「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである。」――かう云(い)ふ唯物主義者グウルモンの言葉は我々の心を喜ばせるであらう。それは我々の腰に垂れた鎖を截(き)りはなす言葉である。が、同時に又(また)我々の腰に新らしい鎖を加へる言葉である。のみならずこの新らしい鎖も古い鎖よりも強いかも知れない。(引用元:青空文庫「西方の人」、底本:『現代日本文学大系43芥川龍之介集』(筑摩書房、1968年))
前回は、「聖書のアダム」と、科学が追う「Y染色体アダム」を重ねて考察し、私たちは皆、共通の根から生まれた同じ人間だという事実を確認した。その上で、「ぼんやりとした不安」や孤独、むなしさを抱えた私たちが「自己を措定(そてい)した力」についても言及させていただいた。
それは、キルケゴールの言葉をそのまま引用すれば、まさに啓蒙思想が古臭いとして切り捨てた宗教であり、芥川が言及した天上の神様である。日本人に分かりやすく言い換えれば、それは天に感謝する心や信仰だと言い換えてもよい。
「我々を造つたものは神ではない、神こそ我々の造つたものである」。このような唯物論的啓蒙思想が、私たちの腰に新しい、より強い鎖を加えているという芥川の洞察が正しいのであれば、私たちは「新しい」誤った道を突き進むのではなく、立ち戻る必要があるのである。
例えば、山や森の中で道に迷ったときに、お構いなしに進み続けるのは、勇気ではなく「愚かさ」である。むしろ動かずにその場に留まっていれば、誰かが捜索に来てくれるかもしれないが、進歩することこそが善だと決めつけて突き進めば、さらに深い森の中に迷い込むことになる。
しかしあなたは、同じ芥川の言葉を引用して、こう言われるかもしれない。宗教もまた「古い鎖」ではなかったのか。新しい鎖が信用できないものだとしても、古い鎖に再びつながれるベキだと言うのはおかしな話ではないだろうか。
このことを考えるためには、日本と世界の宗教的な状況について丁寧に丁寧に論じていかなければならない。まず日本に関しては、いろいろと特殊な条件が重なって、非常に強い宗教アレルギーの状態になってしまっている。このことは、薄々お気付きだとは思うが、少し時代をさかのぼって解きほぐしてみたい。
日本人の宗教観を歪めた裏の歴史
・キリスト教が禁教となった背景
キリスト教が日本に最初に伝わったのは、1549年にフランシスコ・ザビエルというイエズス会の宣教師が鹿児島に上陸したときである。この時代、日本は戦国時代と呼ばれ、多くの大名が争っていた。
当初、織田信長は、キリスト教に好意的な姿勢を示していた。しかし、織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、宣教師が植民地支配の尖兵であることを察知し、1587年にキリスト教を禁じる太閤教書を発布した。さらに徳川家康もこの政策を継続し、1614年にはキリスト教徒の迫害が本格化した。
キリシタン大名たちに対する政治的圧力も強まり、多くが強制的に仏教や神道に改宗させられた。そして、彼らの領内にいたキリシタンは、仏教に改宗するか、隠れキリシタンとなるか、島原の乱のような大規模な一揆を起こして殺害されるかなど、さまざまな苦難の運命をたどったのである。
・恐怖の監視社会「五人組」制度の実態
皆様も社会の授業で名前くらいは習われたと思うが、当時、五人組という制度があった。この制度の主な目的は、税の徴収、労働力の調達、防犯、消防などの公共的な任務を分担することにあったが、密告制度の側面も持っていた。
特に、キリスト教徒に対する密告制度としての側面があったことはあまり知られていない。組内からキリシタンが一人でも摘発された場合、その組全員が連帯責任を負い、死刑になることもあった。そして、そのような弾圧と摘発の中で、踏み絵が使われていくようになったのである。
・踏み絵と苛烈な拷問
踏み絵を踏むことを拒否した者は処刑されたが、それでもキリシタンは増え続けた。そのため、幕府は年齢や性別を問わず、次第により厳しい処置を取るようになった。中でも有名なのは、熱湯を使用した拷問である。熱湯に漬けては引き上げたり、柄杓(ひしゃく)ですくった熱湯を少しずつかけたりといった拷問が繰り返された。
・檀家制度の秘密―宗教統制の手段―
今でも日本の多くの家が、檀家制度の中に組み込まれていて、自分の家が何らかの「お宗旨」に属している方も多いと思う。これには、幕府が檀家制度を用いてキリスト教を排斥しようとした側面がある。つまり、全ての家庭をいずれかの仏教寺院の檀家として登録し、彼らの宗教的所属を明確にすることで、キリスト教徒の隠れる余地を減らし、仏教への帰属を強制したということだ。
・現御神と人間宣言の衝撃
その後、長い江戸時代を経て19世紀に入ると、西洋列強の圧力に直面した日本は、明治維新を経て近代化を図った。この過程で、国家の統一と国民の統制を図るために神道が国家神道として組織化されることになる。天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、国家神道は日本の帝国主義のイデオロギーを支える道具となった。
しかし、敗戦後の1946(昭和21)年1月1日に発せられた詔書の中で昭和天皇は、天皇を「神」とするのは架空の観念であると述べ、自らの神性を否定された。正確な表現については、ウィキペディアの「人間宣言」の部分を引用しておく。
朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ ――『新日本建設に関する詔書』より抜粋
現代語訳:私とあなたたち国民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ、単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。天皇を神とし、かつ日本国民は他より優れた民族とし、よって世界の支配者となる運命があるかのような架空の概念に基くものでもない。(引用元:日本国憲法の再誕)
しかし、戦時下においては、天皇は(自らそれを望んだわけではないにしても)、周りの人によって神格化されていた。そして人々は、「天皇陛下万歳」と叫びながら命を賭して戦ったのである。だから敗戦したとき、天皇が自らを「人間」と宣言したことは衝撃的であり、日本国民は既存の価値観や信仰に対する根本的な見直しを迫られることになった。そして、この精神的な空白期間に隆盛を始めたのが、さまざまな新興宗教である……。
・新興宗教が隆盛した土壌
戦前日本において公認されていた宗教は「キリスト教」「神道」「仏教」のわずかに3つのみであった。そして、非公認の団体は、「類似宗教」「疑似宗教」などと呼ばれていた。ところが現代においては、新興宗教は350〜400教団ほどあると推定されている。
なぜこれほどまでに多くの新興宗教が隆盛したかと言えば、戦後の宗教的・精神的な空白の中で、バラバラの個人が帰属する集団を潜在的に求めてきたというのが大きいと思われる。
とは言え、新興宗教に魅力がなければ、そこまで多くの信者を獲得することはなかったはずである。しかし、私が知っている新興宗教にも、それなりの真実性や魅力がある。それは、彼らが伝統的な宗教の教義の中から「良いとこ取り」をしているからである。つまり、新興宗教のエッセンスの元は、(全てとは言わないが)伝統的な宗教(神道、仏教、儒教、キリスト教など)にある場合が少なくない。
そして、ある新興宗教の教義は教祖の私的な解釈によって作り上げられ、いびつな偏りを含んでいる場合がある。そして、その私的な解釈や教えが正しいかどうかを判断するのは、集団的な熱気の中では不可能に近い。
ではなぜ、そもそも入り口の段階でそのことに気付くことができないのだろうか。それは、ほとんどの日本人が伝統的な宗教教育を受けてきていないからである。
・異端/カルト宗教を見抜く方法
私は偶然に牧師の家庭に生まれたために、部分的に抽出された教義ではなく、幼い頃から聖書全体を何度も素読(そどく)してきた。そして、そのように原典を知っている場合、新興宗教の教祖が部分的に教義を取捨選択したり、自己流に解釈したりしていると、すぐに気付くことができる。
例えば、私が中学生くらいの時、オウム真理教の麻原彰晃氏が小ロバに乗っている映像がニュースで流れた。私は、キリストがエルサレムに入場された場面を彼が真似しているということにすぐに気付き、とても滑稽に感じたのを覚えている。
また大学生の頃、とある新興宗教に勧誘されたことがあった。その時、彼らが「第三のアダム」うんぬんという話を始めたので、それが聖書から逸脱したものであることがすぐに分かった。理由を詳しく説明すると長くなるが、創世記に書かれている「第一のアダム」、新約聖書に書かれている「第二のアダム」という概念にはなじみがあったが、「第三のアダム」というのは、聖書に一度も出てこない概念である。そのため、彼らが聖書の内容を独自に発展させていると、すぐピンと来たのである。
全ての新興宗教を一概に否定するわけではないが、信仰に入る際には、その教義がどこから来ているのか、教祖の私的解釈によってオリジナルな原典の意味が曲解されてはいないか、周りの人々の熱狂的な雰囲気にのまれてはないか、自分の孤独と不安を埋め合わせるために依存的になっていないかなど、さまざまなことを慎重に吟味する必要がある。
それは、ひとたびカルトと呼ばれる集団や宗教に入ってしまうと、人生を棒に振る可能性があるからである。ところが、宗教を避けてきたために伝統的な宗教の基礎的な教義をよく知らず、その故に、逆に歪んだカルトに陥ってしまうというアイロニーがあるのが、胸の痛む実態である。
・宗教アレルギーとなった日本
いかがだろうか。禁教の歴史、お互いを監視する五人組、棄教を迫られる踏み絵と拷問、強制的にいずれかの宗旨に組み入れられる檀家制度、国家神道(天皇=現人神)が絶対的だった戦中、信じていた全てが瓦解(がかい)した戦後、その空白を埋めるように隆盛した新興宗教やカルト教団、このように一連の流れで見ていくと、いかに特殊な歴史の中で、日本人の宗教観が歪められてきたのかがお分かりいただけると思う。
これでは、いかに全世界の人に共通する「大地の岩盤」「自己を措定した力」が天上の神様だとしても、それを素直に受け取るのが難しく、日本人が宗教にアレルギーを持つ体質となってしまったというのも仕方がないように思う。そして、このようなマイナス面の現状認識から始めないことには、いくら自分の宗教の良さを喧伝(けんでん)したとしても、それは日本人の心には伝わらない。私たち日本人が宗教にアレルギーを持つようになってしまった歴史を学び、人々のイタミや気持ちに寄り添い、理解しようと努めた上で、「信仰」について対話をする努力を続けたいと思う。
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本稿は拙著『Gゼロ時代の津波石碑―再び天上の神様と繋がる日本―(21世紀の神学)』よりの抜粋です。全文をお読みになりたい方は、ぜひ書籍をご覧ください。
山崎純二のユーチューブチャンネル「21世紀の神学―Gゼロ時代の津波石碑―」の方でも、さらに踏み込んだ内容が発信されていますので、興味のある方はこちらもご視聴いただけます。
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