コヘレト書を読む(18)「神の業を受け入れよ」―黙示思想の否定なのか― 臼田宣弘

2019年3月7日10時17分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷

11 知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。12 知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい。知恵はその持ち主に命を与える、と。13 神の御業を見よ。神が曲げたものを、誰が直しえようか。14 順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。(7:11〜14、新共同訳)

11 財産を伴う知恵は幸せである。太陽を目にする者に益となる。12 知恵の陰は銀の陰。益となるのは、知恵がその持ち主を生かすと知ること。13 神の業を見よ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう。14 幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ、と。(7:11〜14、聖書協会共同訳)

今回は、昨年12月に発行された聖書協会共同訳の翻訳を併記させていただきました。本コラムの本文中では、適宜この翻訳を使用したいと思います。

これまでお伝えしてきましたように、7章10節まででは「トーブ ~ ミン ~ / ~ טוֹב 〜 מִן」という、「~は~よりも『より良い(トーブ / טוֹב)』」という比較級の形を用いて、幾つかの教えが語られていました。しかし今回は「財産を伴う知恵は幸せ(トーブ)である」と、10節までとは違い比較級ではない形で、しかしやはり「良いこと」「幸福」「満足」などと訳される「トーブ」から書き出されています(11~14節では、トーブが3回出てきますが、聖書協会共同訳ではいずれも「幸せ」と訳されています)。

新共同訳では「遺産」、聖書協会共同訳では「財産」と訳されている「ナハラー / נַחֲלָה」という言葉は、「相続財産」「世襲財産」という意味を持ちます。次世代に渡す価値のあるものです。10節で「『昔が今より良かったのはなぜか』と言ってはならない。知恵にふさわしい問いではないのだから」(聖書協会共同訳)としたコヘレトは、「知恵は『ナハラー』である。次世代に残すような価値があるのだ」としています。つまり「知恵にふさわしいことであれば、それはとても価値があることなのだ」と言っているのではないでしょうか。

コヘレトは1章では知恵について否定的でした。その箇所をもう一度読んでみましょう。

わたしは心にこう言ってみた。「見よ、かつてエルサレムに君臨した者のだれにもまさって、わたしは知恵を深め、大いなるものとなった」と。わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。(1:16〜18)

このように、ここでは知恵は否定的に捉えられているように思えます。その後も知恵は何度か登場し、1章に比べるとやや肯定的に捉えられていますが、ここ7章に至って初めて、かなり肯定的に捉えられるようになります。そして、この「知恵の積極的な肯定」が、この後しばしば見られるように思えます。

コヘレトは、何を知恵にふさわしいこととして見ているのでしょうか。それは「神の業を見よ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう。幸せな日には幸せであれ。不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ」(13~14節)ということだと思うのです。

話は少し変わりますが、聖書とその周辺文書には、「黙示思想」が書かれている黙示文書といわれるものがあります。代表的なものは旧約聖書では「ダニエル書」であり、新約聖書では「ヨハネの黙示録」です。また、聖書正典ではではありませんが、「エノク書」という黙示文書もあります。黙示思想とは、神が支配する「終わり」が来て、そこから新しいことが始まるということが中核をなす思想です。ダニエル書を見ますと次のようにあります。

彼は答えた。「ダニエルよ、もう行きなさい。終わりの時までこれらの事は秘められ、封じられている。多くの者は清められ、白くされ、練られる。逆らう者はなお逆らう。逆らう者はだれも悟らないが、目覚めた人々は悟る。日ごとの供え物が廃止され、憎むべき荒廃をもたらすものが立てられてから、千二百九十日が定められている。待ち望んで千三百三十五日に至る者は、まことに幸いである。終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」(ダニエル12:9~12)

ダニエルが終わりの日に新たに立ち上がるということが、御使いから告げられています。これが黙示思想です。

ダニエル書は、イスラエルがシリアのアンティオコス4世エピファネスの圧制下にあった紀元前160年代に成立した文書ですが、エノク書の一部などは紀元前3世紀には成立していたとされています。その中の25章から少し引いてみます。

彼(御使い)はわたしに答えて言った。「あなたが見た主のみ座に似た頂上を持つあの高い山は、聖なる、大いなる栄光の主、永遠の王が、祝福をもって地をたずねにおりてこられるときにおかけになるはずのみ座である。みごとな香りのするこの木には、神がすべての者に復讐(ふくしゅう)し、彼らが永遠に滅ぼされる大いなるさばきの時まで、それに触れることは肉なる者には許されていない。その(さばきの)ときには、この木は義人とへりくだった者に与えられるであろう。その実から選ばれた者に生命(いのち)が与えられ、それは北のほう、永遠の王なる主の住居の近くの聖なる場所に植えられるであろう。そのとき彼らは大いに喜び、聖所で狂喜し、骨のひとつひとつにその香りをしみとおらせ、きみの先祖たちのように長生きし、彼らの生きている間、悲しみ、苦しみ、難儀、災難が彼らに触れることはない」。(エチオピア語エノク書25章3~6節、『聖書外典偽典4 旧約偽典2』)

ここでもやはり、ダニエル書と同じようなことが言われています。このような「終わりが来て、そこから新しいことが始まる」という黙示思想といわれるものが、紀元前3世紀のコヘレトの時代にはすでにあったのです。コヘレトはこの黙示思想に抗しているともいわれています。

ちなみに、黙示思想が登場したのは、紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代であったといわれます。捕囚のような困難な状況にあるときに、黙示思想は生まれるのです。「今」よりも「終わりの日」に期待をするのです。コヘレトの時代も他国の支配にあり、時代の状況は良いものではありませんでした。コヘレト書でも「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ」(8:9)とされています。しかしコヘレトは、「神の業を見よ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできよう」(13節)と、どんな状況でもそれを神の業と捉え、受け入れることを説きます。

そして「幸せな日には幸せであれ」と言いつつも、「不幸な日にはこう考えよ。人が後に起こることを見極められないように、神は両者を造られたのだ」(14節)と、困難な時代であっても、黙示思想に逃げるのではなく、現実を見つめて歩みなさいと説きます。今を生きる歩みの中に、「幸いを見いだすこと」と「困難の中に必要なことを見いだすこと」の大切さを言っているのです。そして、そのことを「知恵にふさわしい良いこと」としているように思えます。聖書の中の黙示思想における「終わりの日」は、それが語られる文脈においては大切です。しかしコヘレトは「今を生きよ、神が今なさっていることをふさわしいことと受け止めよ」と説いており、それは黙示思想とは一線を画しているのです。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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