ヘボンと日本語訳聖書誕生の物語(11)横浜アカデミー

2018年9月5日20時55分 コラムニスト : 栗栖ひろみ 印刷
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横浜に移ることを渋っていたヘボンだったが、新しい目標を与えられた今、横浜行きを申請した。大いに喜んだ神奈川奉行は、谷戸橋のほとりの一等地、39番地を斡旋した。

ヘボンは自ら居留地を測定し、自分で設計して住居を作ることにした。暮れも押し詰まった12月29日に家は完成した。彼は6畳幅の広い緑に囲まれた大広間を作り、そこを集会所兼診療所に割り当てた。成仏時の住居はバラ夫妻がそのまま使うことになった。

新居に移ってからも、奉行所から来た9人の高官は熱心に勉強をした。ヘボンは彼らの勤勉さに励まされる思いで、自分も講義に熱弁を振るった。

しかしながら、ある日突然9人は次々と呼び返され、公務に戻らなくてはならなくなった。大村益次郎は長州藩(現在の山口県)から「防禦事務用掛」に任命され、他のメンバーもそれぞれ新しい任務に就くために出発しなくてはならなかった。

「お召しがあったのでお別れでございます」。彼らはヘボンにあいさつをし、涙を流した。そして、英漢それぞれ1冊ずつ聖書をもらった。

「コレカラ ズットヨミツヅケテクダサイヨ。イツカ アナタガタノ ヤクニタチマス」。ヘボンはこう言って一人一人の手を握って送り出した。今は分からないかもしれないが、きっと今に福音の種は彼らの人生で芽吹く――そう彼は信じていた。

日本国内の情勢は一層緊迫し、暗いものになっていった。毎日のように恐ろしいうわさが耳に入ってくる。奉行所の番頭が親族に宛てて書いた私信をとがめられて切腹したとか、ある男が銭湯の中で幕府の政治批判をしたことが上の耳に入り、一家そろって拷問を受けたというような話もあった。

一方、イギリス政府は例の「生麦事件」の莫大(ばくだい)な賠償金を幕府に要求し、外交は困難な局面に陥っていた。幕府も追い詰められていたのである。

こんな時に、クララがアメリカから戻ってきた。ヘボンの家はぱっと花が咲いたようだった。クララはある計画を心に抱いていた。

彼女は帰るとすぐに20畳ほどの部屋を使って英語塾を開いたのである。たちまち若者たちが集まり、連日大盛況であった。クララの教え方も上手であったが、これらの若者たちはみな向学心に燃え、英語を学びたいという熱気がみなぎっていたのである。

その中には林董(ただす)がいた。彼は幕府の役人の相談役を務める佐藤泰然の末の息子で幼名を董(とう)三郎と言った。彼は幼い頃から英才教育を施されていたが、父が公使ハリスの人柄を褒めそやすのを聞いて、自分もハリスのような人になろうと思っていた。

ヘボン夫妻もこの少年を「トウザブロ」と呼んでかわいがった。やがて泰然が仕える堀田正睦がちっ居の身となると、泰然は佐倉から横浜に移り、運上所(税関)の宿舎に仮住居を始めた。そのうちにヘボンと親しくなり、彼の家に医学の話をしに来たりするようになった。

林董とは対照的に貧しい仙台藩の足軽の子、高橋和喜次(後の是清)も入門した。おとなしい鈴木六之助(知雄)と一緒であった。この2人は藩費給費生で、藩に長屋を借りてもらい、祖母が縫い直した古着で通った。クララの塾は活気に満ち、塾生の服部綾雄や石本三十郎はやがて日曜学校にも出るようになる。

不穏な社会情勢の中で、日本の若者たちはがむしゃらに学び始めていた。明日知れぬ命と分かっていても、本を読み、知識を吸収せずにいられない時代だった。

幕府が設けた研究機関も、洋学所から藩書調所、洋書調所、そして開成所と発展し、充実した教師たちをそろえていた。学生も幕府の役人の子ばかりでなく、広く一般からとるようになった。また、出版事業のほうでも、『英吉利(イギリス)文典』のような書物を印刷刊行するまでに進歩した。

1862(文久2)年。運上所(税関)の一室を借りて、かねてからヘボンが計画していた英語学校が開かれた。ブラウンとバラが授業を受け持ち、ヘボンも診療の傍ら、時間割りの一部を担当した。

この学校はただ英語を教えるだけでなく、宗教や哲学、科学などを含むあらゆる学問が含まれていた。時としてクララも塾の男子組をバラ夫人に任せて手伝いに来ることがあった。

奉行所でもこの学校でキリスト教の教理が語られることを知っていたが、日本の若者の語学力向上のために黙認し、礼金すらくれたのであった。この英語学校は大変に評判になり、「横浜アカデミー」と呼ばれた。

生徒はすぐに30人を超え、その中には大鳥圭介、星亨のほかに三井物産の祖となる益田孝、横浜毎日新聞の主幹となる沼間守一、ローマ字学者となる田中舘愛橘(たなかだて・あいきつ)などがいた。役人の子弟も少なからずおり、当時17歳であった安藤太郎は後に深い思いをもってこの英学校を回顧している。

<あとがき>

ヘボンをはじめとする宣教師たちとその夫人が「英語学校」を開いたことは、福音を日本に伝えるこの上ない方法でした。まずヘボンの妻クララがアメリカから帰国すると、彼女は英語塾を開きました。

すると、これを中心に、ヘボンとブラウン、バラたちは横浜の運上所(税関)の建物の一室を借りて、「横浜アカデミー」と称する社会人のための学習塾を開いたのです。この頃の日本の若者たちの知識欲は旺盛でした。

彼らは不穏な社会情勢の中で、がむしゃらに学び始めていたのです。そして、奉行所から来た9人の若い高官たちの何人かが漢文の聖書を持っていたことにヘボンは驚き、若者たちの中に福音の種が育つ可能性を確信したのです。

宣教師たちはこの「横浜アカデミー」で英語や他の学問を教えながら、少しずつ日本人を国際人として育てていきました。クララの英語塾に来ていた少年たちの中からも、後の明治を背負う立派な人材が多数生まれたのです。

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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)

1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。その他雑誌の連載もあり。

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