あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。(出エジプト20:4)
「偶像を造る」という言葉が、「偶像を刻む」とか「偶像を鋳る」という言葉で表現されることもあります。私はこれらの言葉を見たときに、少し安心したことがありました。私は不器用ですので、固い木に彫刻をするようなこともないし、鋳物を造る技術も持ち合わせていないから、偶像を鋳るなんてことはあり得ないだろうと単純に考えていました。
ところが、ヘブル語に詳しい方のお話を聞いて考えを改めることになりました。バビロニア捕囚から帰還したユダヤ人たちは旧約聖書の編さんに取りかかり、いわゆる七十人訳といわれるギリシャ語訳も出来上がりました。この時の翻訳が、旧約聖書の構成の基本になったといわれます。
七十人訳で「偶像を造ってはならない」という言葉に定着したらしいのですが、元々のヘブル語に忠実であるなら「あなたの心に偶像を刻んではならない」とした方がいいというのです。手先で造るというのでなく、心に刻むというのであれば、どんな形でも自由に刻むことができます。心の中に神様よりも大切だと思うものを置いてはいけないという意味もあるそうです。
米国の教会から日本に視察旅行に来ていたグループを、京都に案内したことがあります。せっかくの日本訪問ですから、古都観光を楽しんでもらおうと企画しました。ほとんどの方は喜んでくださったのですが、寺社仏閣を回ってもほとんどが偶像ばかりだからあまり気分が良くないと言って、バスから降りて来ない人がいました。どうすればいいのか分からず戸惑ってしまいましたが、ほとんどの参加者は、仏像といっても芸術作品だし、美術品として鑑賞すればいいんだという感じでした。
中東から来たイスラム教徒が、日本の仏教徒は偶像礼拝をしていると言いますので、それを和尚さんに伝えました。そうすると和尚さんは烈火のごとく怒り、「自分たちは偶像礼拝なんかしていない。仏像は一つの目印として置かれているのであって、仏像を拝んでいるのではない。仏像の背後におられる方、宇宙の支配者を拝んでいるのだ」というのです。
また神社に行きますと、神社ごとに御祭神が違いますので、何とたくさんの神々がおられるのかと外国の人は驚いてしまいます。神道の考えでは、死んだ人は神になるといいます。古代日本の総人口は800万と推測されていましたので、八百万(やおよろず)の神と表現されていました。しかし、御祭神として神社に祭られているのは、尊敬されている天皇や功績のあった指導者などです。
一説によると古代ユダヤ教をもたらした渡来人の影響を受けて神道が誕生したといわれます。ですから、古代神道は一神教だったといわれます。なぜ多神教になったのか不思議ですが、御祭神とは聖人のことで、本当はその背後におられるアメノミナカヌシノカミを拝んでいるのだと解釈すると納得できます。
神社では参拝するとき、二礼二拍となっていますが、これは古代の人々が偉い人に会うときのあいさつの仕方だったといわれています。昔のあいさつのマナーが今日の参拝に引き継がれていることからも、御祭神の立ち位置が分かるような気がします。
出エジプトの後、荒野をさまよっているときに主がイスラエルの民に語られたことが、日本のことを指しているのではないかと思われる聖書箇所があります。「主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える」(申命記28:64)
聖書の御言葉に出会い、少し頭を働かせると、木や石で作ったものは神ではないと理解できます。しかし、私たちに取り付いていて、なかなか離れようとしない厄介な偶像に警戒しなければなりません。それは私たちの心のスクリーンに映し出される偶像です。
「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行っていることを見たか」(エゼキエル8:12)とあります。「暗い所、その石像の部屋」とは心のスクリーンのことです。そこに何が映し出されているでしょうか。欲望にまみれた思い、汚れた思い、嫉妬の情念でしょうか。神の御心を差し置いて、自分の人生を狂わすかもしれない偶像に惑わされていませんでしょうか。
他人が作った偶像がいくら私たちの回りにあったとしても、それは一つの景色に過ぎません。私たちの魂をゆがめるのは、自分自身が作り出した偶像なのです。だから、「偶像を造ってはならない」と十戒の中に定めてあるのではないでしょうか。
あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。(1ペテロ4:3)
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