明けましておめでとうございます。新年が始まりました。新年を迎えるに当たって、私たちはいろいろな計画を立てたり、人生の目標を持ったりすると思います。また私たちは、勉強や仕事をしなければいけません。そして日常生活では、いろいろなコンテンツに時間を使ってしまうこともあると思います。
よく言われているのは、私たちには、優先度の「順番」があるということです。小石を先に器に入れてしまえば、大きな石は後から入れられません。キリストはマリアについて「大切なものを選んだ」と言い、「本当に必要なものは多くはなく、一つだ」と語られました。
それはシンプルに言えば、神を愛し、神と共にいるということであり、別の言い方をすれば、神の御名に栄光を返すということです。私は、読者の皆様の多くが、神を愛していることを知っていますが、新年の初めに、最も大切なことをシェアしたいと思います。
さて、主の祈りは「御名があがめられますように」から始まります。なぜ名前が大切なのでしょうか。名前とは何でしょうか。日本のアニメでは、自分の名前を忘れてしまうキャラクターがたびたび登場します。もしくは、愛する恋人の名前を忘れてしまいます。そして、名前を思い出すことが、自分自身や相手の全存在そのものを取り戻すことのように重要視されます。
日本の祭りなどでは、より多額の寄付をした人の名前が大きく掲載されたりします。また、不祥事を起こした人などは、自分の名前に汚名が着せられるよりは、極端な選択をすることで、自らの名誉を守ろうとすることもあります。なぜなら、名前はその人の全人格を代表するもの、時にその人自身の肉体の命より大切なものだからです。
さて、基本的なこととして、クリスチャンは神様を信じていますが、彼を見ることはできません。このようにあります。
唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。(1テモテ6:16、新共同訳)
しかし私たちが、神の名を知り、その名前を賛美し、「御名があがめられますように」と祈ることで、神様との愛の交わりを持つことができるのです。歴代誌第二7章16節では、主の目と心は、その名が置かれている宮にいつもあると約束されています。またキリストは、神の愛が私たちの中にあり、主が私たちの中にいるために、神の御名を知らせてくださったのだと語られました。
わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。(ヨハネ17:26)
それでは私たちは、神の名にどれほど関心を持っているでしょうか。皆さんは、神の名を知っているでしょうか。私たちは知っていると思っています。でも実は、神の名は隠された秘密です。これは、神によって啓示されない限り、誰も知ることのできないものです。
例えば、神はモーセにだけ、人類史上初めて「ヤハウェ」という名を啓示されました。それ以前の人、アブラハム、イサク、ヤコブなどは、この名を知りませんでした。アブラハムは神の友と呼ばれた人ですが、神はその名を彼に啓示されることはありませんでした。
神はモーセに仰せになった。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに全能の神(エル・シャダイ)として現れたが、主(ヤハウェ)というわたしの名を知らせなかった。」(出エジプト記6:2、3、新共同訳)
この名前の意味は「わたしはある」というものです。そして私たちは、先日クリスマスを祝いましたが、ついに子なる神が来られ、イエスという名前が啓示されました。皆様は、この名前の意味、またヤハウェという名前との関係を知っているでしょうか。
イエスという名前はヘブル語で表記すると、モーセの後継者であるヨシュアと同じ名前となります。そして、その名の最初の部分は、ヤハウェという名前と同じなのです。
「יְהֹוָה」:ヤハウェ
「יְהוֹשׁוּעַ」:ヨシュア/イエス
ヘブル語は右から読むのですが、最初の3文字が共通していることに気付かれると思います。それでは、ヨシュア/イエスという名の左半分の意味はというと「救い出す」という意味です。
それは「わたしはある」という方が、私たちを罪と滅びから救い出されるということです。つまり、イエスの名とは「ヤハウェは救い」という意味なのです。英語では「Jehovah-saved」と解説されています(e-Sword H3091項参照)。そして、その名の通り、キリストが十字架で私たちの罪の贖(あがな)いを成し遂げてくださいました。
日本には扇子というものがあり、それは多くの部分によってできていますが、扇の要(かなめ)によって一つになっています。しかし、もし要が取れてしまうと、扇子はバラバラになってしまいます。同様に私たちは、勉強し、仕事をし、その他いろいろなことをするのですが、主の救いに感謝し、神の名があがめられますようにという思いでいれば、この一点がしっかりしていれば、どんなに忙しい生活の中でも、神に喜ばれる歩みをすることができます。聖書はこのように勧めています。
食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(1コリント10:31)
そして神に感謝し、神を愛し、神の名に栄光を返すとは、隣人を愛することを実践していくことと同義です。ヨハネの手紙第一4章20節にはこうあります。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」
そして、さらに大きなチャレンジは、私たちの敵を愛するということです。主はマタイによる福音書5章44節でこう言われました。「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
近年は、世界中で戦争の雰囲気が高まっています。あの国が悪い、あの政治家が問題だと言って、お互いを非難し合っています。しかし、どこかの国や政治家だけが悪いというだけでは、戦争は止まりません。
私たちは知っています。私たちは皆が罪人であり、自分の中にこそ問題があるということを。使徒パウロは、自分は罪人の頭(かしら)だと告白しました。ですから私たちは、国の指導者のために祈るよう、聖書によって勧められています。
まずは、身近な人の間で、愛を実践しましょう。私たちは学生の頃、自分と年の近い人、気の合う人や好感の持てる人と多くの時間を過ごすものです。しかし、教会は違います。自分と年の異なる人、フィーリングが合わない人、考え方が違う人も神の家族です。いきなり友人にはなれなくても、お互いに積極的にあいさつすることはできるはずです。そして、お互いの名前を覚えましょう。自分の名前を相手が覚えてくれると、うれしいものです。それは、愛の実践でもあります。
また忙しい一年が始まります。よく言われることですが、漢字では、忙しいというのは「心」を「亡くす」と書きます。しかしそのような中でも、本当に大切なことを一つ心に留めておけば、私たちは大丈夫です。それは、神の名を心に留め、その名に栄光を返すということであり、言い換えれば、神を愛することであり、周りの人を愛するということです。
愛を実践しようとするときに、自分の中に愛の欠けを覚えたら、そのような私たちを無条件に、一方的に愛してくださる「わたしはある(I am who I am)」である神、十字架の死を避けずに、私たちを救い出してくださったイエスに目を留め続けましょう。
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