一人きりの夜の底に、音もなく光が落ちてきた。それがどこから来た光か、分からなかった。ただ静かに、私の涙に触れて、きらりと瞬いた。その光こそ、私の信仰の始まりだった。
居場所のなかった幼少期、孤独な少女の時代・・・私は全く闇の中にいたわけではなかった。母の幸せを願って祈った日の中に、真夜中に泣きながら歌い続けた夜の中に、部屋で絵を描いていた小さな世界に、たった一人の下校道に見つけたあじさいの中に・・・たびたび薄い光が差し込んだ。その光は、どこまでも聖なる光であって、私の神様への思いの始まりとなっていた。
闇の中には光がないわけではない。闇には、闇の者の知る光がある。それは、傷を知る者だけが見いだせる、神の憐(あわ)れみの光である。
今でも、痛みの消えぬ私である。夜は8時と早く寝て、深夜の2時、3時に起きて神様との時間を取り分けている。その時間・・・神様の蜜が天井から滴り、部屋中を満たす。あの頃に見た聖らかな光を燦燦(さんさん)と注いでくださる。聖霊様の光である。
私はいつも、見守られていた。信仰を持つ前であっても。都会であくせく働いた日々の中にも。ネオンの輝き、または月光となって、たった一人の部屋ににじむ不思議な光があった。精神の孤独の淵にも、狂気の果てにも――いつも光はそこにあったのだ。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)
だから、どんなにこの世界に暗闇が忍ぼうと、私は恐れない。飢え乾く全ての人を神様は見つめ、痛む全ての人の光となりて、守り、そして愛し、ご自身の胸に抱こうと招いておられる。永い招きの光の果てで、今の私の信仰があり、神様に十分に抱かれる夜がある。
闇が去り、私は真昼の子となった。その真昼の光とは、決して太陽の光ではない。やがて来たる新天新地の時代には、太陽はなく、神様ご自身が光となって照らしていると書いてある。真昼とは聖霊様の光である。もはや闇はなく、私たちはいつも神様の光の中を生きる――真昼の子だ。
神様、あなた様はいつも私を愛し招いていてくださいました。世界中のどんな細部にも、あなた様の光の及ばぬ所はなく、あなた様は義であられ、愛であり続けられたことを知っています。私はその証人の一人であり、今――真昼を生きているのです。そして・・・この光は終わりません。永遠の真昼へと、今日も歩んでいるのです。
(絵・文 星野ひかり)
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