1. 赤茶けた山並み
窓から見えた山に、緑がない。どうして? マドリードからトレドへ、どこもかも一色。
あまりにもびっくりした第一印象でした。路傍の灰緑色の小さい葉。ヒルガオの一輪があるだけでした。周りをよく見ると、とげを持ったものが幾つかありました。枯れた状態でした。すべてが生のない地の印象です。初めての海外旅行でしたから、30年たった今も強烈に残っています。雨のないイスラエルの夏はこういう状態かな、とふと思いました。
私たちの身近なノイバラ、あざみ、サルトリイバラ、いずれも緑の葉が青々としています。三重、奈良でいばら餅に使う葉は幅10センチ以上もあります。気候差からくる、とげを持つ植物の違いを幾分か見る気がしました。
2. とげ、茨、あざみの位置
学問的に優れ、言葉にたけた宣教者として立てられたパウロは、パラダイスに引き上げられました。パウロ自身の言葉です。「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました」(2コリント12:7)。このとげが目の病ともいわれていますが、彼の働きや生活にとってどれほどマイナスであったろう。彼は主に、取り去ってほしいと「三度」願いましたが、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」(同12:9)と言われました。
かつてニセアカシアのとげが刺さって抜きました。痛いですね。しばらくたてばと思っていましたが、うずくのです。腫れてきている。とげの先が折れて残っていたのです。パウロの病はこのうずき以上だと思います。パウロに対する主のご計画がありました。自分ではどうすることもできないとげの痛みを超えて働く、主の力を経験させられたのです。
神様はギデオンに300人の精兵を選び与えました。ミディアン人をなおも追撃する途中、スコテの人々に、疲れ切った兵のためにパンを求めました。が、むしろ彼らはそしって応じませんでした。ギデオンは言った。これは主の戦いだ。主が勝利を与えて戻ってきたとき、「私は荒野の茨(いばら)やとげで、おまえのからだを打ちのめす」(士師8:7、16)と。
パウロのように、茨やとげの痛みによって謙遜を学ばされることがあります。多くは痛みを伴って、行く手を阻み、次の一歩を踏みとどまらせる主の手として、あるいは阻む手をなお突き進むことへの信仰の試練かもしれません。それは神の前に静まって祈るとき、その人には分かってきます。私たちの働きの善しあしを評価するしるしにもなっています。「耕す人たちに有用な作物を生じる土地は、神の祝福にあずかりますが、茨やあざみを生えさせる土地は無用で、やがてのろわれ、最後は焼かれてしまうのです」(ヘブル6:7、8)
3. 茨は茨から
イエスは言われました。「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか」(マタイ7:16)。イエスの兄弟、ヤコブも手紙で書き送りました。「私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません」。どちらか一方だけです。
ルカも福音書で書き留めています。「木はそれぞれ、その実によって分かります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません」(ルカ6:44)。遺伝を知っている私たちには当たり前のことです。当時の人にとっても普通の現象として見られていたことです。それなのになぜ、分かり切ったことをわざわざ言うのでしょう。
どうもそれぞれ微妙に違うようです。マタイ、ルカ、ヤコブの視点から見てみましょう。
4. 実によって見分ける
「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。・・・良い木が悪い実を結ぶことはできず、また悪い木が良い実を結ぶこともできません」(マタイ7:16〜18)
マタイは良い木と悪い木にまず区別しています。人の側から見てぶどうといちじくの木を良い木に、茨とあざみを悪い木に見立てているようです。役に立っているかどうかで誰でもうなずけます。ユダヤ人にとっては深い意味があります。
ぶどうといちじくには、特別な思いがあります。神はイスラエルを「わたしの民」と呼び、ぶどうの木に例え(イザヤ5:2、7)、またいちじくの木にも例えました。「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた」(ホセア9:10)と特別視しています。良い木は神の前にも良い実を結ぶものとして期待されています。
悪い木は茨とあざみです。とげの故に扱いにくい厄介な種類です。アダムが神に背を向け、罪を犯した結果、大地は、アダムの故に呪われました。神は人に対して茨とあざみを大地に生えさせました(創世記3:17、18)。
イエスが「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか」と言われたのは、「偽預言者たち」(マタイ7:15)に気を付けなければならない大切なことが生じたからです。「彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼(おおかみ)です」(同上)
彼らはどんなに栽培種のように十分な肥料を吸い、立派な木になっても、喜ばれる実をつけることはできないのです。やはり茨の実であり、あざみの実です。どんなに言葉巧みに語っていたとしても、彼らの教えと行いはイエスの福音からかけ離れているのです。真の救いはありません。「こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです」(マタイ7:20)
5. 創造の秩序の中に
「茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません」(ルカ6:44)。ルカは良い木を良い人に例え、その心である良い倉から良い物を出すこと、良い実を生み出す器に焦点を合わせます。創造の秩序にまでさかのぼることです。
いちじくの木がいちじくの実を、またぶどうの木がぶどうの実を結ぶことによって、神の栄光を現します。茨がオリーブの実を結ぶことはできません。望んでもできません。それは創造の秩序です。茨は茨としての働きがあります。ある植物学者の随筆を思い出します。ジャケツイバラが隣家との境界に最適だという一節です。中学生の時に読みましたが、妙に覚えています。
茨に訳されたヘブル語は少なくとも10ありますが、そのうちの2つ(ヘーデク、シール)が生け垣に使われているようです。「怠け者の道は茨(ヘーデク)の生け垣のよう。直ぐな人の進む道は平らな大路」(箴言15:19)。「それゆえ、わたしは茨(シール)で彼女の道に垣根を巡らし、彼女が通い路を見つけないように」(ホセア2:6)
シール(シラー)はトゲワレモコウ(Sarcopoterium spinosum)というバラ科の種です。草丈は50センチ~1メートル、春の間は柔らかいですが、夏にはかたくなり枝は短く、鋭いとげを持ち扱い難い。日当たりを好みます。
あざみは日本で見られるような姿のもあります。キク科のマリアアザミ(Silybum marianum)は美しいピンクの花を咲かせます。実にきれいです。総苞から出るとげは鋭いです。葉縁にもとげがあります。
トレドで見たあざみのようなとげを持ったものはセリ科のエリンギウム(Eryngium sp)の仲間でした。イスラエルに自生しています。それぞれが特異的です。種子を生じ、その性質は受け継がれていきます。ここに神の栄光を見ます。
「天は神の栄光を語り告げ・・・話しもせず、語りもせず、その声も聞こえない。しかし・・・そのことばは世界の果てまで届いた」(詩編19:1〜4)
人は神の似姿に造られましたが、罪を犯したために神の栄光を受けられなくなりました。創造の秩序から完全に外れてしまいました。正しいことを知っても、それをする力は自分のうちにありません。罪の汚れがすべてを支配したからです。
しかしイエス・キリストの、罪の身代わりの死によって、人は救われるのです。信じて、罪赦(ゆる)されると、創造の秩序に従って生きる本来の位置に回復されるのです。こうして初めて、神の栄光を現すという人生の目的に向かって生きる者とされます。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」(1コリント6:20)
「それは、あなたがたが地上での残された時を、もはや人の欲望にではなく、神のみこころに生きるようになるためです」(1ペテロ4:2)
このように、茨や野ばらではなく、いちじくやぶどうの木のように、真に良い人として良い実を結ぶことを、ルカは念頭に置いていたと思います。それは、イエスを救い主として信じ、罪を認め、告白することに始まります。
そうして、神が創造されたときに、神の目的、神の思いが一つ一つに、一人一人にあったことを知るようになり、希望と平安に包まれ、導かれます。
「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている。――主のことば――。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)
この心を頂いて聖書を読み進めていくと、個人的に御心を知らされ、追い求める者とされます。神の言葉、聖書を通して心を満たしていただき、聖霊によって聖(きよ)められつつ、御霊の実を結ぶ者となります。
良い人は、その心の良い倉から良い物を出すという神の創造の目的に、ルカは目を向けさせたのです。
6. 良い木が結ぶ良い実とは
「いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません」(ヤコブ3:12)
ここでヤコブは、茨やあざみには触れていません。良い木だけを取り上げますが、それぞれのなすべきことを強調します。それは、神に喜ばれることに心を使うことです。ぶどうの木がいちじくの木をうらやんだりしないことです。いちじくの木がオリーブの木と比べたりしないことです。そこでヤコブは、泉を例に引きます。「泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。・・・塩水も甘い水を出すことはできません」(ヤコブ3:11、12)
良い実とは、神と共に結ぶ実です。御霊の実です。それは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22、23)です。
ここに霊的な戦いがあります。敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、遊興など肉のわざとの戦いです。しかし、十字架による勝利があります。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです」(同5:24)。ヤコブは上からの知恵によって結ぶ実として語ります。彼自身の体験の証しとも思えます。
「上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません」(ヤコブ3:17)
ヤコブはキリストのしもべとして勧めます。「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」(ヤコブ1:5)
※マリアアザミとエリンギウムの写真は拙著『聖書の植物』にあります。
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