脳性麻痺と共に生きる(6)こうして僕が生まれた 有田憲一郎

2016年2月29日23時55分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷

僕は1971年に東京で生まれました。生まれつき“脳性麻痺”という障碍(しょうがい)を持って生まれてきました。「あなたはお腹の中であんまり動かなくてお腹を蹴らなかったね」と母は当時のことを懐かしむように語ってくれることがあります。もちろん僕には当時の記憶などありません。

僕がこの世に命を与えていただき、生を与えていただいた一つの証しとして大切に保管してある僕のへその緒、そして母子手帳を見ると「良好。至って健康。問題なし」と僕が生まれた当時の記録が残っています。

街の小さな産婦人科で僕は生まれました。母のお腹から生まれた僕はとても小さかったそうです。他の子は生まれてすぐに大きく元気な泣き声が病院内に響き渡り、その瞬間、「元気な子が生まれてきてくれた」と母親や父親や親戚や周りの人たちが喜びと幸せに包まれます。僕の両親や親戚も、その喜びの時を「今か、今か」と待ち望んでいたことには間違いありません。しかし、僕の出産は「大変だった」と言います。

「このままでは母子共に危険な状況です」などと言われ、「お子さんを出産すれば、奥さんの命が・・・。お子さんは諦めれば奥さんを助けられる可能性がある」。そんなことを先生から母親以外に告げられたそうです。この時、父親や親戚中の頭の中は真っ白になり、絶望感に襲われたことでしょう。父親は先生に泣きすがり「お願いです。妻とお腹の子、二人とも助けてください」と言ったのでしょうか。それはまさに命をかけた出産。母は命をかけて僕を産んでくれたのです。

40年も50年も前の話です。今のように医学も進んでいない時代です。母子手帳にはただ「至って健康」と書かれています。父は亡くなってしまったので、そこで何が起きていたのか、今となっては本当のことは分かりません。

全身麻酔で出産した母。僕は危険な状態で生まれ、すぐに保育器に入れられ、何本も管(チューブ)を付けられ、治療が始まったそうです。麻酔から目を覚ました母は、まだもうろうとしている頭で、生まれたばかりの僕の姿を探したのでしょう。「私の赤ちゃん、どこ?」。しかし、辺りを見回しても、生まれた僕は母のそばにはいなかったのです。

母子共に生死をさまよい、必死で僕を産んでくれた母。精神的にも安定していなかった母に「今、保育器にいる息子に合わせるのはショックも大きいし、危険だ」という判断があったのでしょう。子どもは体も弱く命の危険があるなどという事実を、母はしばらく教えてもらえなかったそうです。

そして1週間ほど、生まれてきたわが息子と対面させてもらえなかったそうです。その間、母は何を感じていたのでしょうね。生まれてきたわが子の姿を見ることができない。この手で抱いてあげることもできない。その時間は長く、きっとつらく苦しく悲しい月日だったと思います。

生まれてから1週間ほどがたち、母は保育器の中で管を付けられている小さな僕と対面することができたそうです。初めてわが子と会った母。小さい弱々しい僕の姿を見て、何を思い、どんな気持ちだったのでしょう。

やがて両親は先生に呼ばれ、こう告げられたそうです。「この子は1年生きられるかどうか・・・」。それはとてもつらく残酷な宣告だったと思います。このとき両親は、「頭の中が真っ白になった」と言います。

障碍を持って生まれてきたことは、家族や親戚にとって悲しい現実となります。そして、不安や絶望感というのに襲われてしまう時期があります。「この子は生まれてきて本当によかったのか・・・。幸せになれるのか・・・」。僕の母は食事ものどを通らず、1週間ぐらい毎日毎日泣き崩れ、ノイローゼにまでなったと言います。思い苦しみ、母は「この子と一緒に死のう。自殺しよう」。そこまで悩み苦しみ「あなたを抱き砂浜を海に向かって歩いていた」。そんなことを話してくれたことがあります。そんなある日、母はふとわれに返ったそうです。「私はなんていうことを考えていたんだ。この子に与えられているこの命。なんとしても育てて、守ってあげないと」と。

何歳の頃だったか覚えてもなく、記憶もあまり残っていませんが、両親の話によると僕はたった1度だけ「自殺しようかぁ・・・」と真面目に言ったことがあったそうです。「こんな体で生まれてきて、社会の役にも何も役に立たない人間だから。生きていてもしょうがないよね」。それを聞いて親は、僕のことを思いっきりひっぱたき、そのはずみで僕は3メートルぐらい飛んでいったそうです。小学生になる前かなったぐらい。僕がそのぐらいの時期だったようです。

僕が生まれた頃、世の中はまだ障碍者への理解などはほとんどされていなかった時代でした。現在のように障碍者自身もその家族もあまり積極的に外に出掛けて行かなかった時代。そして障碍を持って生まれてきただけで悪者にされてしまったり、家族自らが尊い命を奪ったりしてしまう。そんなことが社会問題になっていた、そんな時代でした。

そんな時代に両親は、僕に「できる限りいろんな経験をさせよう。できるだけ外の世界を見せよう」と子どもの頃から積極的に外に連れて行ってくれました。普通の子と同じように。

家族にも僕にとっても、幾つものあり得ないような差別を経験しました。その中でも忘れることのできない、40数年前に受けた差別を一つご紹介します。

それは夕方の商店街でのことでした。僕は、母に連れられ、夕食のお買い物。夕方の商店街ですから、小さなお子さんと手をつないで買い物をしている親子の姿。僕を連れて母が買い物をして街を歩いていると、親子連れが僕たち親子の方を見て、その子にこんなことを言います。「いい? あの子は、悪いことをしてあんな姿になったの。だから、○○ちゃんはちゃんと良い子にしていないとダメよ。もし悪いことをしたら、あんな風になっちゃうからね」。さらには、僕たちの姿を見ると、親たちは自分の子どもに僕のことを見せないようにと、子どもの目を手で覆って隠すということをしていました。母は、そんな親子に向かって怒り、厳しい口調で「ちょっと!何!」そう言い返していたそうです。

僕が生まれた年代やそれ以前の日本は「障碍を持って生まれてきた家族は、その親や先祖に悪い罪を犯してきた者がいる。その者が犯した罪の罰が下って、障碍を持った子が生まれてしまった」。そんなあり得ない話や迷信が広く伝えられていました。そして、それが子どものしつけの一つとして語られていたという悲しい現実がありました。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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