コヘレトの探求の第3幕
今回は、9章11~12節を読みます。けれどもその前に、今回との関連で、コヘレトの言葉全体の区切りについて考えていることを記しておきます。
今回の箇所は、内容的に前回までの箇所からがらりと変わります。その書き出しは、「振り返って(シャブティー / שַׁבְתִּי)見た」となっています。これは4章1節と7節でも見られ、聖書協会共同訳では「再び見た」と訳されていますが、ヘブライ語では全く同じです。コヘレトの言葉の中でこのように書き出されている所は、他にありません。
4章1節と7節は同じ段落ですので、後者は強調のための繰り返しと見ることができます。そうすると、4章1節と9章11節の「再び(振り返って)見た」は一つの印であり、コヘレトがそれぞれの箇所で改めて探求を始めていることが分かります。
コヘレトの言葉の1章は、1~2節が前文で、3~11節は問題提起の部分と考えられます。そうすると、コヘレトの探求は、1章12~13節の「私コヘレトは、エルサレムでイスラエルの王であった。天の下で起こるあらゆることを、知恵によって探究しようと心を尽くした」から始まっていると考えられます。それが、4章1節と9章11節で書き改められていると見ることができるのです。
そう考えると、1章12節から始まるコヘレトの探求は、1章12~3章22節が第1部、4章1節~9章10節が第2部、9章11節~12章7節が第3部と分けられます(12章8~14節は後書き)。この3部構成の観点で読むと、それぞれが内容的にもよく分けられていると感じます。そして、第1部は「世界の秩序と労苦の虚しさ」、第2部は「社会の不条理と生の小さな喜び」、第3部は「人生の制御不能な突然の出来事と死の現実」というタイトルを付けることができそうです。
それでは、今回の聖書本文を読みましょう。
時と偶然
11 太陽の下、私は振り返って見た。足の速い者のために競走があるのでもなく、勇士のために戦いがあるのでもない。知恵ある者のためにパンがあるのでもなく、聡明な者のために富があるのでもなく、知者のために恵みがあるのでもない。時と偶然は彼らすべてに臨む。
「競走」という言葉が使われていることから、私自身は高校生の時に学んだ、ヘレニズム社会の「ギムナシオン」(総合教育・体育施設)を、この箇所から思い浮かべました。ヘレニズム時代のエルサレムにもギムナシオンが建てられましたが、それは、プトレマイオス朝支配下のコヘレトの時代ではなく、セレウコス朝支配下の時代になってからのようです(旧約聖書続編第1マカバイ記1章14~15節参照)。ただ、ギムナシオンはなかったとしても、ヘレニズムの影響で競技としての競走は、コヘレトの時代にもなされていたのでしょう。
しかし、その競走において、足の速い者が必ずしも勝つわけではないとされています。11節にはそれを含め、5つのことが記されています。以下のようにまとめることができるでしょう。
| 聖句 | 人の能力 | 期待される結果 | しかし現実は |
|---|---|---|---|
| 足の速い者のために競走があるのでもなく | 足速さ | 勝つはず | 勝つとは限らない |
| 勇士のために戦いがあるのでもない | 勇敢さ | 勝つはず | 勝つとは限らない |
| 知恵ある者のためにパンがあるのでもなく | 知恵 | 食べ物(生計)を得るはず | 得られるとは限らない |
| 聡明な者のために富があるのでもなく | 聡明さ | 富を得るはず | 得られるとは限らない |
| 知者のために恵みがあるのでもない | 知識・理解 | 評価・恵みを受けるはず | 受けられるとは限らない |
ここまで見れば、もう瞭然としています。人は、自分自身で未来の全てを決めることはできず、「時と偶然」によって人生を左右されるのです。ここでの「時」は「エート / עֵת」です。第5回でお伝えしましたが、コヘレトはエートを「神の御手の中にある時」としています。
しかし、コヘレトは一貫して、「人間は『神の御手の中にある時』を知ることができない」と語ります。そして、その人間の不可知性を示す出来事を、コヘレトは「偶然」(ペガ / פֶגַע)と呼んでいるのです。
ペガは、日本語の「たまたま」という軽い偶発性ではなく、人間にはどうすることもできない「制御不能な突然の出来事」を意味しています。9章11節から始まる第3部では、ペガが大きな主題として扱われていきます。
人間は動物に勝らない
12 人は自分の時さえ知らない。不幸にも魚が網にかかり、鳥が罠(わな)にかかるように、突然襲いかかる災いの時に、人の子らもまた捕らえられる。
12節で、エート(時)が再度、強く前面化しています。この場合のエートは暗に、死の時、あるいは破局的な時を示しています。そして、「人はそれを知ることも、支配することもできない」という洞察が示されています。その意味で人間は、網にかかる魚や、罠にかかる鳥と同じであることが伝えられています。それがペガであり、ペガを人間だからといって避けることのできない「避け難い災禍」として描くのが、コヘレト的用法なのでしょう。
11~12節は、ペガ(制御不能な突然の出来事)という、第3部の主題を提示しているといえます。このテーマは、古代作品にとどまらず、歴史上、文学において普遍的なものとなってきました。今回は、このテーマを小説という形式で深く扱っているロシア文学の三作品と併せて読むことにします。
『イーゴリ遠征物語』と併せ読む
12世紀末に書かれたとされる『イーゴリ遠征物語』は、原本は存在せず、18世紀に発見された写本をもとに刊行されました。イーゴリというロシア(ルーシ)の武将が、遊牧民であるポロヴェツ族(クマン人)の征伐のために出兵する様が、叙事詩的に伝えられています。
イーゴリの出兵時、日食が起こったことから話は始まります。イエスが十字架にかけられたとき、闇が全地を覆いました。これは自然現象を超えた、神の歴史への介入の印です。『イーゴリ遠征物語』の冒頭の日食もまた、当時のルーシの人々にとっては、来るべき破局を告げる神の警告として理解されました。
民衆は「不吉だ」と言いますが、イーゴリは自分の意地を優先し、警告を退けて出兵します。ここに、コヘレトの言う「自分は勝てる」と思い込む人間の愚かさがあります。イーゴリは、しばしの間勝利を収めます。その情景は、次のように伝えられています(同書22ページ)。
広野(ひろの)を越えて 飛び行くは
嵐に追わるる 鷹(たか)ならず。
群れなせる小鴉(こがらす) 大ドンさして ひた奔(ばし)る
しかし、コヘレトが言うように、「勇士のために戦いがあるのでもない」(11節)のです。イーゴリの軍勢もまた、最初の勢いは失せ、やがてポロヴェツ族の軍に包囲され、なす術なく崩れていきます。彼は自分が勝てると思い込んでいましたが、その裏側には、自分のエート(時)を知らない、人間の盲目さがありました。
コヘレトが語るところのペガ(制御不能な突然の出来事)が、ついにイーゴリを包み込むのです。イーゴリは敵に捕らえられます。捕虜となったイーゴリは故郷を思い起こし、また故国にとどまっていた妻ヤロスラヴナはその城壁の上で、夫の帰還を嘆いて祈ります。ここに、12節の「人は自分の時さえ知らない。不幸にも魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように」という言葉が、そのまま映し出されています。
『スペードの女王』と併せ読む
ロシア近代文学の先駆けであるアレクサンドル・プーシキンの『スペードの女王』(1834年)もまた、9章11~12節の主題を鋭く物語化した作品です。舞台は、トランプ賭博の世界です。主人公ゲルマンは、「自分は勝てる」という確信に取りつかれた人物で、その確信は、節度を超えて彼を支配していきます。彼は、賭博の必勝法を知っているとうわさされる伯爵夫人から、その秘密を聞き出そうとし、ついには彼女を脅して死に追いやってしまいます。
この伯爵夫人の死が、実はゲルマンに対する最初の警告であったのです。しかし、彼はその警告を受け止めませんでした。小説では、亡霊となった伯爵夫人が彼に現れ、「3・7・エース」という賭けの必勝の組み合わせを示します。これは勝利の約束ではなく、殺害された伯爵夫人の怨嗟(えんさ)の亡霊による、ゲルマンに対する罠だったのです。しかし、彼はその霊示を全面的に信じ込んでしまい、三度の賭けに突き進みます。
最初の二度は、賭けに勝利します。しかし、三度目の賭けの時、勝ちの組み合わせであるエースが、スペードの女王に変わってしまい、ゲルマンは決定的に破局します。なぜ勝ちの組み合わせが変わったのかを、小説は明らかにしていません。しかし、伯爵夫人を死に追いやった彼の傲慢と罪が、「裁き」として現れている瞬間を象徴していると読むことができます。
ここで起きた破局こそ、コヘレトが語るペガ、すなわち人間がどれほど勝利を確信していたとしても、それを一瞬で覆してしまう「制御不能な突然の出来事」そのものなのでしょう。
『イワン・イリイチの死』と併せ読む
ロシア近代文学の代表作の一つといえる、レフ・トルストイ晩年の作『イワン・イリイチの死』(1886年)を、最後に紹介します。主人公イワンが死去したところから、この小説は始まります。イワンは、裁判官として成功の人生を歩んできました。しかし、冒頭に描かれている死の原因となる大病が、彼を襲います。いわばペガが彼に訪れたのです。
この病は、彼の外面的な成功を一挙に無力化し、彼の人生が実は虚偽によって支えられていたことを暴き出します。妻も、子どもたちも、裁判官仲間も、担当した医師も、彼の苦痛に真剣に向き合おうとせず、イワンは孤独の中で、自分がこれまで築いてきたものに向き合わせられます。12節の「人は自分の時さえ知らない。不幸にも魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように」という言葉が、イワンの姿に重なります。
細部には立ち入りませんが、前述の2作と同じように、「制御不能な突然の出来事」が描かれている小説であるといえます。ただ、2作との違いもあります。それは、下男であるゲラーシムという人物の存在です。彼は、イワンのような、この世の成功者ではありません。しかし、病人の下の世話を喜んで行うゲラーシムは、イワンにとっては光のような存在であったのです。
「空しい」を繰り返すコヘレトの言葉は、ゲラーシムのような存在に関するくだりがあまりありません。むしろ、そういう存在がほとんど伝えられていない『イーゴリ遠征物語』や『スペードの女王』といった作品の方が、この書と重なって見えるかもしれません。
しかし、こうした光が、コヘレトの言葉の中に全く存在しないということではありません。前回お伝えした9章7~10節もその一つでしょう。また、第3部である9章11節~12章7節には、私自身も大好きな、大きな「光となる言葉」があります。それがコヘレトの言葉における「クリスマス」なのかもしれません。アドベントを過ごす今、その光を待望しつつ、歩んでいきたいと考えています(続く)
◇
















