コロナ騒動から見えてくるもの―宗教的世界観と世俗的世界観の間で(2)

2020年3月30日15時06分 執筆者 : 青木保憲 印刷
+コロナ騒動から見えてくるもの―宗教的世界観と世俗的世界観の間で(2)
新型コロナウイルス対策のため地下鉄の車両内部を消毒する従業員=2月26日、イラン・テヘランで(写真:Zoheir Seidanloo)

かつて欧州でペストが流行したとき、人々はこの疫病を神の裁きだと考えた。そう教会は訴えたし、そうすることで人心掌握の手綱を強めることもできた。もっとも、そのような疫病の前に無力だったカトリック教会は、長い目で見るならその後、斜陽化していったともいえるが・・・。その時代、14世紀の中世欧州社会には、「宗教」など存在しなかった。なぜならその時代にはキリスト教的世界観のみが存在し、それが「世の中の考え方」だったからである。

しかし宗教改革を経て近世が始まり、17世紀から18世紀にかけて、人間の理性と科学の探求がもてはやされるようになっていった。それに伴い、かつてのキリスト教的世界観は徐々に解体され、科学的見地に対する人文学的領域に追いやられてしまう。そして、かつて自分たちの「端女」とみなしていた哲学の一セクションに甘んじることになってしまう。

「科学VS宗教」という対立が頂点に達するのが、19世紀末から20世紀初頭である。特にキリスト教世界では、聖書の事実性をめぐる争いが米国で激化し、「ファンダメンタリズム論争」が勃発する。しかし、その後の2つの世界大戦を経る中で、宗教的道徳性を疎かにした科学一辺倒の世界観が、大量破壊兵器の量産につながったという反省を人々に促した。そのかいあってか、両者はその対立を沈静化させ、時代は20世紀から21世紀へと進むことになった。断層は、互いに歩調を合わせようとする両陣営の努力によって日常生活ではさほど感じられなくなり、むしろ両者を包括的に捉え、ホリステイック(全人的)な世界観を目指すべきだという声も生まれてきたほどである。

また、宗教性は個人の領域にとどめることで、世俗的な世界観に緩やかに取り込まれ、多様性を肯定する世界観を基軸に、調和は個々人の間で保てるとするグローバルな調和理論がもてはやされるようにもなっていく。

しかし私たちは、この耳障りのいい理論・世界観が、実は危ういバランスの上に条件付きで成り立っていたことに、今回のコロナ騒動を通して気付かされてしまったのである。

その条件とは、各々の世界観に関心を示さない者は、それに関わらない、それを拒否できるという選択肢が保障される限り、ということである。これは従来の「信教の自由」を逆の立場から読み替えているともいえよう。何を信じてもいい自由はある。しかし今問われているのは、信教の自由が保障する特定宗教に対し、興味関心のない者はそれらに関わらなくてもいい、それを拒否できるという意味での自由、つまり「非信教の自由」とでも言えばいいだろうか。

前述したクラスター(集団感染)を発生させた韓国の宗教団体も、終油を施したカトリック司祭も、各々の信じることを実践した(信教の自由)という意味では、何ら責められるところはない。平時ならば。しかしその行為が、今まで意識されてこなかったとはいえ、「非信教の自由」を侵すことになったとしたらどうだろうか。韓国の宗教団体の信者でない者が、信者と遭遇し、そこで感染させられたとしたら、それは「関わらなくてもいい」「拒否できる」という前提を否応なしに打ち壊すことになってしまう。司祭は己の信念(信仰)にのっとって、犠牲もいとわず崇高な行為に身をささげたということになろうが、ウイルスの保菌者となった彼と、多くの非カトリック信者たちはすれ違ったり触れ合ったりせざるを得ない。

それ故、人々は、今まで覆い隠されていた宗教的世界観と世俗的世界観との断層を「再発見」し、両者のズレが引き起こした「生命の危機」に向き合わざるを得ない。17世紀以降、人類が抱えた宗教と科学の矛盾した世界観は、宗教を個々人の胸の内へ押し込め、科学の行き過ぎを反省することで、何とか調和を保つことができていたのである。

しかし疫病は、宗教的親和性の高い人間、まったくそうでない人間の違いなく、有機的生命体である以上、誰にでも感染する可能性を持っている。すると両者は入り混じって生活している以上、関わらざるを得なくなる。つまり17世紀以降、人類が培ってきた「異なる信条を持った者同士の共生術」は、疫病のグローバルなまん延によって阻害されつつあるのである。

では、私たち信仰者は何ができるのだろうか。私たちが見直すべきは、「信教の自由」とは初めから保障されていたものではなく、先人たちのたゆみない努力と忍耐の結果、勝ち取られたという歴史である。ここで各宗教の教理を持ち出すのはルール違反だろう。「非信教の自由」もまた保障された世界に、私たちは生きているからである。私たちが同じ世界に生きている以上、「信教の自由」を文字通りの自由として守りたいなら、他者の権利と自由もまた保障する者でなければならない。それは一律に決められることではないだろうが、だからといって、「信教の自由」がアプリオリな権利だと考えることは、甚だしい誤解である。

いつの時代も、独裁や圧政、そして思想統制に傾く危険性を持っている。だからこそ「信教の自由」は、私たちの手で守らなければならない。そのためには、逆説的だが「非信教の自由」を守ることが求められているといえよう。宗教的世界観を抱きつつ、世俗的世界観へ目を向けることである。世俗にどっぷりと浸かる必要はない。しかし教会もキリスト教も、この世の中に存在するものであることは否定できない。前者は礼拝堂を持つことで所在地が与えられ、後者は中東イスラエルから始まったという意味において、2千年にわたる毀誉褒貶(きよほうへん)の歴史を内包している。この事実から、私たちは目を背けてはならない。

今回のコロナ騒動は、確かに私たちの生活を阻害し、やりたいこと、計画したことを阻む害悪である。しかしその害悪と向き合うこの時こそ、自らの過去を顧み、現在置かれている立場を理解し、この騒動が沈静化した後にやってくる(であろう)自由について、熟考するまたとない時ではないだろうか。(終わり)

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青木保憲

青木保憲(あおき・やすのり)

1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。

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