宗教がカルトに変わるとき

2019年1月7日15時55分 執筆者 : 溝田悟士 印刷
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+オウム真理教
住民によるオウム真理教の追放運動(写真:Abasaa)
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「教会に行ってらっしゃるそうですが、どうして宗教なんか信じているんですか」

こんな問い掛けをよくされます。本当に熱心な人ならば、いろいろと答えられるのでしょうが、私はダメです。別に熱心でないというわけではないのですが、これといった理由が見つからない、というか説明ができるような回答がないのです。信じるようになったきっかけは、ある意味では答えられるかもしれません。人に聞けば、言いづらそうにこう答えてくれるでしょう。「両親が教会に通っているから」「出身がミッションスクールだったから」「悩み事があったから」「牧師の元に相談に」・・・。

宗教を信じるようになるきっかけというのは、本当に多くあると思います。でも「きっかけ」それ自体は非難も否定もできないのではないか、と思います。例えば、「おまえは弱いやつだから宗教なんか信じてしまったんだ」という意見をよく聞きます。どうでしょうか。私には、弱い人ばかりが宗教を信じているとは思えません。私自身は自分の宗教をしっかり勉強するまでは、自分が弱いなんて感じたことはありませんでした。

確かに弱かったから信じてしまったという人もいるかもしれません。しかし、人間にはいろいろな人がいますから、単純に弱いからといって非難はできないのではないでしょうか。どちらかといえば、その人が弱くなる原因をこしらえた社会環境や制度が悪いのだと思います。その人そのものが悪いことはないでしょう。つまり、人間が宗教を求める「きっかけ」などは別段悪いものではない、さらに言えば「たまたま信じちゃった」ぐらいのものではないか、とさえ思います。

私は、なぜ自分の宗教を信じているか理由が見つからないと言いました。つまり私がなぜ教会通いを続けているのか、はっきりと説明しづらいのです。親が宗教を信じていようが、出身校が何であろうが、宗教をやめることもできるはずです。宗教を信じて、うまく悩みなど解決できたのであれば、お礼に寄付でもしたら、後はさっさと忘れてしまってもいいはずです。実際、やめていく人も多いと思いますが、でもそれよりはるかに多くの人がなぜ宗教を信じ「続ける」のでしょうか。

あれだけひどい事件をオウム真理教が犯してから20年以上がたち、昨年には教祖の麻原彰晃(本名・松本智津夫)ら幹部13人の死刑が執行されました。しかし、教団はすでに存在しないものの、後継の宗教団体は存在し、一定数の信者がいます。私は、こうした人たちの存在について分からないでもないな、と思います。

よく「宗教を信じるのは人生の意味を見つけるため」とか、「自分の救済を信じるため」とか言われますが、それだけが宗教を続けさせる要因でしょうか。そこでの人間関係や、その宗教の荘厳な雰囲気、一般世間から離れた孤高な気持ちになれるなど、宗教から離れさせなくさせる要因も他に多くあります。しかし、オウムのような強い反社会的宗教に固着するのには、それ以外にも何かがあると思います。

私は、それは「恐怖」と「正義感」なのではないかと考えます。終末観や地獄の存在など、宗教が恐怖心をあおる場合があります。「この宗教を離れたら、悪いことが起こるのではないか」とか、「地獄に落とされるのではないか」という感覚を持たせるのです。普通の宗教にも、そういった恐怖心をもたらすものはありますが、その宗教が反社会性を帯びてくる場合には、そうした恐怖心が「利用」され、教団の組織固めが行われるのではないか、と思うのです。

また宗教はある意味、「正義感」を利用します。宗教の慈善活動などは、信者の正義感に基づいてなされていると思います。しかし、その宗教の提示する正義「観」と社会一般の正義「観」がずれることもあります(このこと自体は問題ではないと思います。戦争中、多くの人が戦争に勝つことに希望を馳せていた時代、反戦の精神を貫いた宗教者も多くいました)。

そして、宗教が反社会性を帯びてくるとき、この正義感が「思いこみ」になってしまうのではないか、と私は考えるのです。信者がたとえ「来世」を信じているとしても、現実に今、信者と教団が存在しているのはこの「現世」です。つまり、自分たちが信じる正義があったとしても、現実にそれを行う場としては現世しかなく、その正義が本当に試される場はこの現世なのではないか、と思うのです。

もし宗教を信じていたとしても、この現世の中に自分がいる、という実感がなくなっているのなら、宗教を信じる者自身が人を裁く「神」の立場に立っているのなら、それは「思いこみ」でしょう。むしろ現世と共に、宗教を信じる者自身も、その信じる神によって裁かれるはずなのです。現世に対し終末を説き、滅びを説くのなら、自身もその中に生活しているのだということを実感しつつ、説かねばならないと思うのです。

こうして見てくると、「恐怖」心が「利用」されることや、「正義感」が「思いこみ」に変えられることは、その宗教の単なるエゴだといえます。もし「カルト」という言葉を使うのなら、教団が、あるいはその信者自身が、自分の教団を、あるいはその主張を守るためにエゴをむき出しにした状態を「カルト」というのではないでしょうか。ですから、宗教のすべてが「カルト」ではないのです。

でも「私の宗教はカルトではない」と言い切れるでしょうか。確かに私の信じているキリスト教は、宗教としてはカルトではないでしょう。しかし、聖職者や信者自身が自らのエゴのためにキリスト教を使うのなら、また、教団がその権威の失墜を恐れて意地を張りエゴを通すなら、キリスト教ですらカルトになりかねません。私の信じる宗教の過去にも、(あるいは現在においてもかもしれませんが)、苦い歴史があります。また私自身の信仰の中にも、もしかするとそうした「カルト」の心があるのかもしれません。

もっと言えば、宗教だけがカルトであり得るのでしょうか。たとえ宗教でなくても、私たちの社会にはただ盲目的に正しいと信じさせられているものが多いのではないでしょうか。「オウムが悪い、宗教が悪い」というのは、誰でも言えるのです。しかし、オウムの成長を許したのは私たちであり、もしかするとオウムを生み出したのは、私たちのそうした「オウムが悪い、宗教が悪い」と、ただ単に盲目的に正しいと信じている無責任なエゴなのではないでしょうか。

溝田悟士

溝田悟士(みぞた・さとし)

1976年広島県生まれ。愛知大学大学院国際コミュニケーション研究科修士課程修了後、広島大学大学院総合科学研究科博士課程後期修了。オランダ・ユトレヒト大学言語学研究所客員研究員、広島大学大学院総合科学研究科研究員などを歴任。専攻はテクスト言語学・歴史学。著書に『「福音書」解読 「復活」物語の言語学』(講談社)。

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