世界共通の病理と共通の処方箋
前回までは、啓蒙思想的な個人の、自由追求の在り方の歪みや限界について書いてきた。簡単にいえば、根無し草的バラバラな個人が、不安や孤独、むなしさを抱え、生きがいを失っていること。そして、その裏返しの故に自国ナショナリズムの優位性やオリジナル性を必死に守ろうとする精神構造。また、社会のあらゆる面における分断などについてである。
では、それに対する処方箋は何かといわれれば、自分以外の大きな存在や身近な存在とのつながりを回復することだといえる。それは、大いなる存在としての天上の神様や自然であり、身近な存在としての家族や友人、また地域の隣人たちである。
しかし、その本丸に迫る前に、その処方箋は必ずしも日本人固有のものである必要はないという点を論じたいと思う。というのも、われわれが抱えている病理に関しては今まで確認してきたように、程度の差こそあれ、全世界の多くの現代人が共通して抱えている問題である。であれば、その処方箋もまた、世界と有機的につながっているものであるはずである。
なぜこのようなことをあえて主張するのかといえば、日本の言論人の中には、西欧には西欧人の心を満たす施策(宗教)があり、日本人(アジア人)の情緒は西欧のそれとは異なるため、日本(アジア)には日本(アジア)独自の処方箋があるはずだと主張される方々がとても多いからである。
確かに、西欧と日本(アジア)の文化は大きく異なるため、日本には日本独自の感性があると言いたい気持ちもよく分かる。しかし、私がさまざまな国や地域で生活をし、そこにいた多様な国の人々と友人となり、膝を突き合わせていろいろな話をしたところ、とある確信を得た。
それは、確かに表面的な文化や風習に多少の差はあるのだが、心の深い部分に関しては、「違い」よりも「共通」することの方がはるかに多いというものである。考えてみれば、同じ人間なので当然なのだが、共通する感性や「心の襞(ひだ)」を持っているのである。
そうでなければ、芥川龍之介が海外の作品に心を動かされて、『蜘蛛の糸』という名作を書くことはなかっただろうし、その作品が多くの日本人に読まれるということもなかったであろう。この章では、さらにこのことを明確に証明すべく、世界と日本がどれくらい有機的につながっているのかということを書かせていただこうと思う。
世界を魅了する日本アニメが意味するもの
まずは日本のアニメが世界でどれくらい人気があるか、映画の興行成績を見てみよう。
「すずめの戸締まり」(2022年)―1億7千万ドル
「君の名は。」(2016年)―1億5千万ドル
「THE FIRST SLAM DUNK」(2022年)―1億3600万ドル
「千と千尋の神隠し」(2001年)―1億1760万ドル
「STAND BY ME ドラえもん」(2014年)―1億443万ドル
「ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」(1998年)―9555万ドル
「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」(2020年)―8843万ドル
どの作品も、日本を代表する作品であるが、海外でも莫大(ばくだい)な興行成績を収めている。特に「千と千尋の神隠し」「新海誠作品」「鬼滅の刃」などは、多分に日本的な情緒や文化を多く含んだ作品である。そして、それらが広く受け止められているのを考えれば、「日本人の情緒は日本人にしか分からないはずだ」などと言う必要もないのではないだろうか。
そしてもちろん、海外の作品群もまた日本人に広く受け入れられている。それは自然の美しさを感じ、家族や友人・恋人との関係を大切に思い、大いなる存在、宇宙や生命の神秘に打たれる心が、どの国の人の心にも共通しているからである。
花鳥風月―自然との対話―
自然というものに関して少し深堀りさせていただくと、『バカの壁』の著者として有名な養老孟司先生の言葉がとても印象的である。彼は、私がこれまで書いてきたような、不安や孤独に立ち向かう処方箋として、「花鳥風月」すなわち自然とのつながりを強調している。
お互いを利潤の追求のために利用したり、ひどい場合には、だましたり、操作したりする人間関係の中で、われわれは疲弊し、ストレスを抱えている。そして、孤独が癒やされるはずの人々との付き合いの中で、さらなる孤独やむなしさを感じるということもある。
しかし、日本人は昔から花鳥風月を身近なものとして感じ、季語を入れて俳句を詠み、自然を愛(め)でてきた。そして、自然を大切にし、自然に抱かれるような体験をすることで、私たちの孤独感が癒やされていく部分があると先生は語られていて、とても共感した。
しかし何度も言うが、このような自然を美しく感じる心、自然の中にいると心が安らぐ感覚というのは、日本人だけの専売特許ではなく、世界中の全ての人の心に共通している。欧州にしても一部の都心部を除けば、今でも広大な田園風景が広がっているし、少し昔にさかのぼれば、人類は皆が大自然に抱かれて暮らしていたのである。
もちろん国によっては、年中暑かったり、四季が無かったりと、自然形態は多少異なる。しかし、それを言ったら北海道と沖縄もかなり違うが、それでも自然の美しさや偉大さ、恵みや厳しさを感じるという意味では共通しているのである。
アニミズムと―神教の交差点
ところで、西欧世界においては、自然よりも創造神を中心としていて、自然というのは人間が管理し利用する対象であるという言説がある。このように聞くと、アジア的な文化と西欧的な文化の間には大きな乖離(かいり)があるように思われるかもしれない。
日本人として唯一神よりも、多神教(やおよろずの神々)の方に親しみを覚えるという方々もいると思う。そのこと自体は、日本という文化や伝統の中で育った者として理解できる。「もののけ姫」をはじめ、山や自然の中には神々がいるというアニミズム的な世界観が描かれている作品が、日本人の心の琴線に触れるのもよく分かる。
アニミズムとは、太陽や巨木、動物などを敬う自然崇拝的な信仰である。確かに人間よりもはるかに長い寿命を持っている大樹を見て、そこに神性を感じるというのは自然なことであるし、はかない自分の人生を悟るときに、夜の月の美しさに打たれて、それを信仰の対象とするというのもうなずけることである。
何事にも動じず、将来への不安もなさそうな象や牛を神としてあがめるというのも、理解できないことではない。結果として、それぞれの感性の数だけ神々が生み出されているというのがアニミズム(自然崇拝)的世界観である。
ところで、人類はいにしえから自然に対し、神性や畏敬の念を感じてきたのであるが、なぜそのような感覚を抱くのかに関して、2つの可能性を考察することができる。1つは、それらの存在(巨木や月)が実際に神々であるというものである。もう1つは、それらも人間と同様に、天上の神様によって造られたものであり、造り主の神性を反映している故に、神性を感じるというものである。
それはこういうことである。例えば、月は自分自身では光を発していないが、太陽の光を反射(リフレクション)しており、人の目には美しい光として感じる。同様に大自然が神々しく感じられるとしても、それら自体が神々なのではなく、創造主の神性を反映しているのだと考えることができるのである。
実は、日本の神道の考えも、これに似ている。日本において、しめ縄が巻かれている巨木や巨石などは、それ自体を神としてあがめているというよりは、その背後に「ある種の」神性を感じているのである。大自然が神の神性を反映しているという点に関して、聖書はこのように語っている。
神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められる…(ローマ人への手紙1章20節)
であるから私たちは、自然の中に神性を感じる心と、天上の神様を敬う心のどちらか一つを二者択一で選ばなければならないわけではない。先ほども言ったように、どの国の人であっても、自然を美しく感じる心を持っている。その心と、天上の神様を敬う心というのは全く矛盾しないのである。そして、そのような「心の襞」は、西欧人「のみ」、日本人「のみ」、が有しているのではなく、全ての国の人々が共通して持っているのである。
私が心から願うのは、あなたを含む全ての人の内にあるその柔らかく繊細な「襞」が、敵対心や狭量な精神によって傷ついたり、こわばったりすることなく、天からの祝福と地の恵みを日々感じ続けることができるように、ということである。
お知らせ
私は現在オランダに住んでいますが、夏の終わりに一時帰国予定です。そこで、皆様とも直接お会いしたいと思い、JTJ神学校同期の進藤龍也牧師を誘って、ゴスペルトークイベントを企画させていただきました。詳細はまた告知させていただきますが、興味のある方は、ご予定を空けておいていただけるとうれしいです。
日時:8月30日(土)午後2時より
場所:[罪人の友]主イエス・キリスト教会
〒334−0013 埼玉県川口市南鳩ヶ谷5丁目16−18
本稿は拙著『Gゼロ時代の津波石碑―再び天上の神様と繋がる日本―(21世紀の神学)』よりの抜粋です。全文をお読みになりたい方は、ぜひ書籍をご覧ください。
山崎純二のユーチューブチャンネル「21世紀の神学―Gゼロ時代の津波石碑―」の方でも、さらに踏み込んだ内容が発信されていますので、興味のある方はこちらもご視聴いただけます。
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