脳性麻痺と共に生きる(12)漢字が読めないでいた 有田憲一郎

2016年6月18日22時32分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷
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養護学校(現在の特別支援学校)を卒業後、僕は板橋区立高島平福祉園という生活実習所に通い始めました。学校を卒業し「もうこれで、勉強をしなくてもいいんだ」という喜びと同時に、社会人としての自覚と責任の重みというものを感じつつ、その当時を過ごしていたと思います。

生活実習所という場所は、作業所とは違い、作業や仕事中心ではなく、運動の時間や散歩の時間、クラブ活動や社会経験学習、また本人の興味や心があることなどを行いながら、障碍(しょうがい)に応じてさまざまな日中余暇活動のプログラムが提供されています。

しばらくして「実習所以外でも何か活動をしたいな」と思っていた僕は、日中は生活実習所に通いながら、夜や休日の時間を使って障碍者福祉活動やボランティア活動などを始めていきました。

活動を始めた僕は、生活実習所から帰り「ただいま」。そう言ったと思えば「行ってきます」と言って、会議や打ち合わせ、イベントなどの手伝いに出掛けていく毎日で、家には寝るために帰っていたような日々でした。

何かと打ち合わせや会議が多く、その頃の僕は難しい内容にチンプンカンプンで議題の内容についていけないでいました。打ち合わせや会議のたびに数枚にも及ぶ資料が配られ、その資料に目を通しながら会議は進められていきます。配られた資料は漢字が多く使われ、一般社会で使われている文書の書き方で書かれています。

僕が所属していた団体は、障碍を持っている先輩やボランティアで構成されていました。障碍を持った先輩方は同じ脳性麻痺の方が多かったと思いますが、養護学校の完全義務教育化になる以前に教育を受けてきた方々で、普通校と同じような学力や教養を身に付けている仲間や中途障碍の仲間、そして健常者のボランティアですので、普通に漢字が読め、文書も内容も理解している中での集まりでした。

配られた資料を仲間は何不自由なく読んでいます。「今日の資料です。目を通しておいてくださいね」と、僕にも同じ資料が配られ目を通すものの、養護学校を卒業した当時、小学校低学年レベルの学力しかなかった僕には、資料に書かれている漢字が全く読めませんでした。

資料は、義務教育を受け、学校を卒業して社会に出ていれば全員が読めることを基本に書かれてあり、その内容も理解できることを前提として作られています。また、そこには「高校まで出たんだから、読めて当然だよね」、そんな雰囲気が仲間にもありました。

当時、僕は何て書いてあるのかも読むことができず、チンプンカンプンの状態のまま資料を眺めていました。読めないということがばれないように、書いてある文章が普通に読めているふりをしていたのです。

養護学校(現在の特別支援学校)や生活実習所、作業所などに通っている障碍を持った人の中には、漢字が苦手で読めない方も多くいます。そのため、配られる資料やプリントなどがひらがなで書かれていたり、難しい漢字にはふりがなでルビがふられていたりなど、読めるようにとそれぞれに暗黙の配慮や工夫がされています。しかし、障碍者という枠を超えて一般社会に出れば、「漢字が読めません」などということでは到底通用しません。

学校を卒業し、漢字が読めなかった僕は「何て書いてあるの?」などと、活動仲間の先輩方に恥ずかしくて聞くことができません。この時、社会に出て漢字が読めない恥ずかしい思いと情けなさ、愚かさ、みじめさを感じました。

学校を卒業するときに喜び「これで、もう勉強しなくてもいいんだ」と考えていたのはつかの間のことでした。自分の甘さを反省し、「もっと勉強すればよかった」と後悔をしている僕がいました。

漢字が読めないことのつらさに「こんなに大変なことなのか」と苦しみました。自分の愚かさと恥ずかしさに自分が情けなくなりました。そして、それは国語力や読めるということの重要性を身に染みて感じさせられた瞬間でもあったのです。

「これではいけない。漢字が読めないことには始まらない」と気付かされた僕は、独学で漢字の勉強を始めました。それは必要に迫られた必死さで、学校に通っていた頃よりもはるかに勉強したと思います。

ところで、皆さんは字や漢字を覚えるとき、どのようにして覚えていきましたか。きっと、ほとんどの人はペンを持ち、何百回、何千回とノートなどに書いて覚えたと思います。しかし、僕は手で字を書くことができませんので、字を書いて覚えることはできません。書けない僕は、書けなくても漢字を覚えていきました。その一つが、あるテレビ番組でした。

当時、テレビでは歌番組が流行っていました。歌番組は、曲に合わせて歌詞が字幕で表示されます。それを見ていた僕は「そうだ!これで覚えればいいんだ」とテレビの前で歌を聞きながら、表示される歌詞の字幕を追って一緒に歌い、漢字を覚えていきました。しかし、歌番組だけでは覚えるのにも限界があります。

そこで、歌番組と同時にワープロを使って漢字を覚えることにしました。自分が知っている言葉や、耳にした単語などを、思いつくままワープロに打ち込み、漢字に変換していったのです。同じ単語を繰り返し入力していくことで、漢字を形として覚え、そして読み方を覚えていきました。

しかし、僕はワープロを使い漢字を覚えていく際に、想像もしなかった思わぬ壁にぶつかってしまいました。その壁とは、僕だけが経験した壁だったのかもしれませんし、言語障碍のある方が直面する一つの壁なのかもしれません。

僕には言語障碍があります。発音しにくい単語や聞き取りにくい言葉などが多くあります。言語に障碍のない健常の方が話す正しい発音は、僕も日常生活で普段から耳にしています。しかし、覚えるときには、自分の話す言語障碍の発音を耳にしているので、「自分の発音で正しいんだ」と脳が自動的に認識してしまっていたのでしょう。自分が発して耳にした言語障碍の言葉でワープロに打ち込んでいたのです。

例えば「配慮」という単語があります。正しい読み方と発音では「はいりょ」ですが、僕が話すと「はいろ」や「あいろ」などと聞こえてしまいます。健常の人が正しい発音で会話しているのを聞いていても、僕は頭の中では「“はいろ”で合っている」と思い込んでしまっていたようで、自分が発し自分の言葉で聞こえる通り、「はいろ」とワーブロに入力していたのです。当然のことながら、何回、何十回と打ち込んでも、正しい漢字が出てきません。

「こんな漢字出てこないよ。“はいろ”でしょう?」。両親に聞き、目の前で「はいろ」と入力すると、「違うよ。“はいろ”じゃなくて、“はいりょ”だよ」と。この時初めて僕は、自分が言語障碍による言葉の間違えや読み違えをしていたことに気付きました。

そのような思い込みや勘違いも多く、自分の聞き違えや読み違えなども直してもらいながら、一般的に使われる多くの漢字を独学で学び、何不自由なく読めるようになりました。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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