貧民救済に命賭けて―山室軍平の生涯(9) 廃娼運動の火

2015年6月16日22時38分 執筆者 : 栗栖ひろみ 印刷

軍平は、救世軍本営において娼妓(しょうぎ)解放の運動を起こすことを提案した。そして、大佐プラードと少佐デュースと共にこの運動の先駆者モルフィを名古屋市南久屋町に訪ね、いろいろと必要なことを教えてもらった。それから、京橋区築地本願寺前に一軒の家を借り、それを「婦人ホーム」と名付け、機恵子を主事として、廃業した娼妓の世話をここで行うことにした。

いよいよ明治33年(1900年)8月1日。大尉の矢吹幸太郎率いる一隊が内藤新宿の遊郭に出かけたのを手始めに、次々と救世軍兵士たちが各地の遊郭に出て行った。矢吹たちは使用人に罵倒されたり、握りこぶしを突き付けられて脅されたりしたが、根気よく『ときのこえ』を配った。たちまちそれはめちゃくちゃに踏みにじられたり、わしづかみにして破られたりした。一方、新吉原に行った高城牛五郎たちも同じように遊郭の使用人に脅されたり、けんかを売られたりしたが、『ときのこえ』はよく売れた。なぜなら、遊郭の経営者たちが、娼妓の手に渡らないように買い占めたからであった。しかし、こうした救世軍の努力の成果が少しずつ現れ、新吉原の中米楼(なかごめろう)の霜降(しもふり)お雪という娼妓が助けを求めてきた。早速、機恵子が一人、新吉原に乗り込んでお雪と面会し、自由廃業の手順を教えた。

8月5日午後。各地の小隊が一つに合流して一気に戦いを開始することになった。この戦いに加わったのは、第4小隊神田分営の士官候補生である岡田誠一(おかだ・せいいち)、大島三郎(おおしま・さぶろう)、軍曹(ぐんそう)の冷水太郎(ひやみず・たろう)、田辺正一(たなべ・しょういち)、兵士の中田美次(なかだ・よしじ)、中学生の吉村某、第3小隊本郷分営の中尉である森雄吉(もり・ゆうきち)、士官候補生の森田年蔵(もりた・としぞう)、軍曹の野津壽重(のづ・ともしげ)、吉沢久重(よしざわ・ひさしげ)、兵士の滝内秀綱(たきうち・ひでつな)の11人であり、矢吹がその指揮を務めた。一行は太鼓をたたき、軍旗を立てて新吉原に進軍し、まず交番のある辻(つじ)で第一声を上げた。

「われわれは、日本における恥ずべき職業を撤廃するために来ました。遊郭を経営している人たちよ、たった今から気の毒な女性や少女をその職業から解放し、別の事業をお始めなさい。もっと日本人として胸を張れるような他の事業を!」

たちまち人々が集まってきて、面白そうに聞いていた。

「遊郭に働く女性のみなさん。この恥ずべき職業から解放される道があります。抜け出したいと思う人は、港区芝口2丁目3番地の救世軍本営まで来てください。救世軍は必らずあなたがたを救います」

娼妓たちは、格子から顔を出してこれを聞いていた。一行は『ときのこえ』を配ってから、今度は揚屋町(あげやちょう)に来た。そこに玉宝楼(ぎょくほうろう)という座敷があったので、矢吹たちは再び声を張り上げて演説した。すると、たちまち人相の悪い男たちが飛び出してきて、彼らに襲いかかった。彼らは遊郭に雇われた暴力団であった。

「このやろう、生意気なことをぬかしやがって」。こう言いながら、めちゃくちゃに殴ったり、蹴ったりし始めた。見物人が見かねて通報したので、警官がやってきて両方を浅草警察所に連行した。矢吹を先頭に、救世軍人たちはめちゃくちゃに破かれた太鼓や、へこんだラッパを抱えて、血だらけの姿のまま警察に行った。署長は彼らの姿を見て驚き、わけを尋ねたので、彼らは一部始終を話した。そして傷害の告訴をするかどうかと尋ねられて、こう答えた。

「われわれはこの人たちを少しも恨んではおりません。誰でも商売の邪魔をされれば怒りますから。私たちが戦う相手は社会の悪い制度です」

事件は次の日、「時事新報」をはじめとする各新聞に大きく取り上げられた。東京毎日新聞はほとんどの紙面をこの報道に割いた。そして非常に好意あふれる筆で、救世軍の行為をたたえ、この犠牲的精神は今までの日本の社会思想には見られなかったもので、愛国心と共に博愛の精神に貫かれたものであると報道した。このことから、救世軍は日本中にその名を轟(とどろ)かせることとなった。

救世軍の廃娼運動が始まると、各地の遊郭から廃業を志す娼妓たちが救世軍本営に駆け込んできて、これをめぐって遊郭側と真っ向から一戦を交えなくてはならなくなった。ある日、洲崎(すざき)の遊郭の娼妓、操(みさお)から救助の申し込みがあったので、軍平とデュースが出向いて行った。すると、門を入るか入らないかのうちに、暴力団が現れ、2人に襲いかかった。慌てて警官が駆け付けて、既に鼻血を出している2人を護衛しながら大門派出所まで連れて行こうとした。その途中、梅川楼(うめかわろう)の前まで来たとき、またもや待ち伏せていた暴力団が襲いかかり、殴ったり蹴ったりし始めた。緊急の連絡を受けて、派出所の巡査部長と巡査2人が加わり、2人を保護して木場町まで来た。

「このまま帰ってください。説得は無理です。相手はやくざですからね」。こう言って2人を帰そうとしたとき、14、5人の暴力団の男が現れ、手にこん棒や石を持って襲いかかった。3人の警官は必死になって騒ぎを静めようとしたが、たちまちあちこちの横丁から仲間たちが続々と現われ、軍平とデュースに石をぶつけたり、こん棒で殴り付けたりして重傷を負わせた。彼らは血まみれのまま病院に担ぎ込まれた。幸い命に別状はなく、3、4日で退院することができた。この時、彼らに同情した二六新報社の社員が新吉原の遊郭に出かけて行き、この社員も暴力団から暴行を受けて重体になるという事件が起きたことから、事態は好転し、警視庁第3部長である松井茂(まつい・しげる)が動き出した。彼は各地の遊郭の娼妓たちに廃業の意志があるかどうか確かめた上で、その気のある者に対しては即刻手続きを取ることを許可した。

10月2日。内務大臣西郷従道(さいごう・じゅうどう)の名で、内務省令第44号をもって娼妓取締法の改正が発布され、廃業の意志のある娼妓は楼主の印がなくても、あるいは届け出を書かなくても、出かけて行って口答で届ければ直ちに名簿から名が消されて自由の身になることができるようになったのである。救世軍人たちが血の雨を降らせたことは無駄ではなかった。そして、この人道的行為は海を越えて外国にまで知られるようになったのであった。(続く:結び

■ 貧民救済に命懸けて:(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(最終回)

栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)

1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(イーグレープ、2015年4月)がある。

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