ニコラスは、がれきの山を踏み越え、北に向かって歩いた。歩くたびに少年時代のこと、あの素晴らしい誕生パーティー、優しかった養父母や執事のアルキポ、料理長トロピモや家政婦スントケが作ってくれたおいしい料理が思い出され、胸がしめつけられるのを覚えた。
多分、トロピモも犠牲になったのだろう。その屍(しかばね)は他の人々と共にこのがれきの下に埋もれているに違いない。たった一つの希望として、スントケが子どもと一緒に郷里エチオピアに逃げてくれたことだった。
「もう私には何も残っていない」。彼はつぶやいた。そして、あの野外劇場の石段を一歩一歩降りて行った。かつてここで伝道者のアポロが救世主イエスの話をし、それが自分の人生の始まりとなったのだった。
あの日のアポロの熱を帯びた声が、今も聞こえるような気がした。
皆さん、私は今日あなたがたに希望の言葉を届けるために、海を越えてやって来ました。私たち人間は、生まれながらに罪という病気を持っています。この罪のために人は悩んだり、苦しんだり、他人を憎んだりしているのです。しかし、罪を知らない方が、私たちを救うためにこの世にくだり、十字架の上でその罪を精算してくださいました。この方――イエス・キリストを信じなさい。そうすれば、救われます。彼の前に重荷を降ろして委ねるのです。彼は喜んでその重荷をあなたに代わって負ってくださり、あなたを悩みや苦しみから解き放ってくださいます。
(ああ、アポロ先生。あなたのその言葉によって私は救われ、伝道者になったのですよ)彼は、そうつぶやいた。
(でも、ローマ軍兵士は、ミラの教会を土台も残らないほど破壊し、今また郷里の家と、できたばかりの教会を打ち壊してがれきの山にしてしまいました。この先、どうやって私はその務めを果たしていったらいいでしょうか)
彼の涙ににじむ目に、夕日がまばゆく映った。そしてその時、通路に沿ってこちらに歩いてくる人影が浮かび上がった。そして、顔が分かるほど近寄ったとき、思わず彼の口から叫び声が上がった。
「あなた、アンゼラさんではありませんか」。忘れもしない、あの靴屋ディメトリオの三女。かつてニコラスに、「天使の微笑」という焼き菓子のレシピを託してコリントに旅立っていった女性のことを、ニコラスは片時も忘れたことがなかった。
あの微笑。清らかで慎ましい面影が胸に焼き付いていたが、今、目の前に立っているのは、健康そうな小麦色の肌をして、以前は肩まで垂らしていた髪を高くゆい上げ、きびきびした健康そうな女性であった。その腕には、1歳を少し過ぎるかと思われる幼児が抱かれていた。
「ニコラス司教様。お久しぶりでございます」。彼女は、懐かしそうに言った。「父が高齢で亡くなりました。上の姉たちもそれぞれみまかりましたので、私一人がお世話になった方々にお礼を申し上げるために、こうして郷里に帰ったのでございます」
二人は野外劇場の石段に腰をおろして話し合った。アンゼラは、膝の上で子どもをあやした。「かわいい坊やですね」。「ヨエルと申します」。彼女は子どもの髪をなで、指の間からこぼれさせて言った。それから、語り始めた。
自分はコリントの市役所の会計係と結婚したが大変幸せであり、最近になってこのヨエルを授かったこと。そして、夫エラストがあるきっかけからクリスチャンになったので、二人でコリントにある教会に行くようになったことなどを語った。そして何という不思議な巡り合わせか、あのアポロが監督となっており、彼の導きで家族全員が洗礼を受けたのであった。
ニコラスは、アンゼラの幸せを心から喜ぶとともに、あの「天使の微笑」のレシピをもらったことを感謝し、それをもとにして子どもたちにパンケーキを焼いて配っていることなどを話した。
そして、ローマ皇帝の名において禁教令が出されたことから、ミラの教会も、また家の教会となったかつての屋敷も土台も残らないほど破壊されたことを告げると、アンゼラの目から涙があふれてきた。
「私どもも家族で話し合っていますのよ。その時が来たら」。そう言って、彼女は愛児を抱きしめた。「この子をも主のためにおささげします」
*
<あとがき>
故郷の家がローマ兵の襲撃によって土台も残らないほどに崩され、愛する者たちの多くが犠牲になったことを知ったニコラスは、胸もつぶれる思いで廃墟をさまよいます。そして、野外劇場の前に来たとき、そこで自分をキリストに導いてくれた伝道者アポロとの出会いを思い出します。
思えば、このアポロとの出会いの中には神様の計り知れない恩寵があったのでした。さらに、彼はここで懐かしい人と出会います。それは、かつてここに住んでいたとき、彼が持参金を出して嫁がせてあげた靴屋の三女アンゼラでした。
彼女はコリントの役人のもとに嫁いだのですが、夫がクリスチャンとなったために、共に「コリント教会」の信徒となり、子どもまで授かったのでした。
アンゼラと語り合ううちに、ニコラスの心には希望が再び燃え始めました。そして彼は、いかなる試練に出会っても神様の愛は働き、その人をより良き人生へと導かれることを確信するのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。