「自然」をキリスト教的にどう考えるか 水垣渉・京大名誉教授が講演

2020年7月10日15時47分 印刷
+「自然」をキリスト教的にどう考えるか 水垣渉・京大名誉教授が講演
「自然」をキリスト教的にどう考えるかをテーマに語った水垣渉氏=6月26日、西福寺(兵庫県西宮市)で(写真:阪神宗教者の会提供)

「阪神宗教者の会」の6月の例会が6月26日、兵庫県西宮市で開催され、日本基督教学会元理事長の水垣渉・京都大学名誉教授が、「自然」をキリスト教的にどう考えるかをテーマに語った。牧師や神学生、大学教員、住職ら25人が参加。水垣氏は、自然をキリスト教的に考えるのは難しいとしつつも、キリスト者として、自然について否応なく考えさせられる状況があるとし、キリスト教的自然観の構築における課題などについて語った。

「自然」という言葉

水垣氏は初め、「自然」という言葉について考察した。自然という言葉は「自然環境と人間」のように、人間や文化と対比されて使用されることが多い。対比するものがなければ、それ自体では定義が難しい大きな概念、それが自然だ。

日本語と英語の辞典で「自然」と「nature」の定義を調べると、それぞれ「人手を加えない、物のありのままの状態・成り行き」(岩波国語辞典第8版)、「人の手で作ったものと対立するような、植物、動物、景観および自然現象を含むフィジカルな世界」(Pocket Oxford English Dictionary, 9th ed)とある。これらの定義から、日本語の「自然」と英語の「nature」で共通する意味合いは「(人手の加わっていない)もののありのままのあり方」といえる。

nature の定義の中で出てくる「フィジカル(physical)」は、ギリシャ語で「自然」を意味する「ピュシス(physis)」に由来する。一方、nature はラテン語で「自然」を意味する「ナートゥーラ(natura)」に由来し、ナートゥーラも元をたどれば「ピュシス」の訳語にすぎない。そのため、nature の定義は、同語反復的に説明していることになるが、このピュシス自体は、植物などが「生えてくる」という動詞を名詞化した言葉だという。

「自然/nature」の反対のもの、つまり「人手の加わったもの」(人工)の代表的なものが「技術/technology」。しかし、そのテクノロジーも突き詰めれば「なるべく自然に即そうとする技術の体系」であり、それを支えるのは「自然科学(natural science)」である。現代ではこのテクノロジーが発展し、人間の「意識」さえも大脳のデータ処理の生化学的・電気的アルゴリズムとして解明されつつある。現代は、これまで成り立っていた「自然対人間」の図式が成り立たなくなりつつある時代といえる。

キリスト教的自然観は「自然対人間」ではない

一方、この「自然対人間」の図式はギリシャ的思考に基づくものだという。キリスト教は早くからギリシャ思想に触れた歴史的事情があり、さらに東洋においては「キリスト教=西洋の宗教」というイメージが強いことから、「自然科学対キリスト教」という対立的な構図で考えられやすい。しかし実際には、新約聖書にピュシスの言葉はあっても、それはギリシャ的な自然概念(自然対人間)を持つものではない。

キリスト教の考え方は、万物は神によって創造されたとする創造論に基づいたもの。自然、人間を含め万物は神の被造物であり、それらすべてが神と関係しているというものだ。人間も他の被造物も、神との関係において違いはない。創世記9章16節には「神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約」と記されており、人間と他の被造物が区別なく「すべての生き物」「すべて肉なるもの」と記され、神はそれと「永遠の契約」を結んだとある。

聖書の記述から、人間が被造物の中心に位置付けられていることは否めないが、人間が「神」となり他の被造物を支配するような「人間中心主義」は、本来のキリスト教的教えに立つものではない。「人間を含めた全自然の造り主が神」という視点を外すと、人間中心主義に陥ってしまう。その上で水垣氏は、「キリスト教的な自然は『神関係において創造されたままのあり方』」であると述べた。

「自然」をキリスト教的にどう考えるか 水垣渉・京大名誉教授が講演
例会の様子=同上

「自然」と「反自然」

自然が人間の諸問題も含めすべての営みを吸収し、自然に化してしまうという「自然主義(naturalism)」の考えが、人間の一般的な生活においても広く受け入れられている。しかし、これは「何でも自然だ」という「汎自然主義」(pan‐naturalism)に通じるとして、水垣氏は警鐘を鳴らす。この考え方では、自然はブラックホールのように最終的にすべてをのみ込む存在であり、そこでは問題も問題として顕在化しないからだ。

特に、自然主義の考えが内包する「自然が自然でないもの(反自然)を自然なものとする(自然化)性質」については、「反自然」の存在を前提とした性質であることを指摘する。自然主義が日常的な事柄にとどまっていればよいが、度が超えると「反自然」を呼び起こし、反自然の克服(自然化)という「正体」を表してくる。

水垣氏は、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『ホモ・デウス』を引き合いに出し、人間至上主義はテクノロジーの発達によりデータ至上主義と化し、最終的には「ホモ・デウス(神のような人間)」という言葉に集約されるとし、「究極の自然主義」といえると指摘。こうした自然主義の流れには、ヒューマニズムもお手上げだとし、現代はすでにそうした事態に陥っていると指摘した。

キリスト教的自然観構築のための課題

このような自然主義が席巻する現代において、キリスト教は自然にどうアプローチできるのか。水垣氏はここで、人間の罪を取り上げた。この世に生きる人間のありのままの現実(人間の自然な姿、水垣氏は「このまま性」と表現)とは、すなわち「罪人としての現実」である。「これは、自然らしい自然ではない。これは、これ以上自然化できない自然である。反自然の極致でもある」と水垣氏は言う。

従来のキリスト教では、罪は創造時の「本来的」なありかたに対して、「非本来的」なありかたを指して使われることが多かった。人間の「日常性」とは、「本来性」から「頽落(たいらく)」した「非本来的」なありかたであり、そこから「本来性」へと戻ることが人間の課題とされた。この「非本来性から本来性への救済」という点は、グノーシス的な考え方にも似ている。しかしグノーシス主義では、この救済が「自然的」だと水垣氏は指摘する。そこでは、非本来性は罪のような積極的反自然性ではなく、自然的経過における状態性の一種と考えられている。「初期キリスト教がグノーシス主義と対決せざるを得なかった理由の一つが、反自然としての罪の問題にあったといえるであろう」と水垣氏は話す。

しかし単に反グノーシス主義を掲げるだけでは、「このまま性」としての「罪」を問題にできるか疑わしいと水垣氏。罪の概念を伝統的な理解の範囲にとどめておいては、現代の自然が生み出している諸問題に対処することはできないと述べ、キリスト教的自然観構築のための3つの課題を提示した。

1つ目は、罪の概念をそのまま自然化するのでなく、その新しい意味を求めて、既成の罪概念を徹底・拡張すること。罪と救済について過去の歴史を踏まえつつ、罪に関する新しい神学的視野を開くことが必要だという。

2つ目は、これまでの神義論(theodicy)に加えて、「人間は正しいか」という「人義論(anthropodicy)」を展開すること。たとえば、人間の営みがデータ処理にすぎない人工知能(AI)に代替されることについては常に疑問が投げ掛けられているが、これは「人間は正しいか」の問いでもあるという。そしてこれが宗教に突き付けられると、「宗教は正しいか」という「宗教義論(religiodicy)」となる。現代においては、多くの宗教、また宗教の多くの部分がヒューマニズムに代替されているように見えると言い、「そういう宗教に存在理由があるのか。宗教はそのことを弁証論的に説明するだけでなく、具体的にどうすべきかを語り示さなければならない」と語った。

3つ目は、人間的にはいかなる意味でも処理不可能な「過去」を宗教がどう扱うか。従来のヒューマニズム的人間観や歴史観では、「死んでしまった人はしょうがない」となり、今生きている人、将来生きる人を中心によりよい未来を築こうとする「未来楽観主義」が隠れているという。水垣氏はそれに対し、2つ目の課題である「人義論」を絡めつつ、「そういう人間でよいのか。そういう人間は義であるのか」と疑問を投げ掛ける。「過去の死者、総じて過去を真剣に受け止めない宗教や思想は、まったく非歴史的であって、自然主義に飲み込まれていくほかない」と水垣氏。「近代のキリスト教は、過去を歴史学という科学のレベルで捉えようとする試みに対応するのに精いっぱいで、その先に問題があることをほとんど忘却しているように見える」と語った。

最後に水垣氏は、これら3点について「何よりもキリスト教が反省すべき点である。いずれもキリスト教、特にその神学が怠ってきた問題」と指摘しつつ、「キリスト教の過去の歴史には、この問題を予感し、気付いていた人々が相当いたはずである。おそらくそれは神学とは縁遠い人々であろう。そういう人々にまず学ぶ必要がある」と述べ、講演を閉じた。

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