今回は、8章1~9節を読みます。私はこの箇所を一つの段落と捉えています。
ダニエル書とコヘレト
1 誰が知恵ある者でありえよう。誰が言葉の解釈を知りえよう。知恵はその人の顔を輝かせ、その顔の険しさを和らげる。
前回お伝えしましたように、8章1節aは、7章23~24節と共に、コヘレトの言葉全体の集中構造分析における中核部(7章25~29節)を挟んでいる言葉です。この場合、8章1節aは、修辞法的には7章23~29節にかかっていますが、内容的には8章1節以下で一つのまとまりになっています(前回の文末注参照)。
「誰が知恵ある者でありえよう」に続けて、「誰が言葉の解釈を知りえよう」とあります。この「言葉の解釈」という表現について、ダニエル書2章からの影響を指摘しているのが小友聡氏です(小友聡著『コヘレトと黙示思想』29~30ページ)。小友氏はその考察によって、「コヘレト書(の著者)がすでにダニエル書を認知していたか、さもなければ、両者が共通の時代思潮を背景にしていると考えざるをえない」(30ページ)と述べています。
そしてそのことから、コヘレトの言葉の執筆年代を、ダニエル書のそれである紀元前160年ごろよりも後としています(同著『VTJ旧約聖書注解 コヘレト書』38ページ)。私は「コヘレトがダニエル書を知っていた」ということについては、妥当な見解と考えます。けれどもコヘレトの言葉の成立が、160年ごろに成立したダニエル書よりも後とは考えていません。
実は、旧約聖書のエステル記の中にも、ダニエル書に影響を受けていると推察される言葉があります。エステル記の執筆年代は、紀元前5世紀中ごろから同4世紀とされています(月本昭男・勝村弘也訳『旧約聖書(13)ルツ記 雅歌 コーヘレト書 哀歌 エステル記』231ページ)。
その年代の書であるエステル記に、なぜ紀元前160年ごろの成立といわれるダニエル書の影響があるかというと、ダニエル書の中の1~6章は、捕囚時代を背景に書かれている「原ダニエル書」といわれ、紀元前5世紀の捕囚時代以後には、中東世界の特にユダヤ人ディアスポラ(離散した人たち)に既に流布していたからです。ダニエル書全体の成立は紀元前2世紀だとしても、原ダニエル書はそれよりも前から存在していたのです。
第7回で、「コヘレトがアレクサンドリアに居住していたということは、ありそうなことです。彼が知恵を追求し続けていたことは、この書の全編からうかがわれますから、プトレマイオス1世と2世によって築かれたアレクサンドリア図書館で学んでいた時期があると考えるのは自然なことです」とお伝えしました。
エステル記の著者が、どこでダニエル書を知ったかは分かりません。けれども、コヘレトがアレクサンドリアにおいて原ダニエル書を読んでいたかもしれないということは、十分に考えられることなのです。原ダニエル書は、ペルシャ語からの借用語を含む、アラム語で書かれていました。アレクサンドリア図書館は、世界中から本を集めていましたので(モスタファ・エル・アバディ著『古代アレクサンドリア図書館』89~91ページ)、そこにアラム語の書があるのは至極当然のことです。
私は、「コヘレトがダニエル書を知っていた」ということは、妥当な見解であると思いますが、それは「コヘレトの時代である紀元前250年ごろには既に存在していた原ダニエル書を知っていた」ということだと考えます。そのことは、上述のようにアレクサンドリアでのことかもしれませんし、イスラエルの地においてのことかもしれません。いずれにしても、コヘレトが、12章までの全てが成立したダニエル書を読んでいたと捉える必要はなく、コヘレトの言葉の執筆を、紀元前160年以後に設定する必要はないと思います。
また、「コヘレトが黙示思想に抗していた」ということは既にお伝えしてきましたが、それは、小友氏が主張されているように、「黙示文書であるダニエル書に抗していた」と考える必要はなく、エチオピアエノク書の中の、紀元前3世紀に執筆されたとされる「『寝ずの番人の書』などの黙示思想に抗していた」と考えています(第10回参照)。ですから、コヘレトの言葉の執筆年代は、既述してきたとおりに、紀元前250年ごろと考えています。
続けて、「知恵はその人の顔を輝かせ、その顔の険しさを和らげる」とあります。これは、「人間は神によって知恵を与えられ、神の被造世界を探求し、神を畏れ敬うようにまっすぐに造られたが、さまざまな『判断』をしたがる存在である」(7章29節、前回参照)ことを知ったコヘレトが、「誰が知恵ある者でありえよう。誰が言葉の解釈を知りえよう」と、人間が知恵を極めることの難しさを知りつつも、改めて神に知恵を求めようとしているのだと思えます。
プトレマイオス王へのアプローチ
続いて2~9節を読みますが、5~6節については、新改訳2017を併記します。
2 私は言う。神との誓いのゆえに、王の言葉を守れ。3 王の前から慌てて立ち去るな。悪事に関わるな。王はすべてを思いどおりにするのだから。4 王の言葉には権威がある。誰が王に、「何ということをなさるのか」と言えよう。
5 王の命令を守る者は悪事を知らない。知恵ある者の心は時と法をわきまえる。6 確かに、すべての出来事には時と法がある。災いは人間に重くのしかかる。
(新改訳2017)5 命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている。6 すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。
7 やがて何が起こるかを知る者は一人もいない。確かに、何が起こるかを、誰が人に告げることができるだろう。8 息を支配し、息を止められる人はいない。また、死の日を支配できる人もいない。戦いからの免除はなく、不正はそれを行う者を救えない。9 これらすべてを私は見て、太陽の下で行われるすべての業に心を向けた。今は、人が人を支配し、災いを招く時代である。
コヘレトの言葉の執筆年代が紀元前250年ごろだとすれば、2~4節で伝えられている王(聖書協会共同訳は5節で「王の命令を守る者」としているが、原文には「王」はない。新改訳2017の「命令を守る者」の方が適切と思える)は、やはり今までにもしばしばお伝えしてきていた、当時イスラエルを支配下に置いていたプトレマイオス朝エジプトのプトレマイオス2世であると位置付けられるでしょう。
プトレマイオス2世は、死去した妻アルシノエ2世を神格化し(第7回参照)、密儀宗教であるディオニュシズムを信仰し、それを広めていた(第8回参照)、コヘレトとは相いれない宗教観を持つ王でした。それにもかかわらず、その王の言葉を守れと、コヘレトは言っています。そしてそれが、「神に知恵を求める在り方である」としているのだと思われます。
なぜそう言い得るのかが、5~6節に示されています。それは、王の命令は相対的なものに過ぎず、その上位に「神の時とさばき」があるからです。コヘレトがそのように説くのは、6章から見てきたのと同じように、やはり黙示思想に抗しているのだと思います。「今は、人が人を支配し、災いを招く時代」(9節)、すなわち、プトレマイオス2世の支配の下で、ヘレニズム思想との葛藤の中にある時代だが、その先に「神の時とさばき」(第5回でお伝えした3章16~17節の「直線的な時概念」を参照)を見いだし、彼岸思想に逃れることはせずに、御手に委ねつつ、「時代を享受して生きていこう」ということでしょう。
ちなみに、プトレマイオス2世は、ヘブライズムとは相いれない宗教観を持つ王であったとしても、セプトゥアギンタ(七十人訳聖書)といわれる、ギリシャ語訳聖書の翻訳を始めさせた人物であるといわれています(前掲書92ページ)。パウロをはじめとする新約聖書の著者たちが、このギリシャ語訳聖書に依拠していたことは、言うまでもありません。ですから、この王もまた、神の御手の中に置かれていたのだということも、言い得るのではないかと思わされます。
終末論と現代世界
人は未来を知ることはできません(7節)。現代世界、特に米国においては、「終末論」が政治と社会を分断しているようです。私は最近、加藤嘉之著『福音派―終末論に引き裂かれるアメリカ社会』を読み、特にそのことを感じました。人が知ることのできない未来を理由にして、政治を行うことはできないのです。
こういったこともまた、偏った黙示思想に生きるのと同じなのではないかと思わされました。今の時代も、コヘレトの時代と同じように、「『神の時とさばき』を信じて生きていくこと」が大切なのでしょう。(続く)
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