子どもたちをどう守るか―児童福祉の現場から(6)虐待のない未来をつくるために必要なこと

2018年8月2日12時03分 翻訳者 : 千葉敦志 印刷
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※ 写真はイメージです。
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このコラムでは、統計から、生態学的・文化学的な見地から、制度から、そして現場から、といろいろな立場から虐待を考察してきました。今、テレビや新聞で取り上げられるだけでも、虐待による死亡事例は年間84人(2016年度)に上ります。通報される虐待件数は12万人余り。ですから死亡事例は氷山の一角であることが分かります。虐待によって1人の命が奪われる背後に、1500人余りの虐待されている子どもたちがいるということです。

また、施設に入っている子どもたちの数は3万人弱です。こうした子どもたちやその家族は、より高度で専門的な支援が必要ですが、それも全国から通報される虐待全体の4分の1なのです。今の体制と制度で、虐待されている子どもたち全体を守るには、どうすればよいのでしょうか。仮に、虐待死してしまったり、施設に子どもが入所せざるを得なかったりする特に深刻なケースは、多く見積もっても3万件です。全体の比率で見れば4分の1です。そこに専門家を集中的に振り向ければ、専門家の負担は今の4分の1となります。そうすれば、より質の高い防止策を取ることができ、さらに新たな専門家を育成する余裕もできるのではないでしょうか。では、残りの9万件はどのように対処するのか。私はこれを、みんなの適切な観護と支援で支えることができればと考えています。

先日、ある保育園から受けた相談事例を紹介します。

便秘がひどく、下剤を1カ月間処方された1歳半の子どもを担任する保育士からの相談でした。聞いてみると、1歳の誕生日に母親がミルクをやめたと言っており、保育園で牛乳を飲ませると、ちゃんと便は出るのだと言います。どう考えても1歳でミルクをやめるのはやり過ぎな気がしますので、その子の世帯状況を伺いました。すると、育児に協力的な婚家との2世帯同居であることが分かりました。

ピンときました。「便秘の主原因の一つにストレスが挙げられますが、その子にストレスがかかっているとは考えられませんか」と聞くと、「お母さんは居酒屋で働いていますが、おじいちゃん、おばあちゃんとも保育園の送り迎えなど、とても協力的です」と保育士は言います。「お母さんが婚家で育児のストレスを感じているのではないですか。その母親が感じるストレスが原因だと思います」と答えると、「そう言えば、お母さんは、保育園でお子さんが初めてできたことなどを紹介すると、『わが子の成長にも気が付かない私は母親失格ですね』とおっしゃっていました」と保育士さん。

つまり、母親は孫をかわいがる義父母から有形無形のプレッシャーを受け続けていたわけです。1歳の誕生日とともにミルクをやめたのも、そういう理由があるのでしょう。そしてそのストレスが、まだ母子分離を果たしていない月齢の子どもにも影響を与えているのであろうと推測できるわけです。この場合、行わなければならない支援は、母親の自己肯定感を保障することです。

あまり知られてはいませんが、保育施設の重要な職務の一つに虐待の未然の防止というものがあります。子どもを預かりながら、その保護者に寄り添い、知識や技術を提供し、保護者として育ってもらうことをサポートするのも保育施設の重要な仕事なのです。

子どもを授かるという出来事は、親となる人たちにとっては強烈なストレスなのです。それは、今まで自分が抱いてきた「安易な常識」と対峙することを強制される出来事だからです。

「病気をさせてはいけない」
「死なせるどころか、けが一つさせてはいけない」
「立派だと褒められる子にしなければいけない」
「バカ親だと言われたくない」

こうした、自分が第三者的視点でしか考えていなかったさまざまな「安易な常識」を一挙に突き付けられてしまうのです。そして、それは家族や周囲の人たちを巻き込んで、さらに増幅されたハードルになる場合が現代では少なくありません。そのような場合、保護者が、虐待に類する自らの行為に対し「この子の未来のためなんだ」という大義名分を得てしまうきっかけになってしまうのです。

「子どもたちの未来のために」という言葉が合言葉のように用いられてきましたが、実は、このことが虐待を根深いものへと助長する結果になってはいなかったでしょうか。私たちの欲望のよどみこそが、「安易な常識」を生み、「無責任な判断」を育て、虐待そのものを正当化してしまったのではないでしょうか。

今の時代をつくっているのは、今の時代を生きる私たちであるのと同じように、未来をつくるのは、未来を生きる子どもたちであることを、私たちは今、しっかりと自覚しなければいけない時期に来ているのだと私は思っています。私たちが古い時代にしがみつくとき、子どもたちの未来は奪われるのです。虐待とは、未来を生きる子どもたちに未来を委ねることができない、大人の未熟さが原因であると思わされます。

虐待を受けている子どもたち、そしてその子どもたちを虐待せざるを得なくなっている保護者たちに、私たちは一体何をすべきなのでしょうか。虐待を防ぐために、私が教会や世の人々に提言したいことは、「子どものために親を愛してください」ということ、そして「子どもたちが未来をつくるお手伝いをしてください」ということです。そして何よりも「子たちを自分たちの真ん中に立たせてください」ということです。それが「未来をつくる」ということなのです。

義務教育とは一体何でしょう。成人になるまでに身に付ける必要のあることを教えることだと思います。成人とは、成長期を終えた生物学的な成体のことをいうのではありません。私たちは、小・中学校時代に何を望み・望まれ、何を教え・教えられてきたであろうかと痛切に反省します。「共に生きる」とはどういうことなのか、「次の世代を育む」とはどういうことなのか、そして「自分はなぜ生きていくのか」ということを考える機会は、ついぞ与え・与えられてこなかったのではないでしょうか。

子どもたちは、国を構成する一員として数えられるはずなのに、国が備えている福祉リソースやセーフティーネットなどの存在はほとんど知らずに義務教育を終えてしまいます。そして思い込みだけで突っ走り、たどり着いたその先は破滅まであと一歩ということもあるわけです。

この日本という国は、誇り高い国でしょう。しかし、その誇り高さの反面、陰に隠れた落とし穴がひっそりと若者を狙って大きく口を開けているのです。

借金、突然の病気、事故、家族の死、そして対人関係の悩み・・・。最近では、労務環境も悲惨であることが、テレビや新聞などで報じられている通りです。いじめやハラスメントを苦にした自殺が後を絶たちません。それらを避け、くぐり抜けても、就職、結婚、出産、子育てと、人生の一大事が続きます。片や超高齢化社会では、老老介護を支援しながら子育てをするという状況です。わが子のみならず、自分の親に対する虐待に手を染める若い夫婦も多いです。自傷を重ねる保護者もいます。一方で、複雑で余裕のない現代においては、福祉リソースやセーフティーネットの利用が避けられませんが、現実は生存のための情報やリソースは日々高度化し、高尚化し続けています。しっかりとした伴走支援がなければ、いとも簡単に門前払いを食わされます。

何事にも理由が必要とされ、「人に迷惑をかけないことが最大の美徳」と教え込まれた若者たちは、人の助けを極度に嫌い、恐れます。細かな約束に緩やかながらしっかりと縛り上げられ、大切な部分から目をそらされ続けながら人生を歩む子どもたちの姿は、さしずめ目隠しされ、手足を縛り上げられて綱渡りをさせられているように私には見えます。一歩踏み外せば奈落の底に落ち込んでしまうことを知らずに、そして周囲に追われていることさえ知らずに生きている若者をよく見掛けます。逆に言えば、泥臭さを忘れた生き様が称賛されているように思います。自分の生存に関わる部分が脅かされていることも知らずに、さらには自分の生活に当然のごとく存在する生病老死からさえも目をそらし、否定しながら生きている姿を垣間見ます。

今の子どもたちの悲劇の根底には、義務教育が基本教育となっていない現実があると私は思っています。文字は知っている、計算はできる、歴史は知っている、愛国心も涵養(かんよう)されている・・・。でも、現代の複雑な仕組みを理解しようとしないし、できないと信じ込んでいるように見えます。そして、「主体的に生きること」を知らないし、そんなことしなくても生きていけると思い込んでいるように見えます。

今、全国の教会では、保育所や幼稚園、認定こども園を運営しているところもありますし、子ども食堂などを展開しているところもあります。そのような施設には、必ず専門家がいるはずですし、またそのような施設の専門家をしっかりと支援しなければならないでしょう。実は教会は、虐待の芽を摘むさまざまな働きを担っているのです。教会学校だって立派なリソースなのです。そこにいる人たちも、立派な支援者の一人なのです。虐待を防ぐ効果的な手立ては、しっかりと伴走する支援者がその子育て世帯に十分に存在することだからです。

このような前提の中で、教会はどのような働きができるでしょうか。それはまず、教会自身が「子育て」の理念をしっかりと発信することでしょう。この際、信徒獲得・育成という目的はいったん脇に置いて、すべての子どもたちに門戸を開き、子どもたちのための教育・福祉を展開していくべきだと私は確信しています。これは宗教によらず、主に託された全人類的な闘いなのです。これを全人教育とか博愛主義といいます。

人間が生きるために必要なものを、パウロは信仰と希望と愛の3つだと言いました。キリスト教の教育も福祉も、この3点に集約されるはずだと私は思います。そして、この信仰と希望と愛は、条件付きであってはならないのです。一人一人が、自分が召されたことを自覚して歩む上で、周囲の人々と共に歩むこと、そして互いに支え合うことが、教育で伝えられなければならない核心だと私は思っています。そして、それを背中で、行いで示し続けることが、私たちができる最大の虐待防止活動であり、それを実践するとき、虐待で奪われる命を皆無にすることさえできると確信しています。

これからの子育てで求められるのは「親の愛」ではなく、子育ての中に示される「神の義」を確信することです。それが問われているのだと思います。つまり「親はこうあるべき」ではなく、「子どもを真ん中に立たせる神の義の世界」を、教会が地域にあってしっかりと体現することなのだと思っています。この世界で生きるための力をしっかりと養い、分かち合い、主の御業を引き継いで推し進めていくことのできる存在を、キリスト教では成人と言うのだ。そして、これを一般的には全人教育と言い、教会ではキリスト教教育と言うのだ、と思いたいのです。

このコラムを書いている間にも、また読んでいただいている間にも、どこかでひっそりと虐待を受けている子どもたちがいることを思います。また世界には、飢餓で、人身売買で、児童労働で、搾取で、戦争で苦しんでいる子どもたちがたくさんいることを思います。そして、人知れずその問題と闘っている多くの人々がいます。

大人一人一人が少しでも保護者に寄り添っていただければ、彼らの負担は軽くなります。そして、そのことで彼らはさらに多くの子どもたちの深刻な課題と闘うことができるようになります。そうすればいつか、虐待はなくなると信じています。

彼らのことを覚え、祈りを合わせていただくことを願いつつ、このコラムを終了します。お読みいただいてありがとうございました。皆様と皆様のお働きの上に、主の祝福と導きが豊かにありますように祈ります。(終わり)

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千葉敦志

千葉敦志(ちば・あつし)

1970年宮城県生まれ、青森県在住。日本基督教団正教師(無任所)。教会付帯施設の認可保育所の施設長として、保育所の認定こども園化を実施。施設長として通算10年間、病後児保育事業などを立ち上げたほか、発達障害児や身体障害児の受け入れや保育の向上に努め、過疎地域の医療的ケア児童の受け入れや地域の終末期医療を下支えするために、教会での訪問看護ステーション設置などを手掛けた。児童福祉の制度研究とその実践および講演活動を行っている。現在はこれまでの経験に基づいて「保育所等訪問支援事業」を行う保育支援センターを立ち上げ、乳児・幼児・児童の福祉の底上げ、施設の支援に奔走している。

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