コロナ騒動から見えてくるもの―宗教的世界観と世俗的世界観の間で(1)

2020年3月30日15時05分 執筆者 : 青木保憲 印刷
+教会ができる新型コロナ対策、WEAが米疾病予防管理センターの指針もとにガイドライン
新型コロナウイルスの感染拡大のため、フェイスブックまたはユーチューブで、説教のインターネット配信のみを行っていると表示する教会の案内板=3月23日、米オレゴン州ポートランドで(写真:Tedder)

コロナ、コロナ、コロナ・・・。どこもかしこも、この言葉が踊る。目には見えないが私たちの生活を根本から変えてしまうこのウイルスによって、疲弊させられ、神経をすり減らされ、喜びや感動のみならず、人生の節目を思うひとときすら奪われつつある。同時に、この騒動によって各国の危機管理体制の違いが露呈し、さらに若年層と高齢者の間の認識のギャップも顕在化している。4年に一度のスポーツ祭典も延期を余儀なくされ、多くの国々の子どもたちは、「うれしくない長期休暇」を否応なしに取らざるを得なくなった。感染者、死者は共に増加の一途をたどり、収束の気配すらない。

2020年が始まった当初、一体誰がこんな事態を想定できたであろうか。しかしこれが現実である以上、私たちはそのただ中で生きることしか選べない。こうした状況は、私たちに「人としてどう生きるか」という哲学的な問いを、より強いリアリティーをもって投げ掛ける。今回の「コロナ狂騒曲」とでもいうべき騒動を通して、今まで人々の目に触れることのなかった「相克」が、私たちの現実をむしばんできているともいえるだろう。

もちろん一番に願うことは、一日も早い事態の収束と日常生活の回復である。しかし視点を変えるなら、このような事態が生じたからこそ、今まで見えなかったものが見えるようになってきたといえないだろうか。顕在化しつつある「相克」の意味を理解し、それを踏まえた新たな世界観を構築することができるとしたら、コロナ騒動が終焉(しゅうえん)を迎えた後に、私たちは積極的な意味で「新しい世界」を切り開くことができるのではないだろうか。

だから、一人の牧師として、神学者として、この問題に一定の見解を示したいと思う。断っておくが、以下に示すポイントは、あくまでも私個人の考察である。賛同してもらいたいとは願うが、そう思わない人、反発を覚える人もおられるだろう。どうかご容赦願いたい。

このコロナ騒動では、ウイルス発生地の中国・武漢をはじめとした都市封鎖、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号をめぐる対応、すでに欧州で現実化しつつある医療崩壊など、特に注目が集まる、あるいは集まったトピックスがある。そして、その一つとして私たちの記憶に新しいものに、韓国の新興宗教団体「新天地イエス教証しの幕屋聖殿」(新天地)における集団感染がある。結果、教団の代表がメディアの前で土下座して謝罪するという事態を引き起こしてしまった。これをどう見るか。

韓国のキリスト教界においては、その教理や布教方法に対してこれまでも批判があったが、彼らは、国家が定めた法を犯すようなテロリスト的集団ではなく、信教の自由に基づいて与えられた権利内で行える集会を開催していたにすぎない。しかし結果として、韓国の集団感染に一役買ってしまい、疫病に対する無知を露呈してしまったことで非難されることとなった。

それ以後、特に韓国では、キリスト教会に対する礼拝「自粛」の圧力が強くなり、世界各国の他の宗教団体においても宗教活動の「自粛」を余儀なくされる風潮がある。特にキリスト教会は、礼拝を中止するか、ネット配信(いわゆる無観客)に移行して礼拝を行うことで何とか急場をしのごうとするところが多い。

この事態をより卑近な例で取り上げるなら、こういうことが起こり得るだろう。例えば、新型コロナウイルスの話題で持ちきりの現在において、あなたが熱心なキリスト教信者であり、職場で未信者の友人から「あなた、日曜日に教会に行ったの?」と尋ねられたとする。熱心な信仰を持っていたあなたは、当然のこととして「行ったよ」と答える。すると、その友人は眉をひそめ、そそくさとあなたのそばを離れ、手を洗いうがいをする、ということになる。

おそらく友人の言い分とあなたの言い分はいつまでもかみ合わないだろう。なぜなら、それぞれが立脚している前提が異なっているからである。あなたからすれば、自分は信仰者としてどんな状況にあっても礼拝を第一とし、神を最優先にする生活を営んでいるという自負があるだろう。一方、未信者の友人からすれば、これだけ集団感染が頻発し、予防策が叫ばれているのに、そしてどうしてそのような予防策が必要かも語られているのに、あまりにも無頓着、無知、無責任ではないか、ということだろう。結果「やはり宗教は怖い」となるのが日本人の常である。

欧州では、カトリックの司祭がウイルス感染で多く亡くなっている。高齢の司祭が多いことも理由の一つだが、ウイルス感染で亡くなった人々に対し、カトリックにおける7つの秘跡の1つである「終油(病者の塗油)」を施していたことも理由として挙げられている。終油とは、臨終時の病人に特別な油を塗ることで、無事に天国へ行ける備えをする儀式である。

考えてもらいたい。カトリックではない人たちからすれば、どうしてこんなウイルス感染拡大時期に、ウイルスに感染した重篤者の体に油を塗るという行為を敢行したのか、まったく分からないだろう。見方によっては、司祭は自殺にも等しい行為をしてしまった、と判断されることもあろう。これは、医療従事者が治療を施している現場で感染するのとは異なった状況である。

宗教行為は、世俗からは「そんなことしなくてもいいのに、今はそんな時ではないのに」と思われてしまう。しかし宗教的世界観を自らのそれとして受け止めている者からすると、見解はまったく逆である。「どうしてもしなければならない、今がその時だ」となる。

そういう意味では、今回のコロナ騒動を通して最も露わになったのは、宗教的世界観と科学技術優先の世俗的世界観の断層である。今までこの断層は存在していたとしても、それほど人々に違和感を抱かせない程度の小さなズレでしかなかったか、一部の狂信的な集団が反社会的な行動を起こすことによって引き起こされた特殊な事例においてであった。(続く)

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青木保憲

青木保憲(あおき・やすのり)

1968年愛知県生まれ。愛知教育大学大学院を卒業後、小学校教員を経て牧師を志し、アンデレ宣教神学院へ進む。その後、京都大学教育学研究科卒(修士)、同志社大学大学院神学研究科卒(神学博士、2011年)。グレース宣教会牧師、同志社大学嘱託講師。東日本大震災の復興を願って来日するナッシュビルのクライストチャーチ・クワイアと交流を深める。映画と教会での説教をこよなく愛する。聖書と「スターウォーズ」が座右の銘。一男二女の父。著書に『アメリカ福音派の歴史』(2012年、明石書店)。

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