共同創設者、所属教会を発表
-
「信仰の実践としてのスピリチュアルケア」 オリブ山病院で第3回臨床牧会教育
-
イエスの統治を祝う祭典「ジーザス・レインズ」が10周年 ラップ賛美など新しい試みも