教会主催の映画会にこんなのはいかが?(1)「優等生」映画からの脱却を 青木保憲

2017年10月26日07時07分 コラムニスト : 青木保憲 印刷
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+映画「沈黙」はクリスチャンにとってどんな意味を持つのか
「沈黙-サイレンス-」配給:KADOKAWA Photo Credit Kerry Brown

教会が伝道企画として行ってきた王道3大イベントといえば、「コンサート」「英会話」、そして「映画会」だろう。特に映画会は、規制が多いという煩雑さはあるものの、やはり根強い人気を誇ってきたと思う。

私も小さい頃から、このような映画会でいわゆる「キリスト教系クラシック作品」を鑑賞してきた。最も見た回数が多いのが、三浦綾子原作の「塩狩峠」。次いで「炎のランナー」か。あとは「海嶺」「ベン・ハー」「十戒」「天地創造」などであろう。

子どもの頃から常々思ってきたのだが、どうして教会の映画会はマイナーで古めかしい作品しか上映しないのだろうか。それらは作品の質として決して悪いわけではないが、おしなべて同世代の友達が魅力を感じられないもの、言い換えるなら教会員以外の方の集客があまり見込めないものばかりのような気がしている。

最近は、シネコンが浸透したせいだろうが、従来のマイナーなキリスト教映画も劇場でかかるようになっている。一方、聖書やキリスト教ネタの大作(「ノア」「エクソダス」「沈黙」など)が最新作として上映されるようになってきたため、それに教会を挙げて一緒に見に行くという新たな「映画会」スタイルも生み出されている。

しかし、教会で開催される映画会は継続されるべきだろう。なぜなら、映画館へ行くということは、それなりの時間とお金を使う余裕のあることが前提となる。そして、ここが最大のポイントなのだが、そのような最新映画(特にハリウッド作品)の場合、こちらが意図する「キリスト教伝道」に逆行する内容であることが多い。すると、見に行った方々は大いに戸惑うことになる。映画「ノア」を見に行って、主人公ノアの〇〇ぶりに戸惑いを感じられた方は多いのではないだろうか。

必要なのは、その映画を解説し、まとめ、そして鑑賞した方々に考えやすくポイントを提示する「コーディネーター」の存在である。

しかし、このコーディネーターは、説教臭くなく、相手に考えさせることを主眼に置かなければ務まらない。正しいことを「ほら、こんなに正しい生き方ですよ」と提示するだけでは、しかもそれを熱く語られるだけでは、なかなか本人が福音について自発的に考える機会にはならない。

次いで重要なのは、どんな映画を選ぶか、である。どうしても「伝道企画」となると、イエス・キリストの素晴らしさを「素晴らしいでしょ」と訴える内容であったり、「キリスト教はこんなにすごい教えですよ」と上から投げ掛けるようなメッセージであることが多い。

確かに教会に続けて来ている方で、あと少しで受洗するという方にとってはそれもいいだろう。しかし、ほとんどの不特定多数の、教会やキリスト教にほとんど興味を持っていない方が映画会に足を運ぶとしたら(または、そういった方にこそ教会に興味を持ってもらいたいと願うなら)、正しいことを正しいと伝えるだけでは、最も伝えたいことが伝わらないのではないだろうか。伝道的な映画会には、いわゆる「ひねり」が必要なのである。

では、「ひねり」とは何か。逆説的だが、「正しくないもの」を見せることであると私は考えている。日本人である私たちが「ある、ある」とリアリティーを感じるくらい身近な「恐怖」であったり、何気ないことの積み重ねの果てにあらわにされる「異形」であったり・・・。そんなひたひたと迫りくるような作品を用いることである。

確かに、教会は「清く、正しく、美しく」神の道を歩むための場所である。だから、目標とすべき正しさや清さを、聖書物語や歴史上の人物から学ぶという姿勢は必要となる。だが、映像という伝達媒体は、正しさよりも悪しき姿を客観的に見せることに適しているように思う。物語上の人物が悪の姿をさらす。それをスクリーン(または液晶画面)のこちら側で鑑賞している者たちが、いつしか自分の内面にも同じ「悪」を発見する、というプロセスをたどるとしたらどうだろうか。

一方、正しい姿を見せつけられ、その神々しいまでの清廉潔白さと自らの姿を比べるとき、多くの人は「とても、ああはなれないよな」と距離感を抱いてしまうのではないだろうか。

実際に、そういった声があった。

私が毎週楽しみにしているラジオ番組に、(およそ牧師らしからぬが)「ライムスター宇多丸のムービーウォッチメン」というものがある。さまざまなジャンルの映画を30分くらいかけて評論するコーナーだが、その中で「ソウルサーファー」が取り上げられた回があった。

本作はご存じの通り、サーフィン好きな少女がある時、サメに腕を食いちぎられてしまう。それでも、彼女は家族の愛に支えられ、また自身の信仰(キリスト教)に堅く立つことで再起を図るという物語である。多くの教会では、これを例話に用いたり、上映会をしたりしたことだろう。私も見て、なかなかの出来だと感動したことを覚えている。

しかし、ラジオの中で宇多丸は、私たちとは異なる見解を述べていた。それはアーカイブの14分50秒あたりから始まる。本作の主人公が片腕をサメに食われても文句も言わずに神に祈って再起を果たす、という展開に「あまりに優等生すぎる。実話であるなら、なおのこと、私たちとは住む世界が違うように感じる」と述べている。

この感覚をきちんと掬(すく)い取る映画会を企画しなければ、と私は思う。なぜなら、映画に足を運ぶ多くの一般的な日本人は、それほど大きな悩みを持っていないか、または持っていてもそれをおいそれとは吐露しない生き方を旨としている。こちらから彼らの心の扉をノックしても、キリスト教が「清く、正しく、美しい」ものであればあるほど、彼らはかたくなになっていく。宇多丸の「優等生」発言は、確かにキリスト教の聖性を高めることにはなるだろうが、「清い水には魚は住まぬ」という逆説的な世界を生み出してしまう危険性を端的に指摘しているとも言える。

考えてみると、どうしてイエス・キリストは「まったき人」としてこの地に来られたのか。それは「人々を救うため」である。人間を救うとき、その対象世界を100パーセント生きることで、私たちとイエスとの共通性が生み出されることになる。これがなければ、グノーシス的な「仮言論的キリスト」に堕してしまう。清いものがまったく霊的な存在で、肉体を持った悪しき存在とまったく接点がないとするなら、どうして悪しき者を引き上げ、救い出すことができようか。

同じ論理である。映画会、特に伝道集会の一環として行われる映画伝道会であるなら、この世の人間の葛藤、苦難、そして客観的には愚かとしか見えないさまを取り上げた作品を選ぶのも一案としてあるのではないか。

その後、映画の解説をすることによって、実は希望の光が間近に灯(とも)されているのだ、と来会した本人に気付かせるような流れにしてはどうだろうか。

次回、そのような作品を幾つか取り上げ、ユース、大人とに分けて述べてみたい。

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青木保憲

青木保憲(あおき・やすのり)

1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。

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