ペガとしての町を救った貧しい男の出来事
明けましておめでとうございます。2026年の皆様の歩みの上に、主の祝福をお祈り申し上げます。
さて、教会歴では降誕節を過ごしています。日本では、12月25日が過ぎるとクリスマスは既に終わってしまったように思えますが、聖書ではこれからいろいろな人物が活躍する時です。そこには、マリア、ヨセフ、羊飼いたち、ヘロデ、東方の博士たち、シメオン、アンナなどが登場します。
その中に一人、沈黙を貫いている人物がいます。それがヨセフです。降誕劇(ページェント)においては、「今夜、泊まれる部屋はありませんか」というようなセリフがあるかもしれませんが、聖書にはそのような文言はありません。降誕の話が伝えられているマタイ福音書でもルカ福音書でも、ヨセフは一言も言葉を残していません。
ヨハネ福音書では、「これはヨセフの息子のイエスではないか」(6章42節)という人々の言葉があるだけで、ヨセフは既に歴史から去っている感があります。マルコ福音書においては、彼の名前すら出てきません。福音書記者たちにとって、ヨセフの名はそれほど大きなものではなかったのでしょうか。
ヨセフは、マリアのように言葉によるメッセージを残した人物ではありません。寡黙であり、歴史上に大きな名前を残したわけではありません。しかし、身重になったマリアを受け入れ、幼子イエスをヘロデから救うことによって、イエスの救済史においては重要な役割を果たしています。
冒頭に掲載した、ヘールトヘン・トット・シント・ヤンスの「夜のキリスト降誕」は、目を凝らして見てみますと、右上にヨセフの姿が浮かび上がります。まさにこの絵が伝えるヨセフは、聖書における彼の姿なのかもしれません。
今回は、9章13~18節を読みます。ここでもヨセフに大変良く似た、「重要な役割を担ったが、人々の記憶に残らなかった人物」の姿が伝えられています。
13 次もまた太陽の下で私が見た知恵であり、私にとってただならぬことであった。14 小さな町があって、僅(わず)かな住民がいた。そこに強大な王が攻めて来て町を包囲し、これに向かって巨大な塁を築いた。
15 その町に貧しいが知恵のある男が現れ、知恵によって町を救った。けれども、この貧しい男を人々は記憶に留めることはなかった。16 そこで、私は言った。知恵は武力にまさるが、貧しい男の知恵は侮られ、その言葉は聞かれることがない。
17 静けさの中で聞かれる知恵ある者の言葉は、愚かな者たちの支配者が叫ぶ声にまさる。18 知恵は武器にまさる。一つの過ちは幸せをことごとく損なう。
パレスチナは古くから、周辺の大国による支配の変遷を経験してきました。紀元前586年のバビロンによる南ユダ王国の滅亡と、その後のバビロン捕囚の後、ペルシャ帝国のキュロス王の政策によってユダヤ人は帰還を許されましたが、パレスチナはなおペルシャ帝国の支配下にありました。紀元前323年のアレクサンドロス大王の東方征服後はヘレニズム世界に組み込まれ、その後の後継者争いによって、プトレマイオス朝エジプトの支配下に入りました。
さらにその後、プトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアがこの地域の支配を巡って争うようになります。コヘレトの時代は、こうしたヘレニズム諸王朝の勢力が拮抗(きっこう)した「陣取り合戦」の緊張の中にあった時代であったといえましょう。
今回の話は、こうした歴史状況のものとして読むことができるかもしれません。小規模な町は、いつどちらの大国の支配下に置かれるか分からない時代だったのです。14節に記されている「小さな町」が、プトレマイオス朝支配下の町であったのか、セレウコス朝支配下の町であったのか、あるいは遠いよその国の町であったのかは分かりません。
しかし、その小さな町が他の大国に包囲されたのです。「巨大な塁を築いた」というのは、その大国の軍隊によって町が直ちに攻め滅ぼされたということを意味するのではなく、他の地域との往来や交易を断たれ、兵糧攻めにされた状況を意味しているのでしょう。ですから、包囲によって遮断された往来や物資の流れが、少なくとも一時的に回復しさえすれば、この町は救われることになります。
ここで伝えられているのは、知恵によって、そのようなことを成し遂げた一人の貧しい男がいた、ということでしょう。つまり、強大な王の軍隊を正面から打ち負かしたということではなく、包囲によって生じていた遮断を解き、状況を好転させたのだと考えられます。極限的な状況を、たとえ一時的であっても回復させた人物が存在した、ということなのです。
前回、コヘレトの言葉は3部構成になっており、第3部である9章11節以下の主題は、「ペガ / פֶגַע」という一つのヘブライ語で言い表すことができるとお伝えしました。「偶然」と訳すことのできるこの言葉は、「制御不能な突然の出来事」を意味しており、今回の箇所からは3つのペガを読み取ることができます。
第一は、小さな町に強大な王が攻めてきて町を包囲したというペガです。コヘレトの言葉のこれまでの内容との関係でいうならば、その町の住民が義人であったか悪人であったかは関係なく、つまり因果律ではなくして、町が災禍に見舞われたということです。
第二は、兵糧攻めという、人間の生活時間の外側から突然襲いかかるペガです。兵糧攻めとは、一瞬の災いではなく、いつ終わるか分からない、人間の生活時間そのものを侵食していくものです。どれくらいの期間塁が築かれたのかは伝えられていません。1年であったかもしれませんし、もっと長かったかもしれません。12節には「人は自分の時さえ知らない」とありましたが、このペガは、終わる時を知らされない、私たちが経験したコロナ禍のようなペガであったのです。
第三は、町を救った貧しい男もまたペガであったということです。その知恵は、誰にも予測できないものでした。町を救った男自身も、その救いは予測できなかったことでしょう。それは、ある日夢によって婚約者の妊娠を知らされたヨセフに起こったことと、ある種の類似性があるかもしれません。ただし、ヨセフは地味にでも記憶されましたが、この男の場合、記憶されることはなく、やがて忘れ去られていきます。
コヘレトがここで伝えているのは、ペガは忘れられてしまう出来事でありながら、なお何らかの意味を帯びて現れるということかもしれません。しかし、17~18節では、さらなる冷静さをもって、そのようにして見いだされた意味さえも、小さな過ちによって容易に損なわれてしまうことが示されています。
ドストエフスキーの『白痴』と併せ読む(1)
今回からは、コヘレトの言葉とフョードル・ドストエフスキーの『白痴』を、何回かに分けて併せ読んでいきます。
『白痴』は、亀山郁夫訳の文庫版では4冊に分かれている長編小説です。主人公は、白痴とされるムイシキン公爵で、この人物を中心に物語が展開していきます。ムイシキン公爵の生きざまと、コヘレトの言葉で示されるペガは、大変強く響き合っているように思われます。
今回は、亀山訳の『白痴(1)』、すなわち小説全体の第1部を、コヘレトの言葉と読み併せます。第1部は全16章から成っていますが、その中心的な出来事は、13章以降に描かれる第1部のヒロインであるナスターシヤの誕生日の場面にあります。
この誕生日の場面では、ナスターシヤを巡って、ムイシキン公爵、ロゴージン、ガーニャという3人の男性による、緊張した駆け引きが展開されます。そこでは、当初からナスターシヤにアピールしていたガーニャに、ロゴージンが金で打ち勝つという不条理がなされようとします。その不条理は、コヘレトの言葉の今回の箇所でいえば、力の差によってあらがうすべもなく、小さな町が強大な王に襲われる場面と重ねることができるでしょう。
しかしそこに、コヘレトの言葉における町を救った貧しい男のごとく登場するのが、白痴とされているムイシキン公爵です。彼は、金の力によってナスターシヤに近付こうとしていたロゴージンとガーニャとは違い、真の愛、すなわち見返りを求めない愛によって、アプローチするのです。
その後の展開は小説を読んでのお楽しみとしたいところですが、ムイシキン公爵はそこで、金の力によって愛を獲得しようとする不条理にあらがい、ほんの一瞬(ここが、ドストエフスキーが彼を白痴としている理由だと思います)ではありますが、別の可能性を開きます。しかし彼の行為は、コヘレトの言葉で伝えられている、極限状況の町をたとえ一時的であっても救った一人の貧しい男のように、やがて忘れられ、泡のように消えていくのです。
次回以後、『白痴』とコヘレトの言葉の10章以後を読み併せながらコラムを進めていきます。(続く)
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