パウロとフィレモンとオネシモ(24)「キリストに根を下ろす」―植物の成長を用いたもう一つの表現― 臼田宣弘

2020年9月17日10時11分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷

本コラムは、「フィレモン書」(真性書簡)「コロサイ書」(擬似書簡)「エフェソ書」(擬似書簡)という、パウロとパウロの弟子たちによって書かれたとされる「一つの系譜」にある諸書簡を、コロサイ書の著者はフィレモン、エフェソ書の著者はオネシモと見立てて、その視点から各書を読んでいくものです。今回は、コロサイ書2章6~7節を読むことにいたします。

6 あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。7 キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。

第22回において、コロサイ書2章27節で「あなたがたの内におられるキリスト」(内住のキリスト)と言われていることは、ヨハネ福音書15章5節の「人がわたし(イエス・キリスト)につながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と同じ意味ではないかと申し上げました。また、第18回でお伝えしたことですが、ヨハネ福音書15章5節の「実を結ぶ」は、コロサイ書1章10節の「実を結ぶ」と同じことを意味していると思えます。その意味では、コロサイ書もヨハネ福音書も、「イエス・キリストにつながって実を結ぶ」ということを伝えているわけです。

「イエス・キリストにつながって実を結ぶ」とは、イエス・キリストに対する信仰によって成長させられることを、植物の成長を用いて表現しているもので、聖書に特徴的な言葉ではないかと考えています。新約聖書の福音書・書簡ともに、多く見られる表現です。それに比べて、数的にはそれほど多くないものの、やはり植物の成長の表現である「根を下ろす(ベバイオオー / βεβαιόω)」という言葉も見られます。例として、第1コリント書1章6~8節を見てみます。フランシスコ会訳から引用させていただきます。

6 キリストについての証しが、あなた方のうちにしっかりと根を下ろしたので、7 その結果、あなた方は、神のどのような賜物にも欠けるところなく、わたしたちの主イエス・キリストの出現を待ち望むようになっています。8 神も、あなた方を最後までしっかり支えて、「わたしたちの主イエス・キリストの日」に、咎められるところのない者にしてくださいます。

6節に「根を下ろした」とあり、これはベバイオオーなのですが、8節の「しっかり支えて」もベバイオオーです。「神も、あなた方に最後まで根を下ろさせることによって」と翻訳してもよいでしょう。植物の成長を用いた信仰成長の表現である「キリストにつながって実を結ぶ」ということを、「キリストに根を下ろす」と言い換えているといってもよいのではないかと思います。

今回のコロサイ書2章7節には「キリストに根を下ろして」とありますが、これもヨハネ福音書の「イエス・キリストにつながって実を結ぶ」と同じ植物の成長による言い表しであり、その意味するところは同じことではないかと思います。ただ、枝や実は地上のことであり、根は地下のことです。枝や実は見えますが、根は見えません。しかし植物は、根を下ろしていなければ水を吸うことはできず、実を結ぶこともできません。

私はこの2つのことから、マタイ福音書5章13~14節に記されているイエスの言葉「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」を連想します。「世の光」は人々によく見えますが、「地の塩」は見えるものではないでしょう。信仰者としての歩み、特にフィレモン書、コロサイ書、エフェソ書を貫く「善い業(アガソス / ἀγαθός)」には、見える部分と見えない部分があるということです。そのことから私たちは、「善い業」とは、人に見られるからそれをするというものではなく、「十字架にかかって死なれたイエス・キリストに倣う行い」であることを再確認します。

さて、「根を下ろして」に続く「造り上げられ」のギリシャ語の原型は「エポイコドメオー / ἐποικοδομέω」であり、これは「建てる(オイコドメオー / οἰκοδομέω)」の複合語です。ギリシャ語釈義辞典でも「建てる(オイコドメオー / οἰκοδομέω)」の項目に置かれています。「建てる」が使われている聖句で私が連想するのは、マタイ福音書7章24~25節に記されているイエスの言葉です。

24 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。

「岩の上に家を建てる」を、コロサイ書では「キリストに根を下ろして造り上げられる」としているようにも思えます。「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」=「岩の上に自分の家を建てた賢い人」=「キリストに根を下ろして造り上げられた人」=「善い業(アガソス / ἀγαθός)を行う人」という図式が作れるのかもしれません。

ところで、「造り上げる(エポイコドメオー / ἐποικοδομέω)」は、同系譜の書簡エフェソ書においても、2章19~21節で次のように使われているところが興味深いところです。詳細は、本コラムでエフェソ書を取り上げる際にお伝えする予定ですが、今回は聖句だけを掲載しておきます。

19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者という土台の上に建てられ(エポイコドメオー / ἐποικοδομέω)ています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

コロサイ書の「キリストに根を下ろして造り上げられる」、エフェソ書の「かなめ石をイエス・キリストご自身として使徒や預言者の上に建てられる」。何とも共通性のある言葉ではありませんか。

さてこの手紙は、「キリストに根を下ろして造り上げられる」ことによって、誤った教えに対処するように勧められていきます。次回以降、そのことを読んでいきたいと思います。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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