脳性麻痺と共に生きる(8)あれから5年~僕が経験した震災~ 有田憲一郎

2016年3月18日23時41分 コラムニスト : 有田憲一郎 印刷
脳性麻痺と共に生きる(8)あれから5年~僕が経験した震災~ 有田憲一郎
復興を願い、頭に筆を付けて書いた書

忘れることもできない日があります。それは、決して忘れてはいけない日でもあります。3月のこの時期になると、あの日の恐怖が昨日のように僕の脳裏によみがえってきます。そして、忘れることはありません。いつも「あの日の出来事は決して風化させてはいけない。自分のできる範囲で伝え続けなければいけない」。そう思い、今回僕が経験した震災について書いてみたいと思います。

2011年3月11日2時46分

2011年3月11日、午後2時46分。東日本大震災が起きた時刻です。あの日、僕が昨年まで生活していた宮城県仙台市の山沿いにある「太白ありのまま舎」という障碍(しょうがい)者支援施設の自分の部屋で震災に遭いました。

僕の部屋は、2階にありました。7畳分ぐらいの個室の部屋に車イスから降りて生活した方が楽なので絨毯(じゅうたん)を引き、普段から絨毯の上で生活をしていました。

震災当日の午後、お風呂から上がり部屋に戻った僕は、タンスに背を向け寄りかかり、机の上で大好きなコーヒーを飲んで一服し「よし、もう少し頑張るか」とパソコンの前に座り、少しためこんでしまっていた仕事を締め切りに追われながら、いつものように仕事を始めました。10分ぐらいたった頃だったと思います。忘れもしない午後2時46分。

それは突然のことでした。「地震だ」。揺れを感じました。「すぐに収まるだろう」。そう思ったことを覚えています。ところがその直後、数秒もたたないうちに一瞬にして揺れは大きく激しさを増していったのです。

「やばい!」。パソコンの前に座っていた僕は、体のバランスが取れなくなり、転んでしまいました。「とにかく頭だけは守らなければ」と、無我夢中で近くに置いてあったリュックサックに手を伸ばし、必死の思いで頭にかぶりました。

部屋の中のパソコンやプリンター、テレビ、スーツケースなどといったさまざまな物が頭上から容赦なく落ちてきます。恐怖とあまりの恐ろしさに「助けて~!」と叫びたくても声が出ませんでした。激しい揺れは収まる気配のないまま、何分と続いていました。

実際、どれぐらい揺れが続いていたのでしょう。それは、とても長く感じたことを覚えています。障碍があり、一人で思うように動けなく、車イスからも降り、絨毯の上にいた僕は、パニックになって脳裏には「誰も助けに来てくれなかったらどうしよう。このまま助けてもらえず死んじゃうのかな」。頭の中で最悪の結末も浮かんでしまっていました。

揺れの収まらない中「有田さん!大丈夫!?」と職員さんが走って僕を助けに来てくれました。落ちてきた荷物の中で倒れ、動きたくても体全体に緊張と力が入って身動きも取れない僕を抱え、電動車イスに乗せてもらい、部屋から廊下へと脱出することができました。

廊下に出ると、部屋や入浴中だった風呂場から、入居者が避難口へと集められていました。「慌てなくていいからね。ゆっくりね」と声を掛け合いながら、数分続いた大きく激しい揺れの静まりを見計らうように、外の非常用スロープから1階のホールへと避難しました。

電気もガスも水道の全てのライフラインがストップしていました。入居者と職員は何が起きたのか把握できない状況にいました。ホールにあるテレビも停電していてつきません。時間だけが過ぎていきました。

しばらくして携帯ラジオからニュースが流れてきました。「津波」「爆発」「火災」「避難してください!」。アナウンサーの緊張した口調から、焦りとただ事ではないことが起きていることが伝わってきました。しかし、この時まだ僕は、福島で原発事故が起きていたなど、全く知る余地もありませんでした。

障碍者にとっての震災当日

やがて夕方を迎え、辺りも薄暗くなってきました。外には雪が降り積もり、とても冷え込み、入居者一人一人に職員がセーターやジャンバー、毛布などを着せ、寒さから身を守る対策をしていきます。大きい余震が頻繁に続き、ライフラインは一向に復旧の目途が立たないままでした。

「これからどうなるのだろう」。不安の声も出てくる中で職員から指示がありました。「今後のことは、状況を見ながら判断して決めていますが、今日は2階の入居者の方々はホールでお休みいただきます」。こうして自分の部屋にも戻ることのできない日々が始まったのです。

暗くなってきたホールにランタンを灯し、サランラップを巻いた紙皿で非常食を分け合っていただきました。夜のトイレに行くことができない状況でしたので、寝るときには全員オムツをして、運ばれた自分たちの布団を引き、余震が続く中、床に就きました。

僕が暮らしていたのは、障碍者支援施設という、障碍者が24時間必要な介助を受けながら生活をしている場所でした。入居者は僕のような脳性麻痺や筋ジストロフィー、脊髄損傷、脳梗塞など日常的な身体介助の必要な重度と言われる方々で、車イスやベッドで生活されている方、呼吸器が必要な方、医療的ケアが必要な方など、移動が困難な状態で生活しています。食事も流動食が必要とされる方や定期薬を服用されている方も多くいました。「避難してください」と言われても、ほとんどの入居者は自力で避難をすることができません。

24時間体制の支援施設でしたので、職員が常時いてくださり、緊急時にも対応してくださっています。職員の方々は常に並々ならぬ努力や苦労をしながらの過酷な労働の中、僕たちの生活と命を守ろうと日夜働いてくださっているのです。

24時間365日休むことなく交代で働いてくださっている職員の人数は、決して多いとはいえません。全国どこの支援施設でも、職員の人員不足に頭を悩まし、ギリギリの人数や欠員を抱えながらの施設運営という深刻な現実があります。そんな中で、入浴介護もギリギリの職員体制で行われており、こうした中で未曽有の大震災が起きてしまったのです。

大半の職員は入浴介助をしていて、フロアを担当する職員は数名でした。地震が起こり、職員は急いで入浴中の入居者の安全確保と避難をさせ、それ以外の入居者をフロア担当・事務職員・看護師が総出で避難させていました。

僕たち障碍を持つ者にとって、緊急時の対応というものが最も難しく、厳しい現状がたくさんあります。「急ぐ」ということができず、慌ててしまうと、普段自分でできているようなことでもできなくなってしまうのです。「慌てなくていいからね」という職員の声に、どれだけの入居者が救われたでしょう。電動車イスを使用している入居者は自分で避難し、自分で移動できない入居者は、職員たちがピストンで避難場所のホールへと連れていきました。

ホールで避難生活が始まった入居者は、余震が続く中で先の見通しの見えない不安もあり、ストレスを感じてしまう仲間も出てきます。「いつまでここにいればいいんだ」や「自分の部屋に戻りたい」。そんな不満の声が次第に出てきます。

そして口々に話したのは「夜間帯でなかったのが唯一の救いだった」ということでした。入居者60人は、睡眠中には一人でベッドから車イスへの移動も困難な方がほとんどです。それに対し、夜勤者4名、宿直者1名の計5名の職員体制で夜間帯は動いている現状があります。そのような中「もし深夜にこのような震災が起こっていたとしたら・・・」と思うと、避難も難しくパニック状態でケガや命の危険性がある大惨事になっていたかもしれません。

入居者の中には、呼吸器などを必要とされる仲間もいて、電気の確保が問題となってきます。職員はガソリンも手に入れることも難しく厳しい状況の中、必死でガソリンスタンドを何軒も回り、施設車のエンジンをふかし、バッテリーから電気をとりドラムを伸ばしてくる方法で、命をつなぐ呼吸器や医療機器に必要な電気の確保をされていました。

震災から3日たった朝、職員から「昨日の夜、ご両親が来ました」と伝えられました。「嘘(うそ)だろう」。僕は驚きました。「憲を救わなければ。憲は、生きてるよな」。連絡も取れない状況でしたので、東京に住んでいた両親は仙台までたどり着けるかも分からない中で、僕を助けに来てくれたのです。2人は、ガソリンスタンドに12時間以上並んだといいます。

東京への車の中から見た風景

東京に向かう車の中で、僕は初めて震災の爪痕を目の当たりにします。天井が落ちている仙台駅。国道4号線を東京に向けて走れば、家や山なども崩れ、所々で道路も寸断され、迂回をしなければならない状況でした。停電し、一つの明かりもなく静まり返った不気味さを感じながら、12時間かけて東京の実家に避難しました。

実家に戻り安心した僕は、テレビをつけました。そこには、津波の被害や火災。そして、原子力発電所の爆発が映し出されていました。「なんじゃ、こりゃ!」。この時僕は、初めて震災の全貌を知り、言葉になりませんでした。そして、目に焼き付けるようにいつまでもテレビのニュースを見続けていました。

僕と連絡が取れない間、「有田は無事か!」と多くの仲間が心配してくれました。それは、「ありがとう」という言葉だけでは伝えきれない感謝の思いでいっぱいです。

震災から2カ月がたち、僕は仙台に戻ることにしました。仙台青年学生センターに行き、仲間と再会することができました。「お帰り。よく戻ってきてくれたね。帰ってきてくれて、ありがとう」。お互いに涙を流し、お互いに抱きしめ合った日のことを昨日のように覚えています。

センターのある日本基督教団東北教区センター・エマオは、東北教区被災者支援センターとなり、仙台・石巻の沿岸地域を中心に復興支援活動が始められていました。僕自身「何かしたい」と居ても立っても居られないものの、障碍があり、何をすることができず、歯がゆい気持ちになりました。

「実際には活動できないけれど、せめて僕の心だけでも」と、僕は被災者支援センターに顔を出し、ミーティングに参加させてもらっていました。その後は、被災者支援センターの子どもプログラムのボランティアとして一緒に活動に参加してきました。

あれから5年がたちます。テレビや新聞で取り上げられる報道なども少なくなってきました。しかし、東北の被災地では、まだまだ復興が思うように進まず、多くの方々が仮設住宅などで厳しい生活をしておられる現実があります。

「復興」などという言葉を耳にします。僕は思います。仮設住宅などで生活されておられる皆さん全てが自分のご自宅に戻られてから、本当の復興が始まると。

そしてあらためて思います。当時、生活していた場所が支援施設だったことは大変ながらも救われた部分が多いと感じています。もし「在宅で一人でいたらどうなっていただろう」と多くの不安を感じずにはいられません。

現在、地域や各自治体で防災対策が見直され、介助を必要とする高齢者や障碍者が暮らす家庭を事前に把握しておき、災害時・緊急時には救出に駆けつける対策が取られています。

しかし実際に震災などが起きた場合に本当に助けに来てくれるのか。避難生活でどこまで必要な対応をしてくれる余裕があるのか。災害でパニックになる状況が予想できる中で、幾つかの不安が残ります。

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有田憲一郎

有田憲一郎(ありた・けんいちろう)

1971年東京生まれ。72年脳性麻痺(まひ)と診断される。89年東京都立大泉養護学校高等部卒業。画家はらみちを氏との出会いで絵心を学び、カメラに魅力を感じ独学で写真も始める。タイプアートコンテスト東京都知事賞受賞(83年)、東京都障害者総合美術展写真の部入選(93年)。個展、写真展を仙台や東京などで開催し、2004年にはバングラデシュで障碍(しょうがい)を持つ仲間と共に展示会も開催した。05年に芸術・創作活動の場として「Zinno Art Design」設立。これまでにバングラデシュを4回訪問している。そこでテゼに出会い、最近のテゼ・アジア大会(インド07年・フィリピン10年・韓国13年)には毎回参加している。日本基督教団東北教区センター「エマオ」内の仙台青年学生センターでクラス「共に生きる~オアシス有田~」を担当(10〜14年)。著書に『有田憲一郎バングラデシュ夢紀行』(10年、自主出版)。月刊誌『スピリチュアリティー』(11年9・10月号、一麦出版社)で連載を執筆。15年から東京在住。フェイスブックブログ「アリタワールド」でもメッセージを発信している。

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