コロナ禍に見る福音派の対応(1)「福音派は無神経」という声に回答する

2020年5月14日17時30分 執筆者 : 青木保憲 印刷
+コロナ禍に見る福音派の対応(1)「福音派は無神経」という声に回答する
※ 写真はイメージです。(写真:Jantanee Runpranomkorn)

ツイッターやフェイスブックなどを見ていると、米国の福音派の動向について、国を挙げて新型コロナウイルスに立ち向かうべきなのに、それに反対、もしくはまったく意に介さず礼拝堂に集まり続けている、という記事がシェアされているのを目にする。またそれに対する非難のコメントも散見できる。

このことを受けてだろうか、日本でも「福音派って何て無神経なの」という意見があることも聞く。もちろん日米の差はあるだろうが、同じ聖書信仰に立つ福音主義者であることから、米国の福音派も日本の福音派も、そのメンタリティーは重なる部分が多くあることは間違いない。

しかし、彼ら(そして私たち日本の福音派)は決して、「のほほん」と牧歌的な世界観で世の中を眺めているわけではない。ましてや無神経に人の迷惑も顧みず、自分たちの我を押し通しているわけでもない。そこには確かに、独特だがそれなりに「理に適った」考え方が存在するのだ。

問題はそれを「どの程度実践するか」ということで、多様性が生まれる要因となっている。つまり「こう考えているのだから、それをそのままやっていいじゃないか!」という単純ストレートなものから、「やはり、世の中と自分たちとは価値観が違うよな。だから様子を見て、やれるところからやってみよう」と、周囲と駆け引きをするものまで、その行動は多岐にわたる。だが、本質的に向いている方角は、福音主義に立つ者という意味では、おおよそ同じとなる。

卑近なところから始めよう。私が所属する福音派の教会は、緊急事態宣言が最初に出された7都道府県の一つ、大阪府にある。当然、新型コロナウイルスが姦(かしま)しく騒がれ出すにつれ、「礼拝をどうするか」という問題が大きくなってきた。牧師たちは、他教会の対応もチェックしていたし、教会員からのアドバイスも耳にしていた。そして「私たちの教会はどう判断しようか」と考えることになった。牧師たちは基本的に「できる限り現状維持」、つまり教会で集まる形の礼拝を何とか継続できないかと模索した。そして「席を空けて座れば集会をしてもいいのではないか?」「換気をよくしたらいいのでは?」という「継続派」と、「やはりこの状況では、オンラインによる礼拝に切り替えるべきではないか?」という「穏健派(?)」が建設的に意見を出し合った。その中で、両者が初めから一致していたのは、「礼拝はどんな形であっても継続する」という信念である。

一方、私の友人の教会では、「緊急事態宣言下では礼拝を行わない」という決断をしたところもある。この教会は福音派ではない。教会員に高齢者が多いため、彼らの安全を第一に考えたのと、また彼らの多くがインターネットで配信するオンライン礼拝に対応できないからとのことだった。しかし、その友人牧師は「これは苦渋の決断でした」と声を振り絞った。

まず押さえておきたいことは、福音派にとって「礼拝出席」は、命懸けで取り組むべき事柄であるということである。福音主義者とは基本的に、イエス・キリストの十字架によって罪赦(ゆる)されたと信じる人々であり、同時に聖書を字義通りに捉え、これを人生の指針として受け止める生き方を選択した者たちである。

すると、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という聖書の言葉は、たとえそれを実践した結果、命を取られるようなことになったとしても、その考え方を曲げることはあり得ない、となる。全員がそうではないが、基本的にそう考えることを旨とする集団が福音派となる。彼ら(私たち)は、究極な有言実行型のポジティブな人生観を持っているということになる(笑)。

だから、SNSで非難を浴びているように、彼ら(私たち)の言動がキリスト信仰を持たない人々、あるいはキリスト教徒であっても福音派ではない人々、特に福音主義的な在り方を体感したことのない人々からすると、「形として現れた行動(アウトプット)」でしか判断できないため、「無神経」や「信じられない」という表現につながってしまうのだろう。しかし内部にはいろいろと葛藤があるし、その葛藤の中でどうやって自分の生き方の筋を通そうかと日夜悩み続けている、というのが実情だろう。特に日本人の場合、このバランス感覚に特に気を遣う傾向があるように思われる。

もちろん米国においても、この葛藤に対するアウトプットには幅がある。よく聞かれるのは、天変地異や世界規模の「事件」が発生したとき、それを「神からの警告」とか「裁きの前兆」と訴えるやり方だ。コロナ騒動を例に取るなら、「コロナは神が人間に何か警告を発しているのだ!」となる。しかしこれは、キリスト信仰を持たない人々を断罪したり、自分たちの信仰を押し付けたりすることになり得る。

こうした言動は、日頃から内面に葛藤を抱えている場合に陥りやすいパターンである。コロナ騒動は単なる「きっかけ」にすぎない。彼らはこの葛藤を怒りに変えて、自分たちの在り方を理解しない人々・社会を非難してしまう。こうなると、人々の支持は得られないし、反目し合う中で調和は生まれてこない。

だが、そのような言動を取る人々も、冷静になって胸の内を伺うなら、意外にシンプルな感情を吐露することがある。それは、福音派としての自分たちのライフスタイル(礼拝を第一にして生きる姿勢など)を他者に認めてもらいたいということに着地する場合が多い。ささやかな願いをチキンハートに収めていただけ、ということも往々にしてあるのだ。

とは言え、多様な立場・信仰の人々がいる中で、このようなアウトプットは確かに頂けない。もちろん福音派の中には、熱烈に支持する人もいるだろうが、振れ幅が大きい分、しっぺ返しも高くつく。例えば、米同時多発テロ事件(9・11)では、「これは米国に対する神の裁きだ!」と訴えたパット・ロバートソン牧師(ペンテコステ派だが)は、政治的にも影響力の強い牧師であったが、これがきっかけで政治の舞台からは完全につまみ出されてしまった感がある。

しかし、コロナ禍で浮かび上がってきた問題は、単に福音主義者の心と言動のバランスが揺れ動いている、というだけではない。そもそもキリスト教の歴史を振り返ってみるなら、信仰者の生き方と国家の施政とは、さまざまなつばぜり合いを展開して現在に至っているのである。キーワードとなるのは「国家と教会の相克」である。

そこで次回は、このコロナ騒動から見えてきた「国家と教会の相克」について考えてみたい。(続く)

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青木保憲

青木保憲(あおき・やすのり)

1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。

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