キリスト教を根絶するために、ディオクレティアヌス帝から第二の勅令が出された。今度は市民に対してではなく、それぞれの県や州に宛てたもので、司教や司祭、助祭といった聖職者を見つけ次第逮捕し、投獄せよという内容であった。
そして彼らをかくまった者は、それがいかなる地位にある者でも厳罰に処することが記されていた。今度ばかりは、いかに引き止められようとも、ニコラスはパン屋を出る決心をした。
「もし、私をかくまっていることが分かったら、あなたがたは投獄され、拷問を受け、処刑されるかもしれませんよ。とてもそんなことに耐えられません」
クロエは必死になって引き止めるのだったが、ニコラスの決意は固かった。
「そうまでおっしゃられたら、仕方ないですわね」。クロエは台所に行くと、大きな袋に乾パンをいっぱいに詰めて彼に渡した。「これで2カ月はしのげましょう。そして、嵐が過ぎるまで待つことにいたしましょう」
「ご親切は忘れません。迫害が過ぎ去ったら、きっとお店を訪ねて、おいしいパンケーキを作らせていただきます」。ニコラスはそう言って彼女の手を握り、別れを告げた。
「ニコラス様! ご無事で」。アデオダートスの悲痛な声が後ろから追いかけてきた。以前ニコラスが使っていた海岸近くのテント小屋がまだ壊されずにそのままになっていたので、彼はアペレと2人、その場所に落ち着くことにした。
その日、ニコラスがテント小屋でアペレと共に祈っていると、突然5人のローマ軍兵士がなだれ込んできた。「司教はどこにいる」。ニコラスと同じくらいの頑丈な体をしたひげ面の男が尋ねた。
「私ですよ。ニコラスと申します」。「おまえか、菓子を子どもに配り、くだらんキリストの話をして人々を惑わせたのは」。そして、彼の両手を後ろで縛り上げると、乱暴に小突きながら外に引き出した。
「あっ、お待ちください。私も同じくクリスチャンで、教会の執事をしています」。アペレが追いすがると、彼らは同じようにしてアペレの両手も縛り、蹴飛ばした。そして、2人をこのルキアの州知事セルギオが駐在している市庁舎へと連行したのだった。
セルギオは、褐色の髪とひげを生やした恰幅(かっぷく)のいい男だった。彼は引き立てられてきた2人の囚人を兵舎の中でじかに尋問することにした。「ローマ法で禁止されているキリスト教を信じているかどうか」「キリスト教徒であると判明した場合には、拷問と処刑が待っているが、それを受け入れるかどうか」が主な質問事項だった。
この2人が信仰を表明し、死を受け入れる覚悟が十分できていると答えると、知事は深いため息をつき、気の毒そうに言った。
「やれやれ。なぜそう自分の命をやすやすと放り出すようなまねをするのかね。私には理解できないな。ローマ法によって保護され、さまざまな恩恵を受けているにもかかわらず、そういうインチキな宗教で身を滅ぼすとはな」
その時、ディオクレティアヌス帝の宮殿があるニコメディアから使いの者がやって来て、知事に手紙を渡した。それは、一層過酷な3番目の勅令で、キリスト教の聖職者にローマ伝来の神々に供物をささげることを強要し、受け入れれば放免。拒絶した場合は死刑に処すべし――という内容だった。
セルギオは腕組みをし、しばし瞑黙してから言った。「権力の座に就くことは名誉なことだが、こういう厳しい状況になってくると、人を脅したり、尋問したり、死刑の宣告をしたりと、務めがつらく思えることがあるのう」
そして、またしても気の毒そうに囚人を眺めて言った。「今なら間に合うぞ。心の中で黙って信じていればいいではないか。そうして命じられるままローマの神々に供物をささげればいい。命は大切にした方がいいぞ」
しかし、2人はきっぱりとそれを拒絶した。セルギオは、またため息をついた。「やれやれ。困った人たちだなあ。では仕方がない。――言っておくが、ディオクレティアヌス帝の処刑は他に例を見ないほど残虐と言われているぞ。まあ、今はひとまず牢獄に入ってもらおうか」
そして、彼は兵卒に言いつけて2人を頑丈な石造りの牢に閉じ込め、しっかりと錠を下ろすよう命じた。
*
<あとがき>
東ローマ皇帝ディオクレティアヌスから2度目の「キリスト教禁止令」が出されました。これは、その地区に住む者たちではなく、県や州の知事に宛てて出されたもので、司教や司祭、助祭といった聖職者たちを見つけ次第逮捕、投獄せよという厳しいものでした。
ニコラスは、自分をかくまってくれたパン屋の家族に迷惑がかかるのを恐れて、アペレと共に彼らに別れを告げて出て行くのでした。その後、ニコラスは初めに住んでいたテント小屋に戻り、アペレと共に祈っていると、突然ローマ軍兵士たちがやって来て、彼らを逮捕。市庁舎に連行していきます。
こうして2人は州知事であるセルギオのもとに引き出され、裁かれることになりました。しかし、この絶体絶命のピンチの中で、またしても神様の恩寵が注がれたのです。セルギオは、権力の中にありながら、心の温かで寛大な人物で、彼はニコラスに同情し、なるべくその命を助けるために努力をするのでした。
◇
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。