子どもたちをどう守るか―児童福祉の現場から(3) 「子どもを真ん中に立たせる神の義」を求める

2018年7月12日11時01分 コラムニスト : 千葉敦志 印刷
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※ 写真はイメージです。
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50年ほど前、子育て支援制度なんてまったく存在もしていない時代、子どもたちは、それぞれの家の周りで生き生きと過ごしていました。

今から40年前、近所にガキ大将がいて、毎日外に出て遊んでいました。「パッタ」(私の地域ではメンコのことをこう言っていました)「コマ回し」「ドロケイ」「水鉄砲」・・・。そう言えば、コマが回せなくて、毎晩玄関先で遅くまでコマ回しを練習していたっけ。近所の林の沼地で採ってきたカエルの卵を育てたり、山菜を採って親にお土産にしたり――。

どこの家にもお母さんがいて、子ども同士の約束で簡単に遊びに行ったり来たりもしていました。今思い出せば、幸せな時代でしたね。でも一方で、実はその地域では、私が最後のガキ大将でした。私の世代が中学校に進む中で、下の世代に数年の途切れが出たためでした。ガキ大将は地域の伝統文化であり、継承技術であると今になって思います。今後、ガキ大将なんて制度はめったに再生することはないでしょう。

また、その時代の保育所は「親が面倒を見ることができないかわいそうな環境に置かれた子どもたちを預かる施設」であり、「措置制度」(国が親の状況を勘案して強制力を持って面倒を見る仕組み)の中に置かれていたのが認可保育所でした。しかし今、保育所に子どもを通わせることは「親の必要に応じた権利」とされる一方で、「子育ての拠点」になっています。

戦後のたった70年余りで社会の価値観は大きく変わりました。そして、子育ての環境だって大きく変貌を遂げました。昔は子どもが3人以上いる世帯が当たり前であり、法事や葬式などでは、一族の子どもたちが群れをつくって外で遊んでいました。

私は、福祉に関しては「昔が良かった論」は支持しません。それは、巻き戻しができないからです。私たちは、現代の良い部分を捨てられません。たとえ昔がどれほど良かったとしても、もはや昔に戻す手はないわけです。病気やさまざまな障害を克服し、児童の死亡率を下げてきた過程で発生した、これまでの価値観では考えても見なかった弊害の一つが虐待なのです。

例えば、それは「昔はシャンプーなんて1週間に1回だった」とか、「各家庭に風呂があるわけじゃないから、ご近所に風呂を使わせてもらいに行っていた」とか、もっと言えば「昔は子どもの死亡率が高かった」など、今では想像もできないような社会であったから、助け合い、支え合いが子育ての基本にあったわけです。

日本人の平均寿命が伸び、国民の所得が跳ね上がり、昔よりも裕福な生活ができるようになった一方で、経済・所得格差が深刻化し、さらには経済の持続性に疑念が生じる時代です。過食、高ストレス、運動不足などから生活習慣病などという病気の定義もできました。結婚年齢もこの30年ほどで急速に晩婚化に向かっています。合計特殊出生率も2をはるかに下回り、子どもの数は激減し、一人っ子家庭が激増しました。病気などで命を失う子どもの数は激減しましたが、一方で多くの子どもは0歳から保育所に入る時代です。「保活」「待機児童」などという言葉が生まれる一方で、小学校の児童数は激減、1年生になっても友達が100人もできるわけではありません。

「虐待の親を極刑に処せ!」などと声高に主張する人もいますし、「制度を拡充せよ」とか、「親を厳しく監視せよ」などということが平気で論議されているような感じを受けます。しかしそもそも、そんなことで虐待がなくなることは決してないと断言できます。私たちは、虐待のニュースに眉をひそめ、かわいそうだと涙し、怒りに震え、拳を振り上げようとします。しかしその一方で、私たちは、子どもたちがどう育てられることが理想なのかを、実践するどころか、積極的に論じることさえできていないわけです。

「学校の先生が言うから」とか、「自分の子でないから」とか、「親がうるさいから」とか、そういう事柄だけで子育てを論じてきたツケが今、虐待として現れているといえます。

グローバル化する日本は、そのメリットを享受しようとひたすら努力する一方、デメリットには一切口をつぐみ、日本全体としての自己分析を拒否してきました。そのツケが、子どもや障がい者といった社会的弱者、そして能力が低いとされる人々に、さまざまな形の「虐待」として押し付けられているのは、明白なことだと私は思っています。

「昔は良かった」ではなく、「未来を少しでも良くしよう」と一人一人が思うことこそ、今求められていることだと思います。

このコラムでは、過去2回、それぞれ、統計と仕組みから虐待について考えてみました。今の日本は「これは!」という打開策がないのが現状です。制度を拡充しても、それは現状を後追いすることしかできないからです。つまり、元を断つには、制度を拡充するだけでは限界があるのです。

制度を拡充すればするほど、虐待の定義もなお厳しくなっていきます。昔は当たり前だった「家でお留守番」は、現在の定義によれば確実にネグレクトという虐待に相当します。そもそも「叱る」ことそのものも、虐待の定義と突き合わせて再考されるべき問題とされています。

昔は、「アメリカに行けば『おんぶは虐待だ』と言われた」とか、「蒙古斑(子どもの頃に出るモンゴロイド特有の青いあざ)を虐待の痕跡ではないかと疑われた」などという話を笑い話のように言われました。文化が違えば、虐待の定義も違うのです。北欧諸国では、天気の良い冬の日には、赤ちゃんをベビーカーに乗せ、氷点下の玄関前で昼寝させることが当たり前だそうです。熱が高い時の対応も、ヨーロッパでは「(30度ぐらいのぬるい)水風呂に入れなさい」という指導を医師がする国もあるそうです。このように、子育てに関して、地域的、文化的な違いがあることは常識なのです。

実は、文化的な虐待の定義と、グローバルな虐待の定義は大幅なズレを持っているのです。また、地域間格差もあります。子育て世代にどれだけ無言の「社会的圧力」がかけられているかによって、虐待の内容、軽重などが、それぞれの地域の特性に応じて出てくるのです。

一言で言えば、「全国に対応する地域や文化圏それぞれの虐待の定義がはっきりせず、さらに言えば、子育てを終わった世代はその事柄さえも受け入れがたい」ということです。現代の世界的な潮流では、「子どもの将来を考えて塾に行かせる」とか、「課題をクリアできなければ罰を与える」も、子どもの同意がなければ虐待と考えられる時代になってきました。しかしその一方で、虐待を論じようとすれば、どこまでが虐待で、どこからが虐待でないか、という基準線のやり取りに終始せざるを得なくなる場合が少なくありません。

昔を知る人たちからすれば、「面倒くさい時代になったなあ」と思う一方で、自分にも思い当たることがあるだけに、「虐待は一線を越えたかどうか」で判断するしかない心理学的な現実が社会を覆っています。だから「昔は良かった」と言いたくなるわけです。今、日本は総じて「これは良い、これは良くない」という二極化した世界になりつつあるといわざるを得ません。つまり、多くの場合「重篤な結果さえ避ければいい」と考えているわけで、無意識的に「子育てには、程度の軽い虐待は必要」と信じきっているわけでです。

ですから、「世界的な水準では・・・」とか、「かの児童福祉先進国では・・・」と言い続けることは、世代間の分裂しかもたらしません。それは、子どもの姿を見ずに制度を基準に考えているからです。これまでの論争を見ると「木を見て森を見ず」の典型だと思います。しかし今必要なのは「森を見て木を見る」です。虐待を防ぐのではなく、私たちそれぞれが「子育て」の理念をしっかりと構築していくことが必要だと強く思うのです。

このような前提の中で、教会はどのような働きができるでしょうか。それはまず、教会自身が「子育て」の理念をしっかりと発信することでしょう。これからの子育ての定義の中で求められるのは、「親の愛」ではなく、「神の義」を確信するかどうかが問われているのだと思います。つまり「親はこうあるべき」ではなく、「子どもを真ん中に立たせる神の義の世界」を教会が地域にあってしっかりと体現することなのだと思っています。(続く)

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千葉敦志

千葉敦志(ちば・あつし)

1970年宮城県生まれ、青森県在住。日本基督教団正教師(無任所)。教会付帯施設の認可保育所の施設長として、保育所の認定こども園化を実施。施設長として通算10年間、病後児保育事業などを立ち上げたほか、発達障害児や身体障害児の受け入れや保育の向上に努め、過疎地域の医療的ケア児童の受け入れや地域の終末期医療を下支えするために、教会での訪問看護ステーション設置などを手掛けた。児童福祉の制度研究とその実践および講演活動を行っている。現在はこれまでの経験に基づいて「保育所等訪問支援事業」を行う保育支援センターを立ち上げ、乳児・幼児・児童の福祉の底上げ、施設の支援に奔走している。

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