パウロとフィレモンとオネシモ(13)「パウロの元からフィレモンの元へ」―パウロがフィレモンに願っていたことは何か― 臼田宣弘

2020年4月2日10時04分 コラムニスト : 臼田宣弘 印刷

新型コロナウイルスの終息をお祈り申し上げます。本コラムは、いよいよ今回から手紙の核心部に入ります。冒頭で、いつものように拙集中構造分析を提示します。

あいさつ文と祝祷 1~3節 A´ 23~25節
祈り 4節~5節 B´ 22節
善い行い 6節 C´ 21節
牧会 7節 D´ 20節
フィレモンへの愛 8~9節 E´ 19節b
オネシモの過去と今 10~11節 F´ 18~19節a
オネシモの送り帰しと迎え入れ 12節 G´ 17節
パウロの元からフィレモンの元へ 13~14節a H´ 15~16節
善いことが自発的になされる 14節b(中核部)

今回はこのうちの「パウロの元からフィレモンの元へ」と名付けた「HとH´」についてお伝えします。特にギリシャ語原文でこの箇所を読みますと、最核心部ということで、パウロの高揚感がひしひしと伝わってくる箇所です。

 13 本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、14a あなたの承諾なしには何もしたくありません。

 I 14b(中核部)それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。〕

 15 恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。16 その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。

パウロと奴隷制度

今回の箇所は「オネシモが奴隷である」ということが論点の中心となってきますので、「キリスト者が奴隷をどう見るか」について、パウロが書いているところを引用しておきたいと思います。本コラム第10回で理由をお伝えしましたが、真性書簡であるフィレモン書を論じる場合は、パウロの他の真性書簡(ローマ書、第1コリント書、第2コリント書、ガラテヤ書、フィリピ書、第1テサロニケ書)からの引用にしたいと思います。幾つかの箇所を取り上げたいと思いますが、最初に洗礼を受けた奴隷がどのように見られるかについて書かれている2箇所を取り上げたいと思います。

つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。(コリント一12:13)

あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。(ガラテヤ3:26~29)

このように、洗礼を受けた奴隷は、自由な身分の者と同じキリストの体となるということが示されています。では、奴隷は自由人と同じ身分になるかというと、パウロはそのようには書いていません。次のような記述もあります。

おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。(コリント一7:20~24)

この箇所などを根拠として、「パウロは奴隷制度の否定はしなかった」という見方が一般的です。今日、奴隷制度は世界中において否定されていることからすると、パウロがそれを否定しなかったことには、少なからぬ反発感を持ちます。なぜ否定しなかったのか、その理由は私には分かりません。当時の状況では、それが限界だったのかもしれません。以上のことを踏まえますと、オネシモがフィレモンの奴隷であるということは、厳然たる事実であったのだろうと思います。

パウロの願いは何か

パウロが、フィレモン書において、オネシモの何をフィレモンに願っていたのかということについて、一般的には何が言われているのかを見てみたいと思います。例えば、新約聖書学者の荒井献氏は、『パウロをどうとらえるか』の中で、「主人たるピレモン(フィレモン)に奴隷オネシモを『兄弟』『友』として迎え入れることを懇願しているのである」としています(同書143ページ)。その上で、「21節の『私が言う以上のこと』は『(奴隷からの=筆者注)解放』を暗示すると見ることも少なくとも可能ではないであろうか」としておられます(同書144ページ)。注解書などをいろいろ調べてみた限りでは、この手紙の核心部の解釈は、荒井氏と同様、フィレモンがオネシモに対して、「奴隷でありつつも信仰の友となることを願っている」としているものが一般的です。

前回、12節と17節から、「パウロはフィレモンとオネシモに対して、『主人と奴隷の関係から脱すること』を望んでいるのではないか」ということをお伝えさせていただきました。私は13~16節におけるパウロの願いは、「オネシモを奴隷から解放してほしい」ということではないかと考えています。本コラムで今まで考察してきましたように、オネシモを宣教者として立てるためには、オネシモを奴隷の身から自由の身にしなければならないからです。

当時のローマ社会においては、奴隷を解放できるのは主人のみだったのです。パウロが宣教者としてどれだけ力を持っていたとしても、オネシモを奴隷から解放できるのは、基本的には主人であるフィレモンのみだったのです。オネシモがフィレモンの奴隷である以上、オネシモが何かをするためには、主人であるフィレモンの同意が必要であったのです。獄中のパウロの世話をするという程度の奉仕は、フィレモンの命令ないし同意があったと思いますが、パウロの本当の願いは、福音宣教に共に仕える奉仕者とすることではなかったのかと思います。

「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが」(13節)の、「福音のゆえに監禁されている間」というのは、広い意味のある言葉であろうと考えています。エフェソの監獄に監禁されているという意味であるとともに、「キリストに監禁されている」という意味合いもあるのだろうと思います。「仕える」(デイアコネオー / διακονέω)という言葉は、使徒言行録19章22節では「自分に仕えている者の中から、テモテとエラストの二人をマケドニア州に送り出し、彼自身はしばらくアジア州にとどまっていた」として使われています。パウロはオネシモを、テモテのような立場に置きたかったのではないかと思います。

しかし、「仕えてもらってもよいと思った」にもかかわらず、「あなたの承諾なしには何もしたくありません」(14節a)とパウロは言います。「それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」(14節b)というのが理由です。この14節bは、集中構造分析によるこの手紙の中核と思われ、パウロがフィレモンに望んでいることの信仰的な動機という、この手紙で最も大切なことですので、次回に別途扱うこととします。

続けてパウロは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」(15節~16節a)と書きます。私は、この場合の「いつまでも」(アイオーニオス / αἰώνιος)という言葉に注目しています。旧約聖書の申命記15章16~17節には、終身奴隷のことが記されています。そこには、「もしその奴隷があなたとあなたの家族を愛し、あなたと共にいることを喜び、『わたしはあなたのもとから出て行きたくありません』と言うならば、あなたは錐(きり)を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう。女奴隷の場合にも同様にせねばならない」とあります。

この「終生あなたの奴隷」は、七十人訳聖書(ギリシャ語訳旧約聖書)では、「ソイ オイケテース エイス トン アイオーナ / σοι οἰκέτης εἰς τὸν αἰῶνα」といいます。「アイオーニオス / αἰώνιος」と「アイオーナ / αἰώνα」は同じ語です。パウロが、「あなたが彼をいつまでも(アイオーニオス / αἰώνιος)奴隷ではなく奴隷以上の者として、つまり愛する兄弟として自分のもとに置くためです」としているのは、申命記のこの語を脳裏においているのだと考えています。つまり、「オネシモが一時、フィレモンの元を離れていたのは、『終身の奴隷ではない終身の兄弟』となるためであったかもしれない」と書いているのです。それは他でもなく、「オネシモを、奴隷から自由の身に解放するためであったかもしれない」ということです。

オネシモは、パウロの元で奉仕してから、フィレモンの元に戻るのですが、その際に奴隷の身分から解放することが、手紙の最重要部で望まれていると私は考えています。ただし、「恐らく~かもしれません」という婉曲な書き方をすることにより、フィレモンの自由意志が尊重されています。

16節後半「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」については、「一人の人間としても(エン サルキ / ἐν σαρκὶ)」は、直訳では「肉においても」となります。「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」ということです。

マルクス・シドニウス・ファルクス著『奴隷のしつけ方』によりますと、ローマ帝国においては、奴隷は解放されても主人と緊密な関係にあったようです。主人と奴隷の関係が、パトロヌス(保護者)とクリエンテス(被護者)となり、それは父と子の関係のようなものであったようです(同書204ページ)。「肉において兄弟である」とは、この関係であると思われます。前述の第1コリント書12章13節、ガラテヤ書3章26~29節によるならば、教会においてはフィレモンとオネシモは兄弟であったのかもしれませんが、それが私的な関係にもなるはずだと、パウロが言っているように思えます。

オネシモの「奴隷からの解放」という、フィレモンでなければできない重要なことを願っているのが、この短いパウロの手紙であると私は考えています。(続く)

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臼田宣弘

臼田宣弘(うすだ・のぶひろ)

1961年栃木県鹿沼市生まれ。80年に日本基督教団小石川白山教会(東京都文京区)で受洗。92年に日本聖書神学校を卒業後、三重、東京、新潟、愛知の各都県で牧会。日本基督教団正教師。2016年より同教団世真留(せまる)教会(愛知県知多市)牧師。愛知牧師バンドのメンバー(キーボード担当)

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