日本宣教論(98)政教分離 後藤牧人

2019年8月20日15時56分 コラムニスト : 後藤牧人 印刷
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さて「政教分離」は、マスコミの誤訳らしいと言った。たぶんマスコミがその場限りのつもりで、一時的に使用した訳語を日本社会の全体が丸呑みし、キリスト教会も同様で、ただちにそれが確定してしまった、ということなのだろうか。

これは単に、ジャーナリズムだけの責任ではない。この語を独り歩きさせたのは、日本社会全体である。キリスト教会もこれをうのみにしていて疑っていない。

この日本的な「政教分離」の概念は、西欧の伝統と日本の歴史的現実の違いに気付かぬところから生まれてしまったもので、単なる誤訳というよりは、概念の混乱が露呈した例と言うべきだろう。

戦後の混乱の中で、連合軍司令部から「政教分離」という原則が来たらしい、と思ってしまった。これからは、日本政府は「宗教無縁主義」で行く、宗教がからめば政府はタッチしてはならない。無神論的な儀式や思想なら使ってよい、と理解したのであろう。

ここで問題になるのは、キリスト教会もその言葉の意味を検証することなく使ってきており、それが固定し、自分たちこそ政教分離のチャンピョンであり、先頭を切って日本社会に、それの励行を迫っているということである。

つまり日本のクリスチャンは、無神論擁護をやっているのである。確かに、戦後の混乱ではそういうこともあり得ただろう。だが、その後も、これを再検討しようという動きがキリスト教会にないのである。これは問題である。日本国憲法も、決して無神論を標榜してはいない。

「政教分離」が独り歩きして、無神論優先の概念が横行し、キリスト教会も賛成し、戦没者追悼の施設は無宗教なら作ってもいい、などと言っている。どうも自分たちが何をやってるのか、気付いてないのである。無神論は、サタン的な思想である。政府がそれを公式の立場として採用するのだとすれば、それこそクリスチャンは反対すべきである。

1988年版の平凡社の世界百科事典の「政教分離」を見ると、このような欧米流と日本流の思想的な相違についての認識は見られない。執筆者は概念の混乱を犯したままで書いている。もっとも日本中がそうなのであって、これは一例にすぎないのであるが。

そもそも誤訳の例など幾らでもあって、珍しくないのである。ここで他人の誤訳をあげつらうなど大人気ない。しかし、実はこの裏にもっと重大な問題が隠れている。それは、日本のキリスト教が無神論に対して友好的であり、親近感を持っているということである。つまり日本のクリスチャンが、日本流の「政教分離」に疑問を持たないのは、無神論に親しみを感じているからである。

つまり「無神論的政策で、日本の迷信的なものを一掃(あるいは中和)すれば、福音伝道がやりやすくなる」、無神論的な施策で「神道的なもの」を排除すれば伝道が進む、という意識がどこかにあるのだ。実は、それが一番大きな問題である。

すなわち、この無神論的な政教分離の原則により、神道的なものを押さえる。だから無神論的な世界観はキリスト教の味方で、これが日本的体質を取り除く。そういう思考らしいのである。

確かに合理的精神は、迷信の敵かもしれない。しかし、敵の敵は味方とは限らない。そもそも人間理性から出た合理主義は福音の味方ではなく、福音宣教のための道具にはならない。

そのあたり、明治開化主義に伴って西欧の文化が入ってきたときに、合理主義とキリスト教文化とがセットになって紹介された。そういう思考を引きずっているのかもしれない。それが日本文化の底にある無神論的な傾向と組み合わさっているのだろうか。いずれにしても、これは再考を要する事柄である。

迷信も無神論も、同じくサタンの業である。無神論のほうが、福音により近いなどということは絶対にないし、無神論にプレ・エバンジェリズム的な価値があるなどと思うのもとんでもない誤解である。

なるほど、無神論と合理主義によって、迷信は一見掃除されるかもしれない。しかしきれいになれば、悪霊がさらに仲間を連れて来る(ルカ11:25、26)ので、結果はもっと悪くなるだけである。日本のキリスト教が合理主義と無神論に対して親和感を持っているとすれば、それも伝道の進んでいない、もう一つの理由かもしれない。

そうしてその親和感は、「政教分離」をめぐる概念の混乱によく露出しているように思えて仕方がない。

論語には孔子が「われ怪力、乱神を語らず」とあって、儒教は無神論的であるのは何となく分かっているつもりだったが、この度「礼記」を前半だけであるが、読んでいて2つのことを発見した。

そう、一つは喪礼についての細かな規定のところで葬儀の方法、服喪の在り方などが詳しい。本人が王族であるか、貴族か、また庶民の場合など、それぞれ細部にわたって、儀式のやり方、使用する器具、その材料など精密に論じてある。ところが死後の世界についての言及とか、また霊魂がどこに行ったか、についての叙述などまったく一言もない。実に、徹底して唯物的である。

もう一つは礼記の中で呪いをしたり、護符を与えたりする者は死刑にせよ、という規定があるのを見て驚いたことである。日本の無宗教主義のルーツの一つが、ここにもあるのかと思った次第である。

幕府は、公式には儒教を治政の哲学として採用した。これは儒教が現世哲学であり、真理性の探求を持たないからであるといわれる。家康は部下の旗本の中に浄土宗の信徒をかかえており、殿は一代だが、仏法は末代だ、などという意識の者も多く、家康は浄土信仰を恐れて警戒した、といわれている。

儒教は真理性の探求をせず、現世の主従関係を規定する倫理のみを提供した。これは封建制度下にあっては、権力者たちにとって都合がよかったのである。

欧米における「教会と国家の分離」原則の成立のためには、長い闘争と論議と試行錯誤の歴史がある。ところが日本では、「政教分離」は実に至極簡単に受け取られてしまった。物分かりのいい日本人は、パッと分かったと思ったのである。ところが、その概念の分析はされたことがないようで、誤訳から来ていることも認識されていないのである。

この粗雑さと、いい加減さはいったいどこから来たのであろうか。まことに心寒い次第である。これも、日本宣教が進んでいない理由の一つに挙げられるだろう。

(後藤牧人著『日本宣教論』より)

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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)

後藤牧人著『日本宣教論』

日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。

(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)

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後藤牧人

後藤牧人(ごとう・まきと)

1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。

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