先のローマ教皇フランシスコの死去に伴い、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が新教皇レオ14世として選出されました。彼は最初のメッセージとして、キリスト教の核心部分であるキリストの受難、復活、平和、神の愛を全世界のメディアの前で宣告されましたが、それと同時に聖母マリアについても言及していました。実は、この聖母マリアに関する教義と、教皇の無謬(むびゅう)性の間には深いつながりがあります。今日はそのことを皆様と一緒に深く考えてみたいと思います。
教皇の無謬性(不可謬説)と教皇座宣言(エクス・カテドラ)
「教皇が聖ペトロの後継者としての立場で、普遍教会(Ecclesia Catholica)の牧者および教師として、ローマの教皇座から発言し、普遍教会によって信じられることを意図して発せられた『信仰または道徳に関する』いかなる教義も、教皇座宣言(エクス・カテドラ)という特別な地位を有する」。1870年の第1バチカン公会議は、このような教皇座宣言(エクス・カテドラ)は、不可謬(ふかびゅう)もしくは無謬性を帯びると宣言しました。
無謬という言葉は「誤りが一切無い」という意味であり、不可謬というのは「誤ることができない」という意味です。どちらも同じラテン語原文の infallibilitas から日本語に訳されたものであり、本質的な意味は同じです。
しかし、「誤りが一切無い」というのは、あまりにも強烈な表現であるために、カトリックの教義を詳しく知らない方からは、「カトリック教会は、教皇の言葉は何でも無謬だと主張している」というような誤解を招きやすく、よく議論の対象となっています。
しかし、先の教皇フランシスコは「教皇の無謬性を誤解してはいけない」と語られていて、「私は間違うこともある」「兄弟たちと共に歩む教会でありたい」という対話的で謙虚な姿勢をとっていました。つまり教皇は、自身の全ての言葉が無謬であると主張しているのではないということです。実際には、厳格な条件下で、極めて慎重に「無謬性」が、教皇座宣言(エクス・カテドラ)として行使されるのです。
無原罪の御宿りとマリアの被昇天:2つの教皇座宣言
そのため、実際に無謬性が行使される例は極めてまれです。しかし、皆無というわけではありません。その実例こそが、聖母マリアに関する以下の2つの教皇座宣言(エクス・カテドラ)なのです。一緒に確認してみましょう。
「無原罪の御宿り(Immaculate Conception)」の教義(1854年)
宣言した教皇:ピウス9世
内容:聖母マリアは、イエスを宿す以前の段階から原罪を免れて母胎に宿ったという教義。
「マリアの被昇天(Assumption)」の教義(1950年)
宣言した教皇:ピウス12世
内容:マリアは地上の生涯を終えた後、肉体と霊魂ともに天に上げられたという教義。
これをプロテスタント教会側はどのように理解するのでしょうか。端的に言いますと、プロテスタント教会は「聖書のみ」を信仰の根拠としていますから、聖書に明確な記述のない、これらの教義を否定しています。
母マリアがイエスを産むために「汚れ(罪)なき器」である必要があり、そのために「神の特別な恩恵を受けた」というのは、話としては理解できます。しかし「ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にある」「義人はいない。ひとりもいない」と、聖書(ローマ3:9、10)に明確に書かれていることを覆すほどの根拠はないと考えます。
昇天の先例:エノクとエリヤに見る神の超自然的働き
また、「マリアの被昇天」の教義に関しては、神の子であるキリスト以外の人間が昇天することはあり得ないといっているわけではありません。実際に聖書には、昇天した人物たちの実例があるからです。その一人はエノクであり(ヘブル11:5)、もう一人はエリヤです(2列王記2:11)。
ですから人間であっても、神様が特別に扱われるのであれば、昇天(被昇天)することは聖書の中に事例がないわけではありません。しかし、母マリアに関しては、聖書に特別な記述がありませんので、プロテスタント教会側は、それを受け入れないという立場なわけです。
昇天と被昇天に関する補足
ちなみに、「被昇天」という言葉は、マリアが自分の力ではなく、神の力によって(受動的に)天に「上げられた」ことを強調するための語であり、キリストの「昇天」(能動態)とは分けて定義されています。これはカトリック神学において、マリアをキリストと同列視しないための神学的配慮だといえます。
さらに踏み込むと、細かくなり過ぎますが、実はキリストの昇天もギリシア語本文(原語)では、受動態で書かれていて、父なる神によって天に上げられたというニュアンスになっています(参照箇所:ルカ24:51、使徒1:9)。ですから、キリストを「昇天」とし、マリアを「被昇天」とするのは、神学的配慮としては理解できますが、原語的には整合性がないように思えます。
しかしさらに、これに対してカトリック側の視点に立つと、キリストは父なる神と「一体(三位一体)」であり、昇天は三位一体なる神の能動的な働きであるということもできるでしょう。
このように、さまざまな神学的な見解を複眼的に捉え、両者の立場に立って深く考察することが、見解の異なる両者の形而上学を理解するためには不可欠であるといえます。
両者の違いと共通点をどう理解すべきか
さて、14億の信徒を抱えるカトリック教会が容易に変化し得ないことは、大きな車が急には曲がれないということを思い浮かべていただけると、分かりやすいと思います。例えば、地動説を唱えたとして異端審問にかけられたガリレオに対しては、1992年にヨハネ・パウロ2世が誤った扱いを認め、実に350年ぶりに名誉回復を宣言しました。これは非常にスローではありましたが、誤りがあれば、長い時間をかけてそれを認めるということも実例としてあるわけです。
逆にいえば、プロテスタント教会側では各個教会主義をとっていたり、単立の教会ということも珍しくありませんから、各指導者の聖書理解や判断で、福音の中核メッセージは変わらないにしても、小型車の小回りが利くように、強調点が二転三転することは十分にあり得ます。
それは、聖書の理解が「進んだ」ときに、比較的早く改革できるという長所でもありますが、場合によっては右往左往の混乱を招くこともあります。そういう意味では、歴史や伝統を重んじるカトリック教会から学べる点もあるのかもしれません。
さて、このようにいいますと、カトリック教会を擁護し過ぎではないかという意見もあるかもしれませんが、まとめとして、私の個人的な見解を書かせていただきます。
以上のさまざまなことを踏まえた上で、聖書に書かれていないことに関しては、プロテスタント教会側は否定するという立場を明確にしてよいのだと思います。そして、その立場はカトリック教会側にとっても、良い意味での神学的な緊張感を与え得ると思います。
ルターが宗教改革をしたときに、カトリック側でも対抗宗教改革(カトリック改革)が起こり、プロテスタント側からの批判に耐え得るべく、自己改革が進むというポジティブな効果がありました。具体的には、1545年から始まったトリエント公会議で、免罪符の販売や、聖職売買などを廃止することが決定されました。
このように、有限であり、常に誤る可能性のある私たちは、お互いの存在を通して謙虚さを学ぶことができるのだと思います。
マリアの純粋な信仰と、証言の重み
今まで論じてきたように、プロテスタント教会はマリアの無原罪、被昇天、それを宣言した教皇の無謬性を認めていませんし、彼女を特別な存在として扱うこともありません。しかしそれでも、個人的には、彼女の純粋で力強い信仰は、全キリスト教徒に大きな影響を与えていると感じています。有名な話として、彼女は御使いから、処女の身にキリストを懐妊するという宣告を受けたときに、このように告白しました。
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。(ルカ1:38)
彼女は、このことによって、夫ヨセフから離縁されるかもしれませんでしたし、周囲の人から石打ちの刑に処せられたかもしれません。それに、そもそも処女の身に子どもを宿すことなど、人類史上一度もなかったことですので、それを受け入れたということは、彼女がどれほど謙遜で純粋な信仰を持っていたかを物語っています。
それだけではありません。キリストが十字架につけられるとき、十二使徒をはじめとする弟子たちは皆、散り散りに逃げてしまいましたが、マリアは身内として罰せられる危険を顧みず、最後まで見届けた女性たちの中心にいました(ヨハネ19:25)。そして初代教会の時代にも、彼女は民の指導者たちから迫害される危険を承知の上で、使徒たちと共に祈りに専念していました(使徒1:14)。
これらのことは、彼女の信仰の純粋さの表れですが、同時に、彼女が否定できない唯一無二の体験をしたということを私たちに明示しています。それは、彼女が処女の身にキリストを懐妊したということです。
このことを、本当の意味で知って(体験して)いるのは、彼女だけだからです。そして、その彼女が3度の命の危険を賭してまで証ししているのは、キリストが特別な神の子であるという事実です。
カトリック教会とプロテスタント教会には理解の異なる部分もありますが、「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、3日目に死者のうちから復活し」という、マリアが体験し、目撃した内容、使徒信条に要約されているキリスト教信仰の根幹部分を共有しているのです。
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