本文での聖書の引用は新改訳聖書第三版を使用し、そうでない場合は、その都度聖書訳名を表記する。ただし、聖書箇所の表記は、新改訳聖書第三版の表記を基に独自の「略語」を用いる。
前書き
前回は、「苦しみ」から「光」へということで、避けられない「苦しみ」の現実と、「苦しみ」の先にある神の「光」について述べた。それは、次のようなことであった。
イエス・キリストを信じる者は、既に神に捕らえられた者であり、「死」から「いのち」に移されている――「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)――。つまり、「永遠のいのち」を持っている――「信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)――。ところが、その事実を「この世」の「見える安心」が覆い隠している。
そこで、「神の愛」は「見える安心」を剥ぎ取ろうとする。しかし、キリスト者はそれを手放せないので抵抗する。ここに「苦しみ」が生じる。それは避けられない「苦しみ」である。だが、いくら抵抗しようとも「神の愛」の方が強いので、少しずつ「見える安心」が剥ぎ取られていき、キリスト者が持っていた「永遠のいのち」の「光」が少しずつ輝き始める。
すなわち、「苦しみ」は避けられないが、それは「神の愛」が「見える安心」を剥ぎ取ろうとして起きるものであり、最終的には全てが剥ぎ取られて「光」に至るのである。それが、死後の復活である。まさしく、「苦しみ」の中で輝く「光」である。
以上が前回のコラムであったが、そこで重要だった点は、その「光」とは、神から与えられた「永遠のいのち」であるということである――「あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(1ヨハネ5:13)――。ただしそれは、肉の目では見えない。「信仰」の目でしか見ることができない。
そこで今回は、「信仰」で「光」が見えるようになる様子を具体的に見ていく。題して「『光』は『信仰』でしか見えない」であり、これは第1章「信仰の道」と、第2章「脱出の道」から成る。
第1章「信仰の道」
「光」は「信仰」でしか見えない。その「信仰」は、「苦しみ」の中で芽生える。ここでは「信仰」が芽生える道を見てみたい。最初は、「信仰」の役割からである。
1.「信仰」の役割
キリスト者は「永遠のいのち」の「光」を持っている。ならば、何によって「永遠のいのち」の「光」は見えるのか。それは「永遠性」であるため、「有限性」の世界を見る目では見えない。そこで神は人に、「永遠性」のものが見える目を与えてくださった。それが「信仰」なので、聖書はこの「信仰」の役割を次のように教える。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブル11:1、新共同訳)
「信仰」とは、「見えない事実を確認すること」とあるが、その事実はキリストを信じている者は死からいのちに移されていて――「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)――、「永遠のいのち」を持っているということである――「信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)――。
しかし、その「信仰」には覆いがかかっている。それが「見える安心」である。そのため、「神の愛」が覆いを剥ぎ取り、「光」を見えるようにしてくださる。けれども、「見える安心」を剥ぎ取られる際、キリスト者は抵抗するので「苦しみ」を覚えるのである。だが、いくら抵抗したところで、「神の愛」が勝るので、覆いは取り除かれていく。すると、「信仰」によって「光」が見えるようになる。約束のものをはるかに見て、喜ぶようになる。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが(肉の目で見ることはなかったが)、はるかにそれを(永遠のいのち(神の国)を)見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13 ※括弧は意味を補足)
このように、「信仰」の役割は、持っている「光」を見ることにある。その「信仰」は、神の呼びかけから始まり、キリストを信じる「信仰」を経て、キリストを信頼する「信仰」へと向かう――「信仰に始まり信仰に進ませる」(ローマ1:17)――。その成長に伴い、「光」がよく見えるようになる。そして、「信仰」の成長を支えているのが、「見える安心」が剥ぎ取られる「苦しみ」である。それで聖書に、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました(信仰が成長したということ)」(詩篇119:71 ※括弧は意味を補足)と書かれている。
そういうわけで、キリスト者は、キリストを信じる「信仰」だけでなく、キリストを信頼する「信仰」を芽生えさせるために、「苦しみ」をも賜ったのである。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。(ピリピ1:29)
その「苦しみ」に出会える一番の道が、キリストが歩まれた道である。それで聖書は、キリストに倣うことを教えている。では、ここからが「信仰の道」の話になる。
2. キリストに倣うこと
神は人の姿となって来られた。その方がキリストである。
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ2:6〜8)
人として地上に来られたキリストは、「神の律法」の現実を、すなわち神を愛することの模範を示してくださった。その神は「永遠性」であるから、神を愛するとは、「永遠性」を否定する「有限性」の世界を手放すことを意味する。「火」と「水」が同居できないように、「永遠性」と「有限性」も同居できないので、「永遠性」の神を愛するなら、「有限性」のものは捨てなければならない。つまり、誰も、2人の主人に仕えることはできないのである――「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません」(マタイ6:24)――。
こうして、キリストは「永遠性」に生きた。しかし、「この世」は「有限性」なので、「永遠性」に生きるキリストを受け入れられなかった。そのため、キリストは「この世」から憎まれ、迫害されるという「苦しみ」を背負うことになった。
これこそ、キリストが歩まれた道であり、それがそのままキリスト者が歩む道となる。なぜなら、キリスト者はキリストに捕らえられた者なので――「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」(ピリピ3:12)――、キリストが歩まれた道しか歩めないからである。それ故、キリストは、ご自分のことを「わたしが道であり」(ヨハネ14:6)と言われた。聖書も、その道を拒まず(抵抗せず)、キリストに倣うことを教えている。
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。(1コリント11:1、新共同訳)
しかし、キリストが歩まれた道は「有限性」のものを、すなわち「この世」で手にした「見える安心」を手放す道であった。それはキリスト者にとって、とてもできることではないので、「苦しみ」を覚えるのである。それでも、それがキリスト者の歩める唯一の道なので、神は容赦なく「見える安心」を手放すことを要求する。そこには一切の妥協がない。
これについては、アブラハムを見ればよく分かる。なぜなら、神はアブラハムに対し、彼の「見える安心」であった愛する息子、イサクを神にささげるように命じたからである――「イサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)――。
このように、神は徹底して「見える安心」を手放させ、キリストに倣う者にさせようとする。そこには一切の妥協がない。そうなると、一体誰がそのような厳しい要求に応えられるというのか。完全に応えることなど誰にもできないので、罪の意識を覚えるしかない。これこそ、キリストに倣う者となるようにと神が命じ、神が意図的に人に背負わせた「苦しみ」であり、この「苦しみ」が、神を信頼する「信仰」を芽生えさせるのである。
いや、それは表面的な話である。正しくは、こういうことである。
アダム以来、人は死んだ者となり――「アダムにあってすべての人が死んでいるように」(1コリント15:22)――、「苦しみ」の中にいる。人は元来、神の「永遠性」に属する者なのに、それがアダムの罪に伴い、「有限性」に属するようになり、「苦しみ」の中にいる。それを、「神の愛」が再び「永遠性」に属する者として、容赦なく引き上げてくださるからこそ、「有限性」に属していた「苦しみ」に気付けるようになるのである。その「苦しみ」こそ、神が意図的に背負わせた罪を意識する「苦しみ」の正体である。
つまり、神が人を苦しめているわけではない。ただ、「苦しみ」の中にいる自分に気付かせているに過ぎないのである。その目的は、神を信頼する「信仰」を芽生えさせるためである。
3. 神を信頼する「信仰」
神は、「見える安心」を手放すようにと、容赦なく要求される。その理由は、キリスト者は「この世」に対し、既に死んでいるからである――「あなたがたはすでに死んでおり」(コロサイ3:3)――。既に神に捕らえられ、「死」から「いのち」に移されているので――「死からいのちに移っているのです」(ヨハネ5:24)――、これまでの「見える安心」は、本人は気付いていないだけで、ちりあくたになっているからである――「ちりあくたと思っています」(ピリピ3:8)――。
しかし、その事実に覆いがかかり――「彼らの心にはおおいが掛かっているのです」(2コリント3:15)――、キリスト者は、「この世」に対して死んでいることに気付けないでいる。そこで神は、容赦なくキリスト者を責め「苦しみ」を覚えさせる。そのことで、どうにもならない死の「苦しみ」の中にいる自分の限界に気付かせ、神により頼む者にするのである。
こうして、心が主に向くなら、その覆いは取り除かれる――「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(2コリント3:16)――。これについては、パウロが次のように証ししている。
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。(2コリント1:9)
パウロは、死を覚悟するほどの患難に遭ったことで、自分の中にあったどうにもならない死の「苦しみ」に気付き、「神により頼む者」になれたと言う。それは、「苦しみ」によって自分の中の限界に気付き、自分の「弱さ」を神の前で認めることができたということである。
これが、神を信頼する「信仰」であり、それは「弱さ」のうちに働く神の恵みに他ならないので、パウロは、「主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです」(2コリント12:9)と述べている。
そして、「弱さ」のうちに働く神の恵み、すなわち神を信頼する「信仰」が、「神の言葉」を堅く信じさせてくれる。「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」(ローマ4:21)。それによって、「この世」に対して死んでいる自分に気付くことができる。例えば、次の「神の言葉」によって気付くことができる。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)
このように、私たちはキリストに倣うことで「苦しみ」に襲われ、「見える安心」を手放せない「弱さ」に気付かされる。その「弱さ」が、神を信頼する「信仰」を芽生えさせてくれるのである。それにより、「この世」に対して死んでいる自分を、すなわち新しくなった自分を知ることができる。これが、「信仰」によって「光」を見るということであり、「永遠のいのち」を見るということである。そして、神を信頼する「信仰」は、神に委ねる「信仰」へと向かう。
4. 神に委ねる「信仰」
キリスト者は「死」から「いのち」に移されてはいるが、肉の体が滅び復活するまでは、その現実を見ることができない。それまでは、鏡におぼろに映った自分を見ているようなものである――「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(1コリント13:12、新共同訳)――。復活するまでは、人は滅びに向かう「闇」の中にいて、すなわち「死」の中にいて苦しんでいるのである。
その「苦しみ」は普段、この世の評判や富といった「見える安心」で覆い隠されているので、キリスト者に限らず、誰もがその「苦しみ」に気付かない。そこで、神はキリスト者に対しては、「見える安心」を手放すように律法で要求し、「死」という「闇」の中で苦しんでいる自分に気付かせようとされる。
この苦しんでいる人の姿を、聖書は「死の恐怖の奴隷」という――「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々」(ヘブル2:15)――。しかし、律法の要求にキリスト者は、完全には応じられないので、ここに意識できる罪責感の「苦しみ」が生じる。これが、神がキリスト者に意図的に背負わせた「苦しみ」であり、神はそれを足がかりに、「死の恐怖の奴隷」となって苦しんでいるみじめな自分に気付かせるのである。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから(死の恐怖の奴隷から)、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24 ※括弧は意味を補足)
みじめな自分に気付けば、どうにもならない自分の限界を思い知るようになる。それは、徹底的に自分の「弱さ」を知ったということであり、神なしでは生きられない自分に気付いたということである。するとそこに、神に委ねる「信仰」が芽生える。
このように、律法によって「苦しみ」が生じるが、そこからは神を信頼する「信仰」が芽生え、その「苦しみ」が極まれば、どうにもならない自分の限界を思い知らされ、神の前に完全に砕かれ、神に委ねる「信仰」が芽生えるのである。そのことを、今度はアブラハムから学んでみたい。
5. アブラハムから学ぶ
晩年のアブラハムには、愛する息子イサクこそが「見える安心」であった。人は年を取れば取るほど、自分の世話をしてくれる子どもを頼り、その子を「見える安心」とする。ところが、神はアブラハムに、その安心すらも手放すことを要求し、イサクをいけにえにささげよと命じたのであった(創世記22:2)。
しかし、アブラハムには、そのようなことはできなかった。その「苦しみ」によって、「闇」の中で苦しんでいる自分に気付き、自分の限界を思い知らされた。為す術を失った彼は、「見える安心」のイサクを神に委ねることしかできなかった。ここに、神に委ねる「信仰」が芽生えたのである。
すると、この「信仰」に神は応えてくださった。神はアブラハムに、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれる」という神の約束の言葉を思い出させたのである。この約束がある以上、たとえイサクをささげて彼が死んでも、神は彼をよみがえらせる——そのような「信仰」が、アブラハムのうちに静かに芽生えた。こうして彼は、イサクをささげる決断へと導かれていった。
そこで、アブラハムは刀を取り、イサクをほふろうとした。その時、御使いはアブラハムに「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない」(創世記22:12)と言って止めたのであった。さらに続けて「あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた」(創世記22:12)――と言った。アブラハムはまだささげてはいなかったのに、ささげたと見なされたのである。それにより、彼はイサクを取り戻した。その出来事を、聖書は次のように解説する。
信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル11:17〜19)
このように、アブラハムはイサクを神に委ねたとき、イサクをささげたと見なされたのである。そのことで、イサクを取り戻すことができた。つまり、「見える安心」を手放すというのは、それを失うことではなく、「見える安心」を神に委ねることであり、そのように委ねれば、「見える安心」は「信仰による安心」へと姿を変えるということである。
正しくは、神に委ねられた時点で、それは「信仰による安心」に変わっている。これを、「見える安心」を「信仰による安心」として「受け取り直す」という。そのことが聖書に、「死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」と書かれている。「型」ということは、「受け取り直す」ことこそが、アブラハムがそうであったように、「苦しみ」の真の解決となるということである。では、この「受け取り直す」ことについて、今度はヨブから学んでみたい。
6. ヨブから学ぶ
ヨブは、誰よりも人から良く思われる「評判」と、人がうらやむ「富」を持っていた。それは、彼にとっての「見える安心」であった。ところが、サタンが彼の「見える安心」を奪ってしまった。神はその様子を見るだけで、助けなかった。それで、ついにヨブは神につぶやいてしまった。
だが、ヨブは神とのやりとりの中で自分の限界を知り、「見える安心」を失うこと以上の「苦しみ」を覚え、神の前に心からへりくだることができた。その様子を聖書は、「それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔いています」(ヨブ42:6)とつづっている。
これは、つぶやきの原因となった「見える安心」を、神に委ねることができたということであり、何があっても神を信頼する者になったということである。そこで神は、ヨブの友人にこう言われた。「わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない」(ヨブ42:8)
そしてヨブが友人たちのために祈ると、神はヨブが失った地上の「評判」を元通りにし、失った「富」を倍にされたのであった――「【主】はヨブの繁栄(評判)を元どおりにされた。【主】はヨブの所有物(富)もすべて二倍に増された」(ヨブ42:10 ※括弧は意味を補足)――。なぜなら、そうした「見える安心」は、もうヨブが神を信頼する「信仰」の前では力を失ったからである。これこそが、「見える安心」を「信仰による安心」として「受け取り直す」ということである。
ここで大事なのは、ヨブは「見える安心」となったものを、失わなかったということである。見た目には失ったが、その倍を取り戻した。つまり、神は人に対し、「見える安心」を物理的に捨てることを望んでいるのではないのである。
そもそも「見える安心」の物理的な廃棄を神が望んでいるなら、この世界にある物は何も持てないことになり、この世界では生きられなくなってしまう。それでは、もう死ぬしかない。神はそのようなことを望んでいるのではない。この世界にあっても健やかに生き、神を第一にできるようになることを望んでおられる。
そこで聖書は、アブラハムやヨブのように、「苦しみ」の中で自らの限界を認め、手にした「見える安心」を神に委ねることを教えている。そうすれば、神は人に、「見える安心」以上の「信仰による安心」を下さるのである。平たく言えば、自分の思い煩いを神に委ねると、神が心配してくださるということである。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7)
このように、「見える安心」を手放す「苦しみ」の解決は、「見える安心」を神に委ねる「信仰」にある。これを、「受け取り直す」という。その「信仰」は、見てきたように「苦しみ」の中で成長する。神の呼びかけに応答する「信仰」から始まり、多くの「苦しみ」を経て、神に委ねる「信仰」へと向かう。これが「信仰の道」であり、そこに福音がある。
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)
では、第2章の「脱出の道」に移ろう。
第2章「脱出の道」
脱出の道を説明する前に、人の「苦しみ」を別の側面からも掘り下げておきたい。それは、神と関係すること自体が「苦しみ」である、という視点である。
1. 神と関係することが「苦しみ」
「苦しみ」についてはさまざまな角度から説明してきたが、そもそも神と関係することが「苦しみ」である。なぜなら、神は義なる方であり、人は罪人だからである。例えるなら、神は焼き尽くす「火」なので――「私たちの神は焼き尽くす火です」(ヘブル12:29)――、誰であっても、近づくと苦しくなる。
つまり、人は神と出会えば、自分の罪が裁かれると思い「苦しみ」を覚えてしまうのである。それでペテロは、イエス様と出会ったとき「苦しみ」を覚え、私のような罪人から離れてください、と言った――「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」(ルカ5:8)――。
あのアブラハムも、同じであった。彼は神を知っていたが、神から呼びかけられたときはひれ伏し、神を見なかった――「アブラムは、ひれ伏した」(創世記17:3)――。なぜなら、自分のような罪深い者は、神を見たなら裁かれて死ぬと思ったからである。
また、ヤコブも、顔と顔とを合わせて神を見たとき、こう言った――「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(創世記32:31、新共同訳)――。この言葉から、ヤコブも自分は罪深いので、神を見たなら裁かれて死ぬと思っていたことが分かる。モーセも、神の前で顔を隠した――「モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した」(出エジプト3:6)――。
このように、神と関係するということは、必然的に「苦しみ」を伴うのである。神は「いのち」の中におり、人の現実は「死」の中に、すなわち「罪」の中にいるからである――「死のとげは罪であり」(1コリント15:56)――。そのため、神と関係すると、自分のような罪人は裁かれると思い「苦しみ」を覚える。ギデオンも、神の使いを見ただけで、自分は死ぬに違いないと恐れた――「ああ、神、主よ。私は面と向かって【主】の使いを見てしまいました」(士師記6:22)――。だが神は、ギデオンにこう言われたのであった。
すると、【主】はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」(士師記6:23)
これは、神と関係することを恐れている全ての人に、神が語られている言葉である。確かに、神と関係すれば、神は「光」なので、「闇」である「この世」を手放すように要求してくる。そうなると、神の要求に従うかどうかの「信仰」が試されることになり、「苦しみ」を覚える。これを「試練」という。しかし、神がギデオンに、「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない」と言われたように、その「試練」には、神が用意された「脱出の道」がある。それこそが、前章で述べた神に委ねる「信仰」であり、「脱出の道」は「信仰の道」なのである。では、「脱出の道」を見てみよう。
2.「脱出の道」
聖書には、神の要求がたくさん書かれている。それは「律法」と呼ばれ、神は「律法」を突きつける。それを一言で言えば、神にだけ仕え、神を第一に愛せよ、である。するとここに、神を信じて「律法」に従うかどうかの「信仰」が試されるので、これを「試練」と呼ぶ。人はこの「試練」に、「苦しみ」を覚える。しかし、「試練」には、神が用意された「脱出の道」がある。
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。(1コリント10:13)
この「脱出の道」こそ、「見える安心」を「信仰による安心」として受け取り直させる、神に委ねる「信仰」である。その「信仰」は、「苦しみ」の中で知った自分の「弱さ」に、神の恵みとして現れる。それで神はパウロに、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)と言われたのである。この神の恵みによる「信仰」で、「見える安心」は「信仰による安心」に変わる。ここに、「試練」に対する「脱出の道」がある。
そして、「試練」を繰り返すことで、本当の自分の姿に会えるようになる。それは、神なしでは生きられないという「弱さ」を持つ自分であり、その自分に出会うと感謝があふれるようになる(※1)。これを、「この世」に対して死んでいくという。
3.「この世」に対して死んでいく
キリストが歩まれた道は、「この世」に対して死んでいく道であった。いきなり死ぬのではなく、徐々に死んでいく道であった。徐々に迫害され、さげすまれ、むち打たれ、そして弟子たちにも見捨てられ、最後は天の父からも見捨てられる中、十字架刑によって殺される道であった。「苦しみ」が増し加わり、「苦しみ」の中で死んでいく道であった。
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。(ルカ22:44)
しかし、その「苦しみ」の先には「光」があった。なぜなら、キリストは「苦しみ」、最後は殺されたが、復活されたからである。それ故、キリストに倣って生きることの先には「光」がある。キリストの復活の姿にあやかれるからである。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(ローマ6:5、新共同訳)
そこでキリスト者は、キリストが歩まれたと同じ道を、すなわち「この世」に対して死んでいく道を歩まされる。その道は、キリストがそうであったように、「この世」に対して徐々に死んでいく道なので、苦難の連続であり、「苦しみ」である。だが、その先には揺るぎない「光」があるから、キリスト者はその「希望」を苦難の中で見いだせる。
それだけではなく、苦難(苦しみ)さえも喜んでいます。それは、苦難(苦しみ)が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。(ローマ5:3、4、新改訳2017) ※括弧は意味を補足
この「希望」を目指し、キリスト者はキリストが歩まれたと同じ道を歩む。正しくは、キリスト者はキリストに捕らえられた者なので――「キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです」(ピリピ3:12)――、キリストが歩まれた道以外には歩むことができない。それはつまり、キリスト者は「新しく造られた者」であって、古いものは過ぎ去り、全てが新しくなっているということである。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)
この事実を確信させるのが「信仰」であり、その「信仰」を芽生えさせるのが、キリストが歩まれた道である。
このように、キリストは私たちを捕らえたので、言い換えるなら、キリスト者はキリストの奴隷となったので――「召された者はキリストに属する奴隷」(1コリント7:22)――、キリストと同じ道を歩むことになる。それは、「この世」に対して死んでいく道である。「この世」に死ぬというのは、「この世」にしがみつく自分の罪に気付き、その罪を言い表すことで、罪が赦(ゆる)されていくということである。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:9)
そしてイエスが、「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)と言われたように、多くの罪が赦されることで、神への愛が多く創造されていく。これが、「この世」に対して死んでいくということである。それに伴い、「見える安心」は「信仰による安心」に変わっていくのである。ここに「平安」がある。
つまり、先述したように、「脱出の道」は、「見える安心」を「信仰による安心」として受け取り直させる、神に委ねる「信仰」であるが、それは同時に、罪が赦される道なのである。罪が赦されることが、「脱出の道」である。それは神への愛を創造し、神に委ねる「信仰」を芽生えさせるからである。その「信仰」が、「光」に出会わせてくれる。
4.「光」に出会わせてくれる
この世界は「闇」である。「闇」とは、神との関係が絶たれた世界であり、別名を「死の世界」という。そこは本来、「苦しみ」なのに、人はさまざまな快楽、富や名声で、その「苦しみ」に気付かなくなった。ところが、神との関係が回復したキリスト者に対し、神はそうした「見える安心」の放棄を要求するので、それができない自分の罪にキリスト者は「苦しみ」を覚えるようになった。まさしく罪が「苦しみ」であった。しかし、そのおかげで、キリスト者は、「死の世界」で苦しむ、みじめな自分に気付けるようになった。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ローマ7:24)
すると、そこには罪が赦される「脱出の道」が用意されていて、罪が赦される体験が「光」に出会わせてくれるのである。その「光」は「永遠のいのち」であり、イエス・キリストである――「私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです」(1ヨハネ5:20)――。
そして、多くの罪に気付き、多く赦されれば赦されるだけ、「光」であるイエス・キリストとの距離が縮まるのである。それは、多く神を愛せるようになるということである。
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。(ルカ7:47、新共同訳)
神はこの原理を知るので、人に「律法」を突きつけ、神に従えない自分の罪に気付かせる。そして、罪が赦される「赦しの恵み」を受け取らせる。自分の罪が赦されたことを知れば、神を愛することができるようになるからである。それこそが、神が用意された「脱出の道」であり、ここに「平安」がある。
このように、罪の「苦しみ」は、キリスト者を神の「光」に導いてくれる。「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された」(詩篇107:6)。それ故、この「苦しみ」の原理を知る者は、自分のうちにある「苦しみ」を見逃さず、神に向かって叫ぶのである。
5.「苦しみ」を見逃さない
誰もが、自分の内面と向き合うことを避ける。内面と向き合えば、神の言葉には従いきれないみじめな自分の罪と出会い、「苦しみ」を覚えるからである。しかし、賢いキリスト者は、むしろ自分の中にあるそうした「苦しみ」を見逃さない。なぜなら、この「苦しみ」が、神の「光」へ向かうコンパスになることを知っているからである。
そこで、賢いキリスト者は、自分の中心は神によって、「永遠性」(いのち)で規定されているにもかかわらず、「有限性」(死)で自分を規定しようとする矛盾から目を離さない。なぜなら、それが神に逆らう罪であり、「苦しみ」だからである。
例えば、キリストを信じている者は「永遠のいのち」を持っていると規定されているにもかかわらず――「信じる者は永遠のいのちを持っています」(ヨハネ6:47、新改訳2017)――、肉体の死を恐れてしまう。この矛盾こそ、神の言葉(規定)に従いきれないみじめな自分との出会いであり、それが「苦しみ」であり「罪」である。だが、その「苦しみ」に目を向ければ、神による「赦しの恵み」に導かれ、神(光)との距離が縮まる。
また、「苦しみ」の原理を知る者は、神の「律法」に従えない罪の「苦しみ」と出会うために、神の「律法」から目を離さない。「苦しみ」と出会うことができれば、自分の「弱さ」も分かり、神により頼むことができるからである。こうして、「律法」は私たちをキリストへの信仰に導く養育係になる――「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)――。
まことに「苦しみ」は、神を信頼するかどうかの「信仰」が試される「試練」となるが、この「試練」によって「信仰」も成長し、神に近づくことができる。賢いキリスト者はこの原理を知るので、さまざまな「試練」に会うときは、それをこの上もない喜びと思うのである。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ1:2〜4)
このように、賢いキリスト者は、「苦しみ」を見逃さないのである。自分の内面の矛盾と向き合い、神の「律法」からも目を離さない。そうすれば、気付かなかった罪を知り、罪が赦される「脱出の道」に導かれるからである。それが、イエス・キリストを信頼する「信仰」を芽生えさせ、神と人とを「一つ」にし、「平安」の実を結ばせてくれる。
では、最後に述べたい「脱出の道」がある。それは、自分の本当の姿を認めることである。
6. 自分の本当の姿を認める
キリストは罪を裁くためではなく、罪から人を救うために来られた。「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである」(ヨハネ12:47、新共同訳)。
つまり、キリストは罪を犯してしまう人の「弱さ」に同情し――「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません」(ヘブル4:15)――、その「弱さ」を担ってくださるということである。そこにあるのは、人は自分の「弱さ」を認めさえすれば、神が助けてくださるという原理である――「弱さのうちに完全に現れる」(2コリント12:9)――。ならば、人の本当の姿はどうなっているのか。
人は神なしでは存在できない。神の助けなしには、何もできない――「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)――。これが、人の本当の姿であり、それを一言で言えば「弱さ」である。それは、神なしでは生きられない「弱さ」を持った者であり、「弱さ」を持つからこそ、神が共に生きてくださるのである。神が人の「弱さ」を担ってくださるからこそ、人は非常に「良き者」という扱いになる。
要するに、人の本当の姿は「弱さ」なので、神の助けが得られ、非常に「良き者」ということになる――「見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)――。つまり、人の「弱さ」こそが、人の誇りなのである――「私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」(2コリント12:5)――。
ところが、その昔、この神と人との関係を分断する「死」が入り込んだことで、人は神が見えなくなり「不安」になった。その結果、「見える安心」をむさぼる罪を犯すようになった――「罪が死によって支配したように」(ローマ5:21)――。そして、本当の自分の姿の「弱さ」を、「見える安心」で覆い隠すようになった。アダムとエバが、いちじくの木の葉で腰の覆いを作って自分の姿を隠したように、である。
こうして、人の「弱さ」は「見える安心」に覆い隠され、人は神なしでも生きられると錯覚するようになった。その錯覚が、人を苦しめた。これが罪のありさまである。そこで神は、「見える安心」を剥ぎ取り、人が自分の本当の姿に気付けるように助けてくださる。その助けにより、人が自分の本当の姿である「弱さ」を認めることさえできれば、そこに神の恵みが現れるのである。ここにこそ、「苦しみ」に対する「脱出の道」がある。
このように、「苦しみ」の解決は、本当の自分の姿を認めることにある。それこそが「脱出の道」であり、それは人の行いには全く依存しない。ただ、自分の「弱さ」を認めることで、神の恵みが働き、神に委ねる「信仰」が芽生え、その「信仰」で、神の「光」である「永遠のいのち」が見えるようになる。それが「平安」である。
しかし、入り込んだ「死」のせいで、本当の自分の姿を認めることが、人にとっては最も困難なことになってしまった。そのことを裏付ける話を最後にしたい。題して、最も恐ろしい「苦しみ」である。
最も恐ろしい「苦しみ」
キリスト者にとって、何が最も恐ろしい「苦しみ」なのだろう。「神の愛」が「見える安心」を手放すように要求するので、それに従えない罪責感の「苦しみ」だろうか。また、死という「闇」の中にいる「苦しみ」だろうか。いや、それよりもさらに恐ろしい「苦しみ」がある。それは一体何なのか。
それは、神が行う「審判」である。神は容赦なく、キリスト者に「審判」を下される。その「審判」は、最も厳格に行われる。そのため、その厳格な判決文を受け取ること以上に恐ろしい「苦しみ」はない。というのも、その判決文には、次のように書かれているからである。
「あなたの罪は全て赦された! あなたは完全に無罪である!」
人は、自分が罪人だと責められる「苦しみ」なら耐えられる。しかし、あなたは無罪であるという厳格な審判には耐えられないのである。それは、自分の罪が全て赦されたということがとても信じられないからである。自分を見れば罪人なので、その現実を否定することなどできないからである。それだけではない。それを信じてしまえば、今後は罪人である自分を捨てなければならない。自分を変えてしまわなければならない。そうなると、住み慣れた古い自分は、もはや存在しなくなってしまう。
これほど恐ろしい「苦しみ」が、他にあるだろうか――いや、ない。それでキリスト者は必死になって、どうせ自分は「ダメな者」だと自分を責め、住み慣れた古い自分に留まろうとする。その「苦しみ」の方が、よほど楽だからである。そのことで、本当の自分の姿を認めることを拒否する。
一見すると、自分を「ダメな者」と自分を責めるのは、自分の「弱さ」を認めているように見えるが、そこでは神の厳格な審判を受け取ろうとしないので、それは自分を、強い者だと言って誇っているのである。そもそも、本当の自分の姿である「弱さ」を認めるというのは、神の前に無条件降伏するということであり、神の厳格な審判を受け取るということである。
つまり、本当の自分の姿を認めることが、人にとっては最も困難なことなのである。自分の本当の姿を認め、「あなたの罪は全て赦された! あなたは完全に無罪である!」という、神の厳格な審判を受け取ることが、最も難しいということである。
そこにある判決文は、「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ1:18)であり、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)である。
この判決文は、イエス・キリスト自らが十字架にかかり、そしてよみがえったことで作成されたので、現状の人の姿がどうであれ、この判決文こそが真実である。そうである以上、神の悲しみは一つしかない。それは、ご自分のいのちを差し出した神の審判を、人が受け取らないことである。しかし、この受け取りにこそ、人の「苦しみ」の最終解決がある。
最後に言いたい。人は人との関係で「苦しみ」を覚えると、「苦しみ」の原因はあの人にある、と思ってしまう。だが、それはとんでもない誤解である。「苦しみ」の本当の原因は、まさしく神の審判を受け取れないことにこそある。
そこで私は祈る。「信仰によって、『あなたの罪は全て赦された! あなたは完全に無罪である!』という、キリストの十字架の赦しの審判を受け取る勇気が与えられますように」と。(※2)。
以上で、「苦しみ」と「苦しみ」の解決のコラムは終わる。だが、最終回ではない。次回が最終回であり、コラムを書く上での基盤となった哲学の話をしたい。
文中の注
(※1)本文で「『試練』を繰り返すことで、本当の自分の姿に会えるようになる。それは、神なしでは生きられないという『弱さ』を持つ自分であり、その自分に出会うと感謝があふれるようになる」という話をしたが、そのことを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノアworship】試練はつらいけれど)。
(※2)本文で「キリストの十字架の赦しの審判を受け取る勇気が与えられますように」と書いたが、それを受け取った喜びを歌にしているので、よかったら聴いてほしい(歌はこちら:【ノアworship】二千年前に赦されていた、【ノア】丸ごと全部愛してるよ、【ノアworship】信じます)。
最終回へ向けてのこぼれ話
本連載コラムは、「存在論」と呼ばれる哲学を基盤に書いてきた。それは、存在するとはどういうことなのかを問うもので、大昔から考察されてきた。その問いを、理念として説明したのがプラトンである。そして、それを体系的に整理したのが、アリストテレスである。さらに近代に入り、人間の認識の視点からこの問いを再構成したのがカントである。
そうした「存在論」を土台に、人が実存する上での問題と徹底的に向き合ったのがキェルケゴールである。彼は、人とは「精神」であり、それは「永遠性(神)」と「有限性(体)」との総合であるとし、そこから人間の問題を正確に特定し、その答えを聖書に求めた。この聖書の読み方は画期的であり、これまで曖昧だった聖書の意味を深く理解できるようになった。そのため、彼の手法は20世紀神学に多大な影響を与え、今日に至っている。
ここで書いてきたコラムも、「存在論」に基づく人間理解を基盤に、人間の「苦しみ」の原因を特定し、その解決を聖書に求めたものであった。それが、今回のコラムである。
なお、「存在論」のことに関心があれば、私が書いた『福音の回復』第1巻を、ご一読いただければ幸いである。その第1章では、カントが体系化した「存在論」を分かりやすく説明している。また、今回のコラムの原本となった本も書いている。それらは無料で公開している(『福音の回復』第1巻と本コラムの原本:『福音の回復』補巻1【「苦しみ」と「苦しみ」の解決】はこちら)。
さて、次回最終回では、本連載コラムを書くに当たって用いた「存在論」の話をしたい。タイトルは「哲学と聖書」である。それをもって、今回のコラムを締めくくりたい。
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